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兄妹喧嘩

「そういえばアステルってさ、リディと兄妹喧嘩したことある?」


 王都バーラントは今、冬将軍が猛威を振るっている季節だ。

 灰色の空からは音もなく雪が舞い降り、風が行きたい場所を冷たい白さで知らせている。外へ出たらマッチ売りの少女ごっこでもして気分を紛らわさなきゃ気が済まないほどの、思わず笑ってしまいそうな寒さに違いない。

 とはいえ室内は春の女神の祝福を受けたように暖かい。とりわけ暖炉の前に陣取りながらふわふわのクッションなんかに囲まれていると、天国とはこのような所だろうと妙な確信に近い想像が浮かんでくる。この若い身空でまだ確かめたくはないんだけれど。

  今日、アステルはお休みの日。そしてとんでもなく寒い日だ。まあ冬なんだから寒いのは当たり前なものの、特別強い寒波が押しよせてきているらしい。北のローズランドはここよりももっと気温が低かったはずなのに、たかだか四、五年過ごした程度では、雪国体質にはなれないようだった。そしてやっぱりアステルたちは私よりもずっと寒さに強い。

 こんな日はまったり過ごすに限る。

 そう結論付けてアステルの部屋に押しかけ、柔らかい絨毯の上でぬくぬくダラダラしているのだった。ちなみにリディは出仕している。ご苦労様。

 隣で同じく座っているアステルは読んでいる小難しい本をよほどお気に召しているのか、話しかけると一応返事はしてくれるものの、うまくあしらっているという感じでこちらとしては物足りない。

 なんとなく、意趣返しのつもりで抱いていたクッションを軽く投げつけてみた。

 あちゃ、顔面にヒット。大暴投。誤魔化すつもりで、急いで質問を投げかけたのだった。

 アステルは特に怒る様子もなく、本をパタリと閉じる。絨毯に置いてから、虚しく落ちてしまったクッションを拾い上げた。


「それはあるでしょう、兄妹喧嘩の一つや二つ、幼い頃であれば」

「どんな?」


 私の質問ににこやかに答えながら、何故かアステルがクッションを持ったままにじり寄ってくる。なんだか不穏な空気を感じ取り、近づかれた分だけ私は後ずさりした。


「さあ、忘れました。何せ物心つくかつかないかくらいですから。――それ以上さがると、髪が焦げますよ」


 だったら捕食者みたいな雰囲気で接近してこないでほしい!

 迫りくるアステルを気にかけつつ、炙られそうな熱気を背後に感じ取っていた。暖炉との距離を確認しようと懸念を込めて振りかえると、腕を前にぐんと引っぱられた。そのまま体が器用に反転し、仰向けにひっくり返る。後頭部になんのダメージも受けなかったのは、どうやらクッションが受け止めてくれたからみたいだった。

 そして真上、すぐ間近には、麗しい笑顔を浮かべたアステルの顔がある。

 ひええぇ、と情けなく叫びたいのをぐっと堪えて、私は八つ当たりに近い文句をつけたくなった。勝負に十回連続負けて、勝てる見込みはまるでないのに次で勝ったら今までの分をチャラにしてやる、と言われたような心境になっているのはきっと気のせいなはずだ。


