秋の楽しみ方 顛末
「ええと、桜?」
各部屋を繋ぐ廊下。その床に視線を固定して、ペタリと力なく座り込んでしまった私の頭上から、グアルさんが呼びかける。声音が私の反応を窺うようだったのは、見るからに虚脱状態な私をどう扱っていいものか、計りかねているのかもしれない。
エレーヌとソフィアもオロオロしてどう動いたらいいのか分からないのか、視界の中にあるつま先に、力が入ったり抜けたりしているのが分かる。
皆、私の様子を心配してくれている。それが空気に乗って伝わってくるのに、応えることができなかった。
目線を落としたまま、失ってしまった家族の名前をただ呟いた。そんなことをしたって、帰ってくるわけじゃないのに。
「アステル、お父様、リディ……」
「はい」
はいって。タチ悪いな。いなくなった人の代わりに返事をするなんて、悪趣味じゃないか。
若干苛立ちながらも、はてなと疑問に思った。不謹慎な応答の声は、男の人のものだった。だったらグアルさんしか該当する人はいない。でもグアルさんは私の横側に立っているのに、声は背後から聞こえてきた。
そして何よりも、もう聴けないはずの、記憶の中でしか存在できない、心の奥底に触れる響き。
「桜」
信じられない、この声!
間違いない、はっきり耳が拾った。途端に、ぐわあっと噴水が吹き昇っていくような勢いで、血液が頭に運ばれていく。ぐらぐらと、目眩を起こしそう。
あり得ない思いで今の声を反芻していると、今度は女性の綺麗な声と、どっしりと揺るぎなく落ち着いた声にまた名前を呼ばれた。
このまま振り向いてしまうのがもったいない。そんな気がして、私はことさら時間をかけて声の方へと振り向いた。
「あ……」
感情が高ぶりすぎて、それ以上の声が出ない。そこにいる。みんないる。
悠然と、微笑みながら立っているヘンリー父さん。情けない私の姿を見かねたのか、呆れたような顔つきでしっかりヘンリー父さんの腕に巻きついているリディ。
そして。
「立ってください」
苦笑しながら手を差し伸べてくるアステル。
「なんで……」
未だに状況が飲み込めず、やっとの思いで喉にへばりつこうとする声を押し出す。アステルの手に掴まり、よろめきながら立ち上がった。
「桜が二番目に選んだ俺の部屋へ行っている隙に、リディの寝室に隠れたんです」
目を見開く私の手を離さないまま、アステルは心苦しそうに答える。
「父上とリディも、貴女が部屋を見回っている最中に同じ場所へ移動しました」
「え? え?」
どういうことだ、と問いかけるように私は周りの全員を見渡した。何故か、グアルさん、エレーヌ、ソフィア、マーガレットさんが後ろめたそうにさっと顔を背ける。まるで、私と目を合わせたら石化するとでも言いたげに。
リディが、痺れを切らしたように身体を乗り出した。もちろん、ヘンリー父さんの腕に絡みついたまま。
「まだ衝撃から立ち直れていませんのね、かわいそうに」と全然憐れに思っていない目付きで。けれどもこの場には私以外にも大勢いるから、本当は歯に衣着せずに言ってやりたいけれど仕方なくオブラートに包んだ表現にしてあげよう、という思惑がありありと伝わってくる語調でリディが話し始める。
「本当にお気づきになりません? 今までのことは、お芝居だったんですわ」
「お芝居……」
「そもそも、お部屋の絨毯が変わっていたでしょう? でしたら、取り替える際にペトラの存在に気付くはずだと思いませんこと? しかも全ての部屋の絨毯はまだ新しいもので、彩色も鮮やかなものでした。あれが百年もの歳月を経ていると思います?」
「絨毯……」
確かに、気付いてはいた。
気付いてはいたんだけれど。
でも、誰があんな緊迫した状況で、そんな細かい事実を滑稽な真実に繋ぎ合わせることができるんだろうか。
発した単語の一部を呆然と繰り返すことしかできない私に「こんな簡単なことも分からない不注意なあなたは、本当にお馬鹿さんですわ」と目で語るリディが、トドメとばかりにたたみ掛ける。
「それに私、得体の知れない物にうかうかと触れるほど、軽率ではないつもりです」
自分の行動に疑問を持たれなかったことが一番腹立たしい、というように最も鋭い突き刺さりそうな目線で私を貫いてから、リディはぷいとそっぽを向いた。今日のリディは、人前でもちょっときついみたいだ。
ええと、つまり?
