変身
蒼兄ちゃんは意地が悪くて妹に優しくない兄だ。
理不尽な仕打ちを受けた時、悔し涙を流しながらふと、蒼兄ちゃんが慈愛に満ちあふれた兄だったらどんなにいいだろうと夢想することがある。
でも同時に、そうなったらそうなったでおっかないよな、とも思うのだ。
ある朝私、藤枝桜が幸せな夢から目を覚ますと、蒼兄ちゃんが驚愕の変身を遂げていた。
なんて某有名文学風に頭の中でナレーションを流していたことからしても、私がどれほど仰天していたかを分かってもらえると思う。
今日は日曜日で学校もお休みだ。平日だったらいつまでもベッドの上でだらだら過ごしたいものなのに、休日の朝とはワクワクするもので、昔から目覚ましをセットしなくても早く起きられる。それは中2になった今でも変わってなくて、七時過ぎにむっくり起床した私はそのまま一階へ向かった。
確か、お父さんとお母さんは朝早くから用事があると言っていたから既に二人で連れ立って出かけているはずだ。朝ごはんは用意しておいてくれるということだった。
メニューは何かな? と楽しい期待に胸躍らせながらリビングへと続くドアを開けた。
「おはよう桜」
まず、耳に飛び込んできた声に驚いた。目を剥きながら声の持ち主の方へ顔を巡らせて、私はさらにこれでもかと目を見開いた。その人物は、朝日にも負けない眩しい笑顔を惜しみなく放っていたのだ。
「なに鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんだよ。お前はオムレツより目玉焼きの方が好きなんだよな。パンも焼いてやるから座ってろよ」
私の気が確かなら、それは朝ごはんを用意してくれるって意味なんだろうか。
蒼兄ちゃん自らが? 聞き間違いじゃなくて?
口をあんぐり開けて呆然とする私をよそに、蒼兄ちゃんは食事の手を止めて立ち上がり、キッチンの方へ向かった。その動作には面倒そうな素振りが欠片もなくて、妹の世話を焼くのは兄として当然の努めだという主義主張すら感じられる。
すでに蒼兄ちゃんは着がえていた。髪だって寝癖跡もなくきちんとセットされている。すぐにでも街へ出かけていって、ついでに女の人の一人や二人引っかけそうな格好だ。
私はショック状態のままで面倒見のいいお兄様然とした背中から目を引き剥がし、蒼兄ちゃんが座っていたテーブルの席に視線を移した。朝のメニューは千切りキャベツとプチトマトのサラダ、ミニオムレツにカリカリのベーコン、それからトーストらしく、それぞれが偏ることなく半分くらいずつ食べられている。三角食べのお手本みたい。
やけに色々済ましているみたいだけれど、一体何時に起きたんだろう?
キッチンの方から、フライパンで調理をするジュッといういい音と、卵が焼ける食欲を刺激する匂いが漂い始める。胃袋が騒ぎ始めたのを感じながら少し目線をずらすと、サラダを乗せた朝食プレートがラップをかけた状態で置かれてあった。きっと、私の分だ。
「もしかして」
目玉焼きが焼ける音に負けないよう、少し声を張り上げた。
「今日の朝ごはんって蒼兄ちゃんが作ってくれたの?」
「母さんも朝っぱらから忙しそうだったからな」
キッチンから、私と同じく大きな声で返事がくる。
「先に着がえてきたら? その間に作っといてやるから」
私は自分の姿を見下ろし、パジャマの裾を摘んだ。ものをまともに考えることができないまま、蒼兄ちゃんの提案に従った。顔を洗い、服に着替えて髪を整えた後、恐る恐るリビングの扉を開けた。
食事の場はいい匂いに包まれていた。私の席には目玉焼きとベーコンとトーストが追加された、朝食プレートがしっかりセットされている。しかもミルクティー付きだ。
その隣で朝食の続きに取りかかっている蒼兄ちゃんが顔を上げ、清々しくにっこりと笑った。
「お、着がえてきたな。その服似合ってるよ」
は?
全くらしくない怖気を震う台詞と表情に戦慄し、背筋を縮み上がらせている私を気にせず、意外と料理上手なお兄様が手招きする。
「いいタイミングだ。ちょうど出来上がったばっかだぞ。あったかい内に早く食いな」
おかしい。おかしすぎる。いつもの態度とビル50階分は落差がある。
混乱して足を踏み出せない私を訝しがるように、蒼兄ちゃんが眉を潜める。
「どうした、食わないのか? ――お前もしかして」
蒼兄ちゃんは何かに気付いたように立ち上がり、テーブルを回って私の前まで早足に歩いてきた。
「熱でもあるんじゃないか?」
心配げな言葉を零してから自分と私の前髪を上げて、お、おでこをくっつけてきた!
