裸足の女神
栞如→十三歳
千→八歳
エピソードタイトルは無視でお願いします。
「栞如、今日は詩経について教えて」
いつもの如く、黒目がちな切れ長気味の眼で甘えるように上目遣いに懇願され、栞如は小さく苦笑する。
無邪気で愛らしい、愛すべき従弟。だがしかし、同時に酷く憎らしくもある。
「今日は無理だと言っただろう。我儘だな、千は」
腰を下ろし、目線を同じにして言うと、彼は拗ねたように白皙の頬を膨らませた。
五つ年下の従弟は、子ども扱いされることを極端に嫌う。それを知っている栞如は、わざとこんな態度を取っては、悔しげに剥れる姿に密かに歪んだ悦に浸るのだ。
膨れた滑らかな頬を悪戯半分に突くと、千は顔を真っ赤にして形の良い唇をへの字に曲げた。
「栞如の意地悪! もう遊んであげない」
「そう。いいよ、別に。わたしは困らないもの」
これ重畳とばかりにさっさと踵を返すと、予想外の展開に慌てたのか、バタバタと後ろを追い駆ける軽い足音が聞こえる。
「ま、待って、栞如。待ってよ」
必死に追い縋る声を無視して早足に進む内に、耐えられなくなったのか、後ろから小さく啜り泣く声が聞こえてきた。
やり過ぎたかなと少々後ろめたく思いつつ振り返ると、まだ童子と言ってもよい程に幼い純真な従弟は、大きく見開いた両の眼に泪を溜めてしゃくり上げていた。
「――絶対に邪魔しないって約束出来る?」
その言葉に、千は泣き顔をぱっと破顔させる。
「うん!」
「じゃあ、仕方ない。おいで」
言い終わらない内に、千は栞如の胸に勢い良く跳び付いた。
講義を終え、房室から出て行く教師に向かって軽く目礼をした後、栞如は己の膝の上に頭を乗せ、すうすうと健やかな寝息を立てて眠っている少年に視線を落とす。
いかに英邁であるとはいえ、未だ八つの幼子である。講義の内容を理解し切れずに途中で眠ってしまったのだろう。
柔らかな頬をそっと撫でると、彼は眠ったまま微かに笑みを浮かべた。
「ずっとこのままでいてくれたなら…」
このまま、己を超える存在にならなければ。そうすれば、憎まずに済むのに。
ふとそう思い、栞如は自嘲する。
――何を莫迦なことを。いずれ自分は完全にこの子に抜かされる。
そんなことは、もう眼に見えているのに。
「う…ん」
瞼を擦りつつ、千が眼を覚ます。
己を見下ろしている栞如に気付くと、彼は嬉しげに微笑んだ。
「講義、終わった?」
「――ああ」
微笑み返すと、千は栞如の膝から頭を上げ、彼女の首に抱き付いた。
「今日の話、あんまり簡単過ぎてつまらなかったから、途中で寝ちゃった」
何気なく漏らされた一言に、栞如は愕然と凍り付く。
――今日の講義が簡単過ぎるだって?
…そんな莫迦な、わたしには全てを理解し覚えることなど出来なかったのに。
五年の差が、見る間に縮まってゆく。
十三の今、自分が必死になって学んでいることを、何故この八つの少年にこうも容易く理解出来る!?
「…栞如?」
訝しげな声に、身を硬くして青褪めていた栞如ははっと我に返った。
「…いや、何でもないよ」
強張った表情のまま小さく首を振る栞如に、千は不思議そうに小首を傾げていた。
夜。床の傍の机に着いて講義内容を纏めている時、戸の外に人の歩く音を聞いた栞如は、竹帛に走らせていた筆をコトリと硯に置いた。
燭台によって映し出された小さな人影は戸の前を幾度もうろつき、絶え間なく不安げに揺れる。
小さく溜息を吐き、栞如は机を壁の隅に寄せた。
「いいよ、お入り」
一呼吸遅れて戸がギイと開き、枕を抱えた不安げな少年の整った顔がチラと覗く。
小さく手招きすると、千はほっとしたように顔を綻ばせ、とたとたと走り寄ってくる。
「どうした」
ここ最近は余り共に眠りはしなかったのに、と考えながら頭を撫でてやると、千は枕を放り投げて栞如に抱き付き、少女らしく僅かに丸みを帯び始めた胸元に顔を埋めた。
「怖い夢でも見たか」
「…うん」
「そう」
抱き付く小さな背を撫でると、背中に回された千の両腕に更に力が加わる。
「……一緒に寝ても、いい?」
そのくぐもった遠慮がちな問いに答える代わりに、栞如は千の背に腕を回したまま紙燭の火を消し、床に横になった。
掛け蒲団を肩まで引き上げ、栞如は千が眠るまで子守唄を口ずさみながら彼の頭を撫で続けた。
ほの暗い夢の中、千は大好きな従姉を捜していた。
漸く見つけたその後ろ姿に声を掛けると、彼女は悲しみと憎しみが綯い交ぜになったような顔で振り返り、再び彼に背を向けて歩き出した。
――待って! 栞如、待って! 置いていかないで!