少しだけ脳が現状に順応してきて、私はアステルに預けている手に僅かな力を込めた。隣で成り行きをチラチラと窺っている様子のグアルさんに首を巡らす。
「あ、要するにね」
焦ったように一瞬顎を引いたグアルさんは観念した様子で、それでも目は微妙に逸らしたまま、しどろもどろな弁解を開始した。
「収穫祭での余興を考えていたんだよ。ローズフォール城を使って、村民には内緒で領主側から仕掛けて、見事切り抜けた者には褒美を取らすってことで」
必要以上に罪悪感溢れる態度に、第六感がピンときた。普通、グアルさんの立場だったら雇われの身なんだから、ヘンリー父さんに頼まれて仕方なくとでも言えばいいだけだ。それなのになんとか私に理解を求めようとしているのか、全身から醸し出される雰囲気が、這いつくばるように下手に出ている。
「もしかして――」
私の口から、凄みさえ感じられる声が出た。
「グアルさんが今回ローズランドに来た理由って――企画立案者だからとか?」
指摘した途端、グアルさんの背筋が矯正されたように伸び上がった。
「いや、たまたまヘンリー様とアステル様が雑談なさっているのを聞いて、軽い気持ちで提案したら本当に採用されてしまったというわけで」
救いを求めるようにヘンリー父さんとアステルを交互に見ている。ちなみに二人は助ける気がないらしく、任せるとばかりに微笑を返すだけだった。
そんなグアルさんに、下降の一途を辿る声音で私はさらに質問した。同時に、アステルの手を握っている力をさらに強くする。
「なんで私で試そうと?」
「まずは家族内で試みようという話になって」
グアルさんの顔が愛想良く引き攣っている。
「リデル様だったら難なく解いてしまいそうだし、それはそれで面白くないと思って」
ふうん。
何を警戒しているのか、グアルさんは両手を壁のように前へ出した。そうやって弁解する孤立無援なグアルさんの言葉に、「当然ですわ」と合いの手が聞こえる。
リディ、それ言っちゃうと、せっかく隠している本性が浮き彫りになるぞ。自然に険しくなる目付きでグアルさんを捕らえたまま、私は心中で指摘しておいた。
「けれどね、僕だって君がここまで見事にハメられてしまうなんて思いもしなかったんだよ?」
グアルさんは、言い訳とも私に対する侮辱ともつかない申し開きを続ける。
「君だって朝食の席で、自分で言ってたじゃないか。ファーミルが開発されたのは約五十年前だって。あの魔術が仕掛けられたとする百年前には、そもそもペトラは存在しなかったんだ」
それなのに君はなんの疑問も持とうとしないし、と小声で不満を零すグアルさんの靴を私は思いっきり踏みつけて、うるさい口を黙らせた。反省の足りない不届き者は、ダメージを受けた箇所を押さえ、片足でぴょんぴょん跳ね回って声にならないうめきをあげている。
ふん、いくらペタンコシューズじゃないとはいえ、吹けば飛びそうに軽く儚い私がちょっと体重を乗せたくらいで、大袈裟な。
「つまり」
そんな騒々しいグアルさんを、私はガラの悪い半目で見据えた。
「ずっと私を励ましてくれてたのも、そう振る舞ってただけ?」
「い、いや、あれだけは、演技の中でも本気だったよ。特にアステル様が消えてしまったと思い込んだ君を見た時は、騙してしまったことをかなり後悔した」
グアルさんはなんとか平静に戻り、神妙な顔で言った後、「そうならないように、ほとんど答えに近い助言もしてきたつもりだったんだけど」と懲りずに余計な愚痴を漏らしている。
「なんか言いました?」
「いやいやいや、なんでもない。別の考え方を展開してみせた君に、感心してたんだよ、うん」
調子のいいことを言ってくれる、と私は口をへの字に曲げた。
せっかくグアルさんのことを頼もしく思っていたのに。前言撤回だ。リディに目尻を下げていたことを、必ず彼女に告げ口してやる。あることないことねつ造して、つまびらかに語ってやる!
