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迷路を抜け出たその先は

 冬の足音が近づきつつある日、いつものように桜がスターたちの家に来ていた。


「だからさ、その迷路が手強いのなんのって。もう何十回も挑戦してるのに、全然出口に着けないんだよ」


 スターは裏手にある庭で薬草を植え替えたりと、冬の準備に取りかかっている。


「もう、痛い、痛いってば!」


 鶏たちに突かれていた桜が、その辺に落ちていた木の板で防ぎながら怒りの声を上げた。


「この鶏たち、私を目の仇にしてない」

「多分、桜を餌係だと思ってる……。甘えてねだってる……。あ、それは根が深いから、もっと掘ってから……」


 植物に造詣の深いイヴが、陰気な声で時々スターに助言しながら、必死の攻防を繰り広げる桜を日溜まりでも見るような目でのほほんと眺めている。現在のイヴは心を許した者しか傍にいないということで、愛らしい顔を白昼にさらし、自らの声帯を使っていた。

 普段であれば桜を傷つける者は即座に敵認定し、素早く滅びに向かわせようとするイヴなのだが、肩に乗せている、生きていく上で欠かせない相棒である梔子と同類(というよりは同型)の、鳥たちの行動には大層寛容である。


「それって、餌をあげるまで諦めないってことじゃない。それに、甘えてるって言う、これ? 愛情表現が凶暴過ぎるって!」


 DVだ、デンジャラスな軍鶏だ! とスターとイヴには訳の分からない叫びを上げながら逃げ惑う桜の後ろを、鶏たちが群れをなして追いかけていく。羽が舞い、コケコケギャアギャアと非常にかしましい。懸命な桜には申し訳ないが、子供が子犬とじゃれ合っているような、のどかな光景にしか見えない。

 イヴの発言はある意味正しい。手を動かしながら、スターは薄く微笑んだ。この家の主人二人や、その朋輩の前で鶏たちは戦意の欠片もなく、土中の虫を突っつきコッ、コッ、と大人しいものである。まあ桜に対しては甘えている、を舐めているに置き換えてもいいのかもしれない。

 本日、桜は件の迷路を攻略できないことにとうとう業を煮やし、私は方向音痴なんかじゃない! とイヴを呼びつけたらしい。彷徨う仲間を増やしたいのだろう。魔術を使わず入ってみろ、と誘いにきた。

 最後の株を植え替え、凛々しくも麗しい若者姿のスターは腰を上げる。


「では、一段落ついたことですし、参りますか」

「早く早くっ!」


 やっとこの追走劇から逃れられる、とばかりにパッと目を輝かせた桜が、走る勢いのままスターの胸に飛び込んでくる。後ろからは、一個の生き物のように統率の採れた鶏弾丸が、雪崩を打って追ってくる。桜をしっかり受け止めたスターは、その場から瞬時に姿を消した。客が来ても、ピジョンが相手をしてくれるだろう。


「私も……」


 移動の寸前、呟き消えていくイヴが目端に映った。


 結果からいえば、迷路の攻略は容易かった。途中、躊躇いのない足取りで進んでいくスターの袖を引きながら、「なんでそんなにスタスタ歩けるの?」と不審そうに桜が訊いてくる。魔術を使っているのではないかと疑っているようだ。梔子に指を甘噛みさせながら、イヴがその後ろを黙ってテクテクついてくる。


「昔から、方向感覚には自信があるのですよ。――ほら」


 そうして、角を曲がった先の風景は開けていた。ここが終点で間違いない。

 変化のない常緑樹の壁に挟まれていた視界を、鮮烈な色彩が占めていく。透明な蒼穹は、木々が思い思いに伸ばした腕で範囲を狭められていた。夕暮れの太陽で焼き付けたような赤は艶やかに濡れ、染料を落とし、一つ一つの葉からはみ出ないよう職人の手で絵取られたごとき黄は、冷気を増しつつある風に震えている。重なる毎に、微妙に色合いを変化させ、ザワザワと揺れる度に陰影がさざめく。一時より水分を失った、茶の枝にしがみつくのを諦めた錦の一部が、ひらりひらりと緑濃い苔の上に降り積もる。