慌てて追い駆けても、その距離は全く縮まらない。走っても走っても、どんどん離れてゆく。
――どうして!?
幾ら走っても、前を歩く従姉にどうしても追い付けない。
このままでは、栞如が行ってしまう。自分を置いて、行ってしまう。
そんなの嫌だ!
『待って!』
魂を揺さぶられるような叫びに、栞如は眠りの淵からハッと覚醒した。
傍らで、千が泪を流しながら何かを掴むように両手を宙に伸ばしている。
余程魘されているのか、艶やかな黒髪が額や頬に張り付く程、脂汗が滲み出ていた。
「千! 千! 起きろ! 千!」
両肩を掴み、慌ててその小さな躰を揺り動かすと、千はふっと眼を開けた。
眼の前に必死な形相をした栞如の顔を認めると、勢い良く飛び付き、渾身の力で抱き締めた。
「な…ッ?」
栞如は息苦しさに躰を離そうと腕を動かすが、千はしがみ付いて離れない。
「栞如、栞如」
狂ったように呼び続ける千の様子は、明らかにおかしかった。
「落ち着け、千。わたしはここにいる、ここにいるから」
宥めるように何度も背を撫でていると、千は次第に落ち着きを取り戻してきた。
巻き付けた両腕を離し、栞如の顔を覗き込むと、千はもう一度きつく抱き付き、存在を確かめるように幾度も頬を摺り寄せる。
「栞如、栞如、良かった、ここにいた」
「…一体どうした」
「栞如が、どこかに行ってしまうんだ。僕を置いて、行ってしまうんだ」
そんな夢を見ていたのか。
いずれ置いていかれるのは、千ではなく寧ろ栞如の方だろうに。
「大丈夫、わたしはここにいる。千、お前の傍にいる」
「うん…」
まだまだ足りないとでも言いたげに栞如の胸に顔を埋めた後、千は漸く顔を上げた。
泣き腫らした切れ長の眼を、栞如の姿を見失うまいと必死に見開く。
「栞如、僕、栞如が好き。この世で一番大好き。だから、いつも僕の傍にいて」
「千…」
「僕を、置いて行かないで」
まだ少し夢と現実を混同しているのだろうか、情緒的にかなり不安定な状況にある千をこれ以上不安にさせるまいと、栞如は努めて穏やかに、莞爾としながら大きく頷いてみせた。
「判った。いつもお前の傍にいるよ」
「絶対だよ?」
「ああ」
千が納得して再び眠りにつくまで、栞如は彼の問いに何度も頷き続けた。
それからというもの、以前にも増して千は栞如にべったりくっ付くようになった。
別々だった寝室も再び一緒になり、文字通り四六時中共にあった。
さすがに辟易した栞如や周囲の者らが離れるよう促しても、千は頑として譲ろうとはしなかった。
「だって、栞如はずっと一緒にいてくれると言ったもの」
そう言われると、それが極めて真っ当な事実である手前、栞如にはどうしようもなかった。
この話は遂に千の父である皇帝にまで届き、彼の命によって二人は漸く一定の距離を保つようになった。
しかし、千は最後までごねにごね、廷臣らに数人掛かりで引き離されるまで、栞如の腕を掴んで離そうとしなかった。
「嫌だ、栞如、ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか、栞如、栞如!」
泣きながら栞如を求めて喚く千の姿は見る者の哀れを誘った。宮廷中の者が苦しげに眉を曲げて視線を逸らす程に、彼の叫びは悲痛なものだった。
それは宛ら、魂を引き裂かれるような極限の痛みを湛えた慟哭であった。
やがて月日を経て我慢と忍耐とを会得した千は、栞如を求めて無意味に喚くのをやめ、代わりに彼女の智識に少しでも早く追い付かんと只管学問に打ち込んだ。
それが、皮肉にも己と栞如との間に後々決定的な溝を生じさせ、二人の仲を長らく拗れさせることになるとは思いもせずに。