事ここにいたってから、ようやく全て納得したのだ。
――アステルやリディが消えたと私に知らせる際、他にも随所で披露してくれた、マーガレットさんの真に迫った一挙一動も。
壁際でおとなしく控えているマーガレットさんに視線を移す。
「申し訳ございません」
実にすまなさそうに腰を折られた。「あなたが謝る必要はありませんわ、マーガレット」とリディが入れる茶々に、私のどこかにピキリと亀裂が走る。
――思い返してみれば、エレーヌとソフィアが出した意見に全て従っていれば、間違えることもなかったんだ。
次は、マーガレットさんと同じように並んでいる二人に恨みの籠もった目を向ける。仲良く揃ってビクリと肩を揺らしていた。
「わ、私どもも、中止いたしましょうと何度も願い出たのですけれど」
「その度にグアル様に止められてしまい」
「ふ、二人とも……!」
相変わらずのコンビぶりを発揮して、グアルさんに罪をなすりつけている。そうされた本人は捨てられた子犬の風情で、救いを求めるように手を伸ばしていた。二人は決して人身御供なグアルさんを目に入れようとしない。
流れる視線の先にいるヘンリー父さんに目を留めると、「すまないね」と本当に悪く思っているんだかいないんだか分からない、威厳を持った態度で謝られた。隣のリディは騙される方が悪い、とばかりに顎をそびやかして横を向いている。
怒り心頭に発すると、人は真逆の感情を示したくなるんだろうか。
私はすぐ間近にいる、終点のアステルを見上げた。胡散臭い笑顔を貼りつける私を、少し困ったような極上の笑みが迎える。
ちなみにアステルの手を掴んでいる力は極限状態に達し、私の腕はブルブル震えてきている。痛がればいいのにと思うものの、非力で可憐な私がいくら力を込めたところで、アステルが堪えようはずもない。顔に似合わず頑丈な、とやさぐれた私は内心で舌打ちをすると共に、自分のか弱さを無念に思った。
「おじいちゃんに頼んだのって、アステル?」
「はい。以前になんでも頼み事を聞くとおっしゃっていただいたので、お願いしました」
いつの間にそんな約束をしてたんだろう、と束の間憤りを忘れて考える。そして、せっかくの権利をもったいないことに使ったものだ、と思ったところで噴火する寸前のマグマのような心境を取り戻した。
「ペトラには、魔術なんて掛けられてなかった?」
出せる限りの低い声に、鍛え抜かれた社交用の笑顔。きっと周りから見た今の私は、顔と声の表情が一致していないはずだ。アステルの目にも、さぞかし不気味に映っていることだろう。でもそんな感慨はおくびにも出さず、アステルは訊かれたことにいちいちきちんと答える。
「その通りです。あれはなんの変哲もない、ローズランドの民謡が入った普通のペトラです。桜がペトラに触れた瞬間は、身を隠して様子を窺っていたティア・アメジストに中継していただきました。ご本人は何か用があるそうで、先程急いで帰っていかれましたが」
逃げたな? おじいちゃんめ、後でとっちめてやる! 私は心に復讐を刻み込んだ。
今回は、短い間にたくさんたくさん泣いたのだ。逃げ出したくなる気持ちとも戦ったし、失ってしまう恐怖から、海溝のように深い傷もつけられた。
そしてもう家族に会えないと思って絶望した後でのどんでん返しなのだから、喜びや安堵の気持ちも確かに強い。
でもそれを遥かに凌駕するのは!