 そしてスターは、晩秋の季節と人間の計算が手を取り合って造形された奇跡のような光景よりも、より衝撃的に心を揺さぶる展開に目を奪われた。

 これからの事態を予想して一瞬息を飲み、そろそろと隣の桜に顔を向ける。当の本人はスターの袖をガッチリ掴んだまま、普段から割合に大きな目を皿どころか惑星のように見開き、カナヅチで軽く小突くだけで粉々に砕けてしまうのではないかと思えるほど、薄く堅く固まっていた。微動だにしない。

 さらにそのまま後ろを振り向くと、スターと桜の間から覗き見てしまったのだろうイヴが、鼻に皺を寄せた憤怒の形相で低く唸っている。まるで凶暴な野良犬のようだ。いや、正確に表現すると、唸りを発しているのは梔子であったが。

 そしてイヴの忠実な使い魔の、その額に嵌め込まれたペリドットが瞬き、鋭く閃く殺気が形を取りだしたのを確認し、スターは素早く行動を起こした。

 即ち、三人の注目を多大に浴びる、抱き合う影に被害が及ばぬよう、ピジョンが待つ我が家へ取って返したのだった。

 一方の影は身分の高そうな見知らぬ女性のもので、もう一方は桜を唯一無二と決めているはずの、アステルバードに見えた。


「なんだお前ら、出ていったと思ったらすぐに帰ってきやがって。忙しい奴らだな」

「そんなに儂に会いたかったのかのう」


 ピジョンとジスタが四人掛けの卓に座り、木製の方形遊技盤を挟んで差し向かっていた。幾種類かの駒を使って最終的には王将を取ることを目的にする、戦略ゲームである。盤と駒さえあればどこでも楽しむことができる手軽さから、エルネットでは子供から大人まで幅広く嗜んでおり、各地で大会も開かれている。ちなみに三人の中で一番強いのはスターで、ピジョンとジスタはおっつかっつというところだ。


「どうした?」


 ピジョンが桜を指差しながら、スターに訊いてくる。見下ろすと、スターに肩を抱かれた桜は顎が胸に付きそうなほど項垂れていた。


「私、ちょっと行ってくる……」


 イヴはジスタが目の前にいるにも関わらず、フードも被っていないし自分で直接喋っている。我を忘れるほど怒り心頭である主人の心情を表すように、梔子も「ピーー!」と強い賛同を示した。狭い室内には行き場を求めて殺意が充満している。


「まあまあ、お待ちなさい」


 スターは直ちに消えようとするイヴの衣をはっしと捕まえた。


「止めないで……。公爵家の息子、許せない……!」


 極限まで低くなったイヴの言葉に、桜の肩がピクリと強張ったのが、スターの手に伝わってきた。


「公爵家の息子? アステル殿のことか?」


 ジスタの声に、さらにピクリピクリと反応している。


「アステルバードがどうしたって?」


 ピジョンまでが追い打ちをかける。

 公爵家の息子。

 アステルバード。

 どちらも同じ人物を示し、今、俯いて肩を震わせている少女の神経を最も逆なでする単語である。

 事情を知らぬとは恐ろしい。そんなに連呼しなくても……

 さて、どう声をかけるべきか。

 桜に向かって話しかけようとしたところ、突然その当人が勢い良く顔を上げ、クルリと振り向いた。スターの胸部分を抱きつくようにして握り締め、心配げな面持ちで見上げてくる。その目に涙が光っていないことが予想外だった。


「スター。私って、やっぱりアステルに好かれてないのかな」


 親にそっくりな子供に、「私って、橋の下から拾われた子供なんだ!」と心の底から唱えられたらこんな気持ちになるだろうか。スターは思わず緩みそうになる口元を意志の力で引き締めた。大真面目な相手を前に、笑ってはいけない。

 桜の前では常に眼差しを蕩けさせているアステルの、どこをどうひねくればそういった勘違いが浮き出してくるのか。向けられた当人がその視線に無自覚となるのは、世の常というものか。