溺愛する妹が気がかりでたまらない兄、といったシチュエーションに私は卒倒しそうになった。目がぐるんと裏返って泡を吹きそうな私から僅かに額を離し、蒼兄ちゃんが熱はないようだなと呟く。
「どうしたんだ? おまえ今日ちょっと変だぞ」
おまけに優しく頭をぽんぽんとされて、とうとう私の精神も限界に達してしまった。
「変なのは蒼兄ちゃんの方だって!」
私は頭に乗せられた手を振り払い、勢いよく顔を上げて目の前の相手に真剣な眼差しを送った。蒼兄ちゃんは虚を衝かれたような表情をしている。
「大体、今日は特に予定もないって言ってなかった!?」
「あ、ああ、別にどっか出かける用事もないしな」
「だったらなんでいつもみたくダラダラ寝てないわけ? お昼過ぎぐらいに起きてきて、早起きな私を幼稚園児だとかなんとかからかって、腹減ったーとか言ってお母さんがいない時は無理矢理昼ごはん作らせようとするんじゃないの? 蒼兄ちゃんが自分からパン焼いてくれて、しかも紅茶まで淹れてくれるってどうしちゃったの? しかも朝の挨拶だってえっっらい爽やかだったし、おまけにおまけにこれが一番信じられないんだけど、私の服装誉めるって! いっつもちんちくりんだとか、酷い時にはブスとかってけなしてくるくせに。怖いよ、おかしいよ、絶対変だって蒼兄ちゃん! 頭でも打ったんじゃないの? それとも実は別人? 本物は宇宙人にでも誘拐されちゃった!?」
起きてから今までの短い間、溜まりに溜まった鬱憤を一息に告げたため、私はゼーハーと肩で息をした。
そんな必死な妹を見て、なぜか麗しのお兄様は翳りを帯びてふっと寂しそうに笑い、労るように私の両肩をさする。その親切心には寒気しか感じられない。
そして蒼兄ちゃんは今までの諸々を悔いるように言った。
「ごめんな」
ほ、本格的にどうにかなっちゃったんじゃないか……?
私がほぼ初めて耳にする口先だけでない、真心の籠もった謝罪を蒼兄ちゃんは尚も続けるようだった。
「俺はお前に意地悪したり、今までいいお兄ちゃんじゃなかったよな。でもな、正直に出せなかっただけで、桜を可愛いと思っていたのは本当なんだよ。今日はバイトもないし、これまでの罪滅ぼしも兼ねて遊園地へ連れてってやるからな。欲しい物があったらなんでも買ってやるぞ」
「へっ? 休みの日はバイトをするかどっかへ出かけてるか、家にいても一人で行ってこいって絶対どこへも付き合ってくれない蒼兄ちゃんが遊園地? しかも奢ってくれる?」
「なんだよお前、そこまで驚くことないだろ?」
不気味なことに、蒼兄ちゃんは照れたように微笑した。おまけに「こいつぅ」とか言いながら、額を人差し指でツンと突いてきた。拍子に私は軽くよろめいた。
もしかしたら、今日は人類滅亡の日なのかもしれない。
その後私は蒼兄ちゃんに肩を抱かれ、朝食の席に促された。精神的には食べるどころじゃなかったけれど、肉体はエネルギー源を欲していたようで私は全てを平らげた。美味しかったと控え目に感想を述べると、コックさんなお兄様は「桜に喜んでもらえたら一番嬉しい」とどう考えても気が違ったとしか思えないようなことを安堵顔で告げてきた。
宣言通り蒼兄ちゃんは私を遊園地に連れて行ってくれた。
私はこんな日々がこれからも続くだろうと思うほど、お気楽な頭はしていない。蒼兄ちゃんの頭がおかしい内に堪能しておこうと覚悟を決めて、園内ご自慢のランチとめぼしいスイーツを片っ端から食べ尽くし、限定販売のキャラグッズをいくつも買ってもらった。もちろんアトラクションも次々と制覇した。
蒼兄ちゃんは終始私に激甘く、「こんなもんでいいのか?」と訊いてきた。私も最後の方は調子に乗って「これ以上は悪いし」と遠慮して、変身した別人蒼兄ちゃんを感動させていた。
家に帰ると、蒼兄ちゃんは案の定ぱったりと倒れた。今は初夏で、季節外れの質が悪い風邪に罹ってしまったらしかった。朝、私が蒼兄ちゃんの熱に気付かなかったのは、こちらも動転して体温が上がっていたせいだと思う。
39度の熱を出してうんうん床に伏せっていた蒼兄ちゃんは、二日後すっかり元通りになった。
そう、体調も、妹への態度も全部……
「桜、喉かわいた。ポカリ買ってこい」
「はい……」
素直にパシられて目的の品を渡すと――
「冷たいもん食いたい。今度はアイス買ってきて」
「なんで! さっき一緒に言ってくれればよかったのに」
「なんかまだ頭痛いなー」
偉そうにソファの上で寝そべっていた蒼兄ちゃんが、わざとらしく額に手をやる。
「俺って、熱があるのにかわいい妹を遊園地なんて動き回らなきゃならない所へ連れてってやったんだよなぁ。優しいお兄様だよなぁ。色々買ってやったしなぁ。汗水垂らして稼いだバイト代一ヵ月分も全部パァ。あ、朝メシも作ってやったんだっけ?」
そんなの、私が頼んだわけじゃないし!
などと文句を言っても通じるはずがない。蒼兄ちゃんが嫌みを言っている間中、ううううと唸り声を挟むことしかできなかった。
「行ってきます……」
結局、唯々諾々と従うしかない。
私はそれから一ヶ月間、蒼兄ちゃんの奴隷と化していいようにこき使われた。
やっぱり、優しい蒼兄ちゃんは恐ろしい。
しみじみ感じ入った出来事だった。