私は俯き、ふつふつと怒りが沸騰するに任せた。目を堅く瞑って今までの経緯を思い出し、歯を食いしばって付随してくる感情を噛み締める。抑えきれない想いを表すように、肩は小刻みに振動していた。
「桜?」
泣き出したとでも勘違いしたのか、アステルが自由な方の手で腰を抱いて引き寄せようとする。
その時、私の中でプチリと大きな音を立てて極太の何かが引き千切れた。
誰のせいだと――
「触んなっ!」
私はすぐさま渾身の力でその腕を弾き、今まで掴んでいた手を思いっきり放り投げた。ええいくそう、力を込めてずっと掴んでいたせいで、片腕がジンジンとだるい。
思わぬ抵抗だったようで、アステルが中途半端な位置に腕を留めたまま、何を施しても癒せないだろうというような、とても傷付いた顔をした。きっと誰もが激しい同情を抱くだろう面持ちだ。普段の私だったら、大いに心を痛めている。
しかし、今の私には通用しない。
そういう表情は、だまし通されて半壊した私の心情を、慮った上で浮かべるべきだ!
私はアステルを、眼光鋭く睨めつけた。
「お兄様に――」
と抗議の声をあげかけたリディにも、キッと同じ視線をお見舞いする。存外の迫力があったのか、リディは言葉を飲み込むように黙ってしまった。
皆で共謀してたんだ。
もう怒ったぞ!
「酷いよ、みんなバカ!」
私はグルリとその場の全員を見渡し、喉も張り裂けよと叫んだ。
「絶対に、ぜーったいに許してやらない!!」
鉄板をも貫く意志で宣言してから、私は扉の前で邪魔をしているグアルさんに装甲車の突撃気分で体当たりを喰らわし、自分の部屋へ駆け込んだ。視界の隅で、グアルさんの顔面が床と親密になっているのが見える。いい気味だ、なんて思ってしまう私を誰も責められまい。
「桜!」と追いかけてくる複数の声を、勢いよく閉じた扉で遮る。急いでツマミを回し、滅多に使わない鍵をかけた。お城でもお屋敷でも、鍵なんてほとんどしない。家族の誰もがそうだったのに。
「エレーヌ、ソフィア!」
再び扉に向かって声を張り上げる。
「鍵開けたら窓から飛び降りてやるからね!」
本気を込めてそう言うと、扉越しに「桜様!」と高さの違う悲鳴のような声が聞こえてきた。釘を刺しておかないと、二人はこの部屋の鍵を持っているのだ。
「桜、開けてください」
強いノックの音と共に、今度は慌てたようなアステルの声が響く。
「話し合いましょう」
「ダメ! 絶対許さないって言った。私、しばらくローズランドに残る」
「王都へ帰らないつもりですか?」
「気が済むまでね!」
見えないだろうけれど、声に向かってべーっと舌を出してやる。「仕方ありませんわ、そっとしておいてあげましょう。お腹が空いたら気が変わりますわよ」とリディが言っているのが、薄く耳に入った。『そっとしておいて』の部分から装飾を剥がすと、『放っておこう』になるに違いない。氷点下の冷たさだ。しかもお腹が空いたくらいで私の決心がぐらつく?
馬鹿にして!