 いや、いくらなんでもそりゃあり得ないだろう、と口を開きかけたピジョンの気配を、双子の間に走ると言われる不可思議な力でいち早く察知し、目線で制する。

 頭上で交わされたやり取りに気づく素振りもなく、桜が続けた。


「秋の初め頃だって、信じられないドッキリ仕掛けられたし」


 信じられないドッキリとは、ジャンケンに負けたジスタが手伝わされた、公爵家を狙う架空の呪い魔術事件のことだろう。あの後スターたち三人、特にジスタは逆毛を立てた猫のように警戒心を露わにする、桜の心を解きほぐすのに苦労した。スターがどれほどの種類、菓子を作ったか。幸い全て桜の胃袋に収まったが、あの時に仕入れた甘味料はまだ何袋も残っている。


「あの件については、お前さんももう少し注意力を養った方がいいと思うがのう」


 不用意にボソリと呟いてしまったジスタは、イヴの意を受けた梔子に猛攻を受けていた。透明な蔦に腕を取られ、仲間の生気を吸うな! と喚いている。


「そりゃ、あれからしばらくは色々気遣ってくれてたけど――」


 桜は阿鼻叫喚の様相を呈している周囲に注意を払う余裕もないようだ。


「それも私が不機嫌でいたら面倒事が増えるからだ、とか思ってるんじゃないかって考えたりね。だって、私には平定者って呼ばれてるイヴやスターたちがついてくれてるから」

 ジスタの裏切り行為は、とりあえず不問に付してくれているらしい。

「そんなことが、時折ふっと頭に浮かんでくるの」


 力なく言ってから、桜がスターの胸にペッタリと顔を埋めた。それでなんか疲れてきちゃって、とそれはそれは細い吐息を零す。

 ああやはり、あんな計画に協力すべきではなかったのだ。どれほどこの子に深い傷を負わせてしまったのか。自分が男性形をとっていることで余計に小さく感じる桜の背中を撫でながら、スターは心中で溜息を落とした。この場にいる他の三人も、沈痛な面持ちでスターの腕に抱かれている桜を見守っている。


「それでね」

「はい」


 震えだした声に、スターは出来うる限りの優しい響きで答えた。


「段々ね……」


 桜の声音が一段下がる。スターは抱き締める腕に力を込め、もう一方の手の指先を使って丁寧に髪を梳いた。どれほど時間と労力を使ってでも慰めてみせよう。

 そして次の瞬間、桜が声を張り上げた。


「――腹が立ってきちゃってさぁ!」


 スターは首を巡らせ、仲間三人を見渡した。皆、一様に目を丸くしている。自分も同じ表情をしているのだろうか。再び見下ろすと、桜は既に顔を上げていた。ぷんすかという擬音を滲ませていそうな面持ちが、確固たる意志を表している。


「大体、なんで私ばっかりこんなに悩まなきゃいけないわけ? この間から、悪いのは絶対アステルの方だよね。だったら、アステルも私にぎゃふんと言わされなきゃ不公平だよね!」


 ぎゃふん、ですか。

 一息に言い放たれた文句が意外すぎて声も出せない一同の前で、桜はぜーはーと肩で呼吸をしていた。


「ようし分かった!」


 ジスタがパシンと膝を叩きつつ厳かに頷き、高らかに宣言する。


「この間はアステルバード殿に協力したからの。今度は桜の番じゃ。公平性を欠いていては、中立を標榜するユヴェーレンの名折れじゃからな。任してみい。儂に訳を話してみるんじゃ、桜」

「おじいちゃん!」


 聞いてよ、と大いに感動した様子で桜がスターの腕を離れ、ジスタの元へと飛んでいった。何度騙されても、この子は一向に懲りない。その後を、イヴが忠犬よろしくついていく。苦手なジスタには近寄りたくないはずなのだが、敵(この場合、アステル)の敵は味方の理屈らしい。

 スターは空になった腕を感慨深く見つめた。

 強くなった――いや、そうではない。太い大木は少々のことでは折れないが、より強い力には屈服する。しかし、しなる竹は細くとも、柔軟に暴風を受け流す。桜は出会った頃から地にどっしり根を張った、しなやかな若竹だった。

