第6話 消えた家宝
部屋の中はやはり老師らしく書物が山積みになっており、お世辞にも片付いているとは言えなかった。そんな雑多ながらもどこか落ち着く空間で、秋月と明蘭はいつも通りの穏やかな時間が流れる中、のんびりと習字の筆を握っている。
一方、二人の正面に陣取るのは昨日から通いだした張林だ。その彼の周囲だけは、完全に別世界だ。額の汗を拭う暇さえ惜しむように、ものすごい気迫で筆を振り回している。その必死すぎる形相と、今にも火を噴きそうな筆さばきに、秋月と明蘭は手元を動かしつつも、心の中で「一体何があったんだ……」とツッコミを入れずにはいられなかった。
「あ、あああ……どうしよう! 間に合わんじゃん! 怒られる、ぶち怒られる……!」
「ちょっと林、さっきからうるさいよん! 紙が破れるくらいの勢いで何書いとるん?」
「林、顔が真っ青よ? 何か困りごとでもあるんかねぇ?」
張林は突然、ガタッと立ち上がった。
「秋月、明蘭……実はな、大変なことをしてしもうたんじゃ! 家の家宝の龍紋の墨を、書塾に持ってこようとして、途中でどこかに落としてしもうたんよ!」
「うそじゃん!? 家宝の墨を落としたん!? あんた、おっちょこちょいにも程があるよん!……でも、落ち込んどっても始まらんじゃん! ほら、どこで落としたんか早く言いんさい、一緒に探しに行くよん!」
「待って明蘭、まずは落ち着いて筋道を立てて聞こうや。……林、最後にその墨を見たのはどこなん?」
「えっと……今朝、市場のパン屋さんで肉まんを買った時は、確かに鞄に入っとったんじゃ」
「そう、そこまではあったんか! その時、ちゃんと中を確認したん?」
「うん、あったよ。そのあと北の広場で大道芸を見とる時に、誰かとぶつかって……。気づいたら鞄の紐が緩んどったんよ!」
「あ! 怪しいじゃん! 鞄の中、その時、確認したん!?」
「いや……書塾に来てから、ないことに気づいたんよ!」
秋月は顎に手を当てる。
「……なるほどねぇ。ってことは、北の広場でぶつかった時に落としたか、誰かに抜かれた可能性が高いよね。よし、まずはその北の広場へ行ってみようや」
「よし決まり! 犯人を絶対捕まえてやるけぇね、ほら、走るよん!」
多くの人で賑わう北の広場に到着した三人。
「ねぇ、林。家宝の墨の特徴、大きさや形状を教えて」
「うん、大きさはこれくらいで、龍の彫刻が施された見事な墨だよ。すごく上質な油で作られとるけぇ、触ると手が少し黒くなって、蘭の花のぶちええ匂いがするんじゃ!」
「蘭の花の匂い……。あ、見て。あそこの壁際、かすかに黒い筋がついとる」
三人は壁の近くに移動し、秋月が鼻をヒクヒクと鳴らした。
「うん、ほのかに蘭の花の匂いがする……あ! あそこの日陰!」
秋月の指さす先には、顔が少し黒く汚れた一匹の野良犬が、龍の彫刻が施された墨を前足でコロンコロンと転がして遊んでいた。
「あ、あれじゃ! ワシの家の墨じゃ!」
「わあ、ワンちゃんが泥棒じゃったん!? よし、うちが捕まえてやるけぇね!」
「あ、明蘭、待って――!」
秋月が止める間もなく、明蘭は「待て〜!」と勢いよく飛びかかった。
驚いた野良犬は「キャーン!」と鳴くと、すばやく墨を口にくわえ、北の広場から全力で逃げ出した!
「ああっ! 逃げたじゃん! 追うよん!」
「待ってぇぇ〜! ワシの家宝〜〜!」
野良犬は、賑やかな東の市場をすり抜け、魚屋や果物屋の棚の間を「あっち」へひらり。
「こら、待ちなさい! 走ったら危ないよん!」
「ハァ、ハァ……足が速すぎるじゃん!」
三人は大声で叫びながら市場を駆け抜ける。買い物客や店主たちが「なんじゃなんじゃ!?」と驚いて避ける中、犬はさらに川沿いの船着き場へと「こっち」へ突っ走る。
「明蘭、林! そっちの細い道から回り込んで! 