私は扉に向けて歯をむき出して憤慨した。
「桜、本当にすまなかった。ここにこのまま残ってくれるのは、私にとっては願ってもないことだが、気が済んだらいつでも出ておいで」
こっちの意志を優先させてくれてるんだろうけど、ヘンリー父さんって結構突き放した物言いをするよな。私は扉にもたれかかって絨毯の模様を眺めながら、皆が去っていく気配を若干寂しく感じていた。
みんな薄情だ。もっとご機嫌取りしてくれたっていいじゃない。
私は、不人情な面々にさらなる怒りを募らせた。なんて世知辛い世の中だ、と冷酷な人間を育んだ社会一般にまで義憤を抱くことにした。
これからどうするかな。
部屋を見渡した。何をしてもなんの反応も返してくれない無人の室内にぽつんといると、少しだけ怒りが遠のき、その分冷静になってくる。リディの言う通り、意地を張り通しても空きっ腹を抱えるだけで、いいことなんて一つもない。トイレにだって行けないのだ。
とはいえ。
私は窓辺に移動した。観音開きの窓を押し開けると、秋を告げる気持ちのいい風が吹き込んでくる。連絡を取り合う鳥の声が、私にも呼びかけているような気がする。夏の頃よりも遠い距離にある太陽は中天を少し過ぎた場所で、まだまだ高い位置に座していた。もうすぐお昼ご飯の時間なのか、私を誘い出すための罠なのか、何やら肉の焼けるようないい匂いまで漂ってくる。お、お腹空いたかも。
負けてなるものか! と下を向き、地面までの距離を測った。眼下には、木立と丈の低い花が組み合わさった、のどかな景色が広がっている。ここは三階で、壁のとっかかりを利用して下へ降りることも不可能ではない。実際、何度かその方法で抜け出したことはある……それはともかく。
でもそうやってここから脱出を果たしたとしても、抜け目なく見張りを置いていたアステルに、それみたことかとあっさり掴まってしまうだけのような気がする。
それだけは避けたい。
じゃあ後は。
少し思案してから窓を閉める。ペンダントを胸から引っ張り出し、握り締めて萌黄色の石を意識した。
そして私は部屋の真ん中に向かって控え目な声を出した。呼ぶのは初めてだけど、こんな方法で大丈夫かな?
「イヴ、来て」
「なに……?」
本当に現れた! 萌黄色の髪、同色のくりくりした瞳。目の前には、瞬時にして肩に愛らしい梔子を乗せたイヴが佇んでいた。
驚愕に感動を交えながらも、警戒を込めた視線を送り、私は直ちにイヴを問い詰めた。
「イヴも、今回の件には一枚噛んでるの?」
「違う……!」
イヴはかぶりを振り、必死に否定した。
「私は関係ない……。私は、公爵家の息子となんの約束もしてない……」
それでも知ってはいたんじゃないか。なんとか私の疑いを解こうとする姿を半信半疑で見つめながらも、まあ本当だろうと信じることにした。スターとピジョンはなんだか怪しいような気がするのだ。おじいちゃんと仲が良いし。
――ああ!
突然あることに気付いてしまった私は額を押さえ、そして愕然とした。
なんてことだろう。赤子のような純真さで人を信じ、どんな色を持つ言葉でも真っ白なキャンバスのごとき素直な心で受け入れてきた私が、友達の言葉や、お世話になった人たちのことをも勘繰るほど疑り深くなっているなんて。
私はショックを受けつつも、深い憂慮の溜息を吐いた。
――私の美徳が壊されている……。
こうやって、スレた人間が出来上がっていくのだ。醜い騙し合いを止めることができない人という種を、私は嘆かわしく思う。
ま、それはともかくだ。私は気を取り直し、にっこりと微笑んで言った。
「じゃあイヴ、『道の始まり亭』まで連れてって?」
「…………?」
その後はカツラを被ってから、イヴに『道の始まり亭』まで送ってもらった。
情の薄い家族と違い、久しぶりに会ったタバサさんとディックさんは、私を暖かく迎え入れてくれた。掻い摘んで私に都合のいい、誰が聞いても哀れみの感情を催すあらましを涙ながらに語ると――嘘じゃないもの――いつまででも泊まっていけばいい、と背中を叩いてくれた。ディックさん自慢の料理は本当に美味しくて、多少ヤケになっていた私の胃袋は、二回もおかわりを要求した。