 物思いに耽っていると、ピジョンがちょいちょいと指で呼ぶ。スターはアステルの所行を切々と訴える桜を横目に、片割れの元まで移動した。さらに耳を寄せる。


「確か今、ベルディアの王城には小国の使節団が来てたよな。大陸西端、バルトロメよりもさらに西の」


 ジスタに事情を打ち明ける桜の声を漏れ聞いて、大体の顛末を把握したらしい。その上で、ピジョンがスターに確認を取ってくる。


「ええ、表敬訪問に」

「その国の王族も一員じゃなかったか」

「第一王女だそうですね」

「要するに」


 ピジョンがチラリと正面に目をやる。ジスタがごにょごにょと、何かの策らしきものを耳打ちしていた。時折頷く桜の顔は、人生の訓戒を授けられているように真剣そのものである。


「アステルバードは案内役を仰せつかっていたってところだろう。足元は苔で滑りやすかった――」


 そこまでを聞いて、スターは同じ造作を持つ弟から顔を離した。口の端を持ち上げてみせると、ピジョンが眉をしかめる。


「お前、気づいてたな」

「当たり前でしょう。考えなくとも一目瞭然です」


 書物、劇。あまりにも、遙か昔から数多く使われてきた誤解を与えるに格好な状況である。古典的すぎて、目にした者が気恥ずかしさを覚えるほどの。しかし、信じて疑わないものにとっては痛烈といえる。


「教えてやりゃあいいだろう」

「どうしようかと迷ってはいたのですが――ああほら、ジスタも気づいているようですよ。目配せしています」

「また何か、ロクでもねえこと吹き込んでやがるな」

「桜も鬱憤が溜まっているようですし、ジスタもなんとかしてあげたいのでしょう。少しでも晴らしてあげるのが親切というものです」

「やっぱお前ら、性格悪ぃ……」


 この中では(あくまでこの中では)一番の常識派であるピジョンの、実感の籠もった嘆息は空気扱いしておいたスターであった。



 同日。つるべ落としの太陽は世界を照らす役目を月に託し、暫しの休眠に入っている。冷たい空気を、冴え冴えとした硬質の光が包み込む時間帯。

 本人にとっては自室で寛いでいたところに突然現われたのであろうスターと桜の姿を、目の前の人物は特に驚く様子もなく、平静に迎え入れた。さすがに慣れてしまったのだろうか。私生活の侵害も甚だしいのでこういった不躾な訪問の仕方は非常時以外、なるべく慎むように心掛けているのだが、桜関連では回数が増えてしまったような気もする。まあ気の毒だが、神秘の世界の一端に触れたのだとでも思って諦めていただこう。

 室内の灯りを一身に受けているかのように揺れる金色の髪を輝かせ、アステルが長椅子から立ち上がる。


「我が部屋へようこそいらっしゃいました、ティア・サファイア」


 スターとは色合いの異なる双眸を伏せ、簡単に礼を取った後、にこやかに口上を述べた。


「桜を送り届けてくださり、ありがとうございます」


 そして目線を下げ、桜に顔を向ける。表情は変わらないが、カエルを睨むヘビのような雰囲気を醸し出している。


「お帰りなさい、桜。しかし何度も言うようですが、遅くなるならその旨を伝えておいてください」

「遅くなってごめんね。でも、どうしてもアステルに飲んでもらいたくて。スターに習ってたの――これ」


 いつものようなカエル状態にならない桜をおや、という風情で見つめ、アステルが差し出された磁器に目を移す。ティーカップに、同素材の蓋が付いている形状。


「スープポットなの。蓋を開けたらそのまま飲めるんだよ。晩餐はもう終わっちゃっただろうけど、スープくらいならお腹に入るだろうと思って。何度も失敗して、一生懸命作ったの」


 やっぱダメ? お腹いっぱいになっちゃった? と不安げに瞳を潤ませ、桜が上目遣いをする。ここまで無力な鳩やウサギのように懇願されて、アステルが否やと言うはずがない。そもそも、桜の手料理をアステルが突っぱねるわけがない。