「物心ついてから喧嘩してないってことじゃない」

「じゃあ、桜が今から俺としてみますか」


 妙な色気が加わった笑みに不吉さを覚え、慎重に言葉を繋いだ。


「してみるって、喧嘩を?」

「はい。爪で引っ掻いてくれても、噛み痕をつけてくれてもかまいません」


 どういう喧嘩なのかに思い当たって、私の頭は一瞬で湧いた。


「ア、アステルが覚えてないんなら、お父様に訊いてくる……」


 目が回る思いで逃亡のための口実を作ると、軽く唇にキスされた後、あっさり上からどいてもらえた。


「後で俺にも教えてください」


 アステルが私を抱き起こしながらぬけぬけと言う。


「その頃には、読み終わっているでしょうから」


 なんだか体よく追い払われたような気がする。

 床に置いた本を手に取るアステルに見送られながら、ぐったりとした気分で私は部屋を後にした。



「というわけでお父様、アステルとリディって兄妹喧嘩したことあるの?」


 ヘンリー父さんは自室にいた。みんな寒い日は考えることが同じらしく、暖炉の前で揺り椅子に座り、こちらも辞書みたいに分厚い本を読んでいる。題名はない。

 ヘンリー父さんは装丁を自分で好きなように誂えるのが好きで、結構そういう本が多い。身分上、生活用品の質が高いとはいえ積極的にお金を遣おうとはしないヘンリー父さんの、珍しく贅沢な趣味だといえる。

 寒風吹き荒れる外よりマシなものの、廊下は冷え込んでいた。部屋に入るなり私は急いでヘンリー父さんの足元に丸まり、両手の平を暖炉に向けて掲げながら問いかけた。赤い火が燃えさかり、薪がパチパチと爆ぜている。

 ヘンリー父さんは寒い寒いと小刻みに体を震わせる私の肩に、自分の膝かけを掛けてくれた。こちらの気遣いは、心の方が温かくなる。


「あの子たちが争っている所は見たことがないな」


 にまにましている私の様子を眺めて可笑しそうに微笑しながら、ヘンリー父さんは答えた。


「アステルはあの通りの性格であるし、リディは無条件で兄を敬愛している。あれはほとんど生まれる前から擦り込まれていると言っても、過言ではないだろうね」


 さすがはリディ、筋金入りだ。ヘンリー父さんの言葉に、思わずうんうんと頷いてしまった。


「しかし、一度だけアステルがリディに泣かされたことがあったな」

「アステルが!? リディの方じゃなくて?」


 聞き間違いじゃないのか。

 目を瞠った私に、ヘンリー父さんが思わずといった様子で肩を揺らす。


「ああ、アステルが、だ。あれは、リディが歩き始めて間もない頃だったかな。つまづいたリディをアステルが支えようとして、でもあの子もまだ三歳くらいだったからね。結局支えきれずにリディもろとも転んでしまったんだ」

「じゃあ、それで怪我をしてってこと?」

「いいや、そうじゃないよ。アステルはすぐに起き上がったが、リディはそのままやっぱり泣き始めてしまったんだ。赤ん坊はとにかく派手に泣き喚くからね。そう教育してきたせいもあるが、アステルは昔から責任感が強かった。リディが転んでしまったのは自分のせいだと思ってしまったんだろう。目に涙を一杯に溜めながら、ごめんねリディと嗚咽するわけだ。どうにもその光景が微笑ましくてね、その場の皆が和んでいたよ」


 そう思い出を語りながら、ヘンリー父さんは目を優しく細めていた。

 丸くてちびっこいリディが手足をバタバタさせて喚き散らし、まだまだ小さくて頼りないアステルがその傍で泣きながら謝っている。

 確かに、当人同士は必死でも、周りから見たらとってもかわいらしい光景だ。しかもそれが天使のような二人だというのだから尚更。

 私も状況を頭に思い浮かべながら、口の端を緩ませた。

 同時に、良いことを聞いたと心の隅を邪悪色に染めていた。幼い時分の微笑ましいエピソードなんてのは、成長した自分にとってはとてつもないダメージを与えるウィークポイントとなるものだ。


 それからしばらくヘンリー父さんの部屋で過ごして、私は嬉々としてアステルの部屋へと戻った。そして本を読み終わったアステルに、どうだとばかりに話して聞かせた。


 まあ、自我も確立してない忘却の彼方の出来事なんかに、アステルが動揺するはずがなかったんだけどね。

 そして動揺させられたのが私の方だというのも、筋書きが決まっている話というやつだ。

 ふて腐れていいかな……


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