タダで食べるのも申し訳ない。店を手伝っていると、意外と早く失踪が発覚してしまったのか、夕方にはアステルが連れ戻しにきた。よくこの場所が分かったもんだ。といっても、私が身を寄せそうな場所なんて少ないんだから、すぐに見当はついたんだろうけれど。
当然私は帰らなかった。まだ私の怒りは収まっていない。このくらいでほだされてしまっては、女がすたろうというものだ。それでもアステルは私が戻るまで王都に向けて出発しないと決めたのか、それから五日間、毎日説得に訪れた。ちゃんとお金を払って食べていくので、邪険に追い払うこともできない。しかも客寄せ効果も抜群で、ここ数日、材料切れで店仕舞いする時間は飛躍的に早くなった。
領主の息子と気付いていたかどうかはともかく、さすがにタバサさんたちも、見るからに毛艶のいい美貌の客が日々通ってくる事態は、尋常でないと焦ったらしい。私の怒りは尤もだが、ここまで熱心に迎えにきているのだから帰ってはどうか、と真剣に説き伏せられてしまった。確かにお客さんの数――特に女の人――は膨れあがる一方で、お店にも迷惑がかかっている。タバサさんとディックさん、二人だけじゃ捌ききれなくなってしまうだろう。
六日目の朝、私は渋々お城へ帰ることにした。
まだ許したわけではない、とぶすくれながら戻った私は、リディがまだ残っていることに少なからずびっくりした。でもまあ大好きなアステルがいるんだから、当たり前といえば当たり前かと考え直した。ちなみにグアルさんはもう帰ったらしい。
でも、アステルもリディも王城での予定が詰まっているだろうに、予定を繰り下げてまで私を待ってくれていた。ディックさんの料理をたらふく食べたことと、それなりに日にちが経ったことで、私の心は大分丸くなっていた。ちょっとしつこかったかもしれない、と反省するゆとりまで生まれている。私って、やっぱり寛大だ。
さすがにアステルも自分たちの方にも非はあると悟っているのか、黙って出ていったにも関わらず、私は説教もお咎めも受けなかった。
しかもその日のお昼と晩ご飯は普段よりもさらに質も量もグレードアップした内容で、私は満ち足りた胃袋を抱え、すっかり機嫌を直していた。
そしてトドメは。
「まあ、あなたの気持ちも考慮せず、勝手にことを進めてしまった私たちも悪かったですわ。謝りますから、いい加減にもう帰りましょう」
「リ、リディ!」
寝る前に、部屋に訪ねてきたリディが和解を申し入れてきたのだ。まさかあのリディがこんな行動に出るとは思いもよらず、感動した私は涙ぐみながらリディに縋りついた。すぐに鬱陶しいと言いながら、ぺいっと振り払われてしまったけれど。
そういうわけで、わだかまりがなくなった私は翌日、晴れやかな気分で王都への帰途についたのだった。
結局今回の企画は、場合によっては仕掛けられる側の精神的ダメージが甚大になると判断されたらしく、見送られることになったらしい。当たり前だ。
まあなんにせよ、多少のハプニングはあったけれど、なんだかんだでとびきりのご馳走を沢山食べられた、近年稀に見る充実した旅行だったのだ。
やっぱり秋は、素晴らしい季節!
ところが、食欲の秋にはとんでもない落とし穴もあるわけで。
生物は、食べたら食べた分だけ太るという厳しくも悲しい宿命を背負っている。
そして私は今回、実によく食べた――食べすぎた。
当然の帰結として、お、お腹の肉が酷い有様に……
崩れた身なりを憎き敵と見なすエレーヌ監修の元、私はしばらくの間、ダイエット生活を余儀なくされたのだった。
一方その頃、どうにか関わり合うことを逃れたスターとピジョン。
「桜は、本当のことを知ったら怒るでしょうねえ……」
「その時は、あのジジイ一人に罪を被せりゃ済むこった」
「……そうしておきましょうか」
※というわけで、なんだかんだで満足しているたくましい主人公でした。