「とんでもない。喜んでご賞味に預かります」


 これが世辞なら真実の笑顔など存在しないだろう、と断言できるほど嬉しげに目元を緩ませ、アステルが長椅子に座り直した。

 じゃ、どうぞ、とスープポットをアステルに手渡し、桜が甲斐甲斐しく蓋を開ける。ふんわりと立つ湯気に乗って、辺りには香辛料のかぐわしい匂いが漂った。白い磁器の肌が、アステルの髪の色を映したような黄金色の液体を引き立てている。

 桜が固唾を呑んで見つめる中、アステルが「いただきます」と一口含んだ。

 そしてアステルが浮かべた、どの角度から追求しても美味な料理を心から賞賛している、といった風にしかとれない完璧な表情にスターは、さすがはアステルバード殿、と内心で舌を巻く想いだった。

 一方の桜も見事な演技を続けている。自分の手料理を愛しい恋人に味わってもらう。口に合わないと吐き出されたらどうしよう。でも一口食べて破顔する様を見たい。という不安と期待を、仕草や面持ちで初々しく表現している。

 この子は腹を括るとここまで役になりきることができるのか、と出来の悪い我が子の晴れ姿を眼前にしたような心持ちになり、スターは密かに胸を熱くさせた。

 ジスタが桜に授けた秘策とは、アステルに手料理を食させることだった。それも、アステルの苦手な甘味をたっぷり利かせて。

 スターは数時間前を回想する。



「これはお前さんの演技力にかかっておる」


 ジスタはここが肝要じゃ、と続けた。


「あくまで、アステル殿の反応だけを気にかけておくんじゃ。何食わぬ顔をしておってもいかんぞ。不安な表情を前面に押し出しておけ。その桜の心情を見越した上で飲み干し、苦情を一言も零さんかったらアステル殿の愛情は本物じゃ。くれぐれも中に入っている調味料の正体を思い浮かべたり、後ろめたく感じたりしておってはいかんぞ。あの聡い御仁のことじゃ。たちどころに見破られてしまうからの」


 桜はジスタの言葉を、心に深く刻み込むようにして聞き入っていた。

 材料、特に甘味料は売れるほどに余っていた。胸焼けしそうな匂いを誤魔化すために、香辛料をこれでもかと放り込んだ。おかしな香りにならぬよう、スターとイヴも調合に協力した。スープの作り方は桜もよく分かっていて、作業は流れるような順調さで進んだ。

 出来上がった液体は、見掛けと香りは食欲中枢をこの上なく刺激する、まさに恵みの一滴と名付けるに相応しい存在感を示していた。

 そして味はといえば。

 過程を眺めていたその場の誰もが辞退する中、甘い物なら任せて! と桜が味見役に立候補した。

 その桜をして、


「舌が痺れる……。自分の歯、全部抜いてしまいたい……」


 と涙目で言わしめたほどの、常軌を逸した甘さである。その後桜は何度も口をゆすいでいた。


「ごちそうさまでした。とても美味しくいただきました」


 アステルは顔色も表情も崩さず、一滴残らず飲み干したようだった。


「アステル!」


 うわーん、と感涙にむせびながら、桜がアステルに飛びつく。

 ここまで見届ければもういいだろう。桜を宥めるアステルに軽く膝を折り、スターはこの場から姿を消した。視線が交わった一瞬、相手の目の中に、嫌がらせを受けた者特有の非難がましい光を見て取ったような気がしたが、敢えて黙殺しておいた。


 後日、桜がイヴに連れられて、スープポットを返しにきた。終始機嫌よさげな様子で、迷路の庭での出来事は早とちりだったようだと語っていた。スターたちの憶測は正しかったようだ。


 ふとした瞬間に入り込む、心の迷路がある。それも一概に否定したものではない、とスターは思った。もがき、苦しみながら彷徨い、抜け出た先には褒美にも似た極上の光景が待っている。だからこそ、己の何より大事な場所に美しく響くのではないか。

 今度はあの景色だけを存分に味わうために、またベルディアの王城へ赴こう。

 錦の彩りを想起するように、スターは夢見るように穏やかな表情で、そっと目を瞑った。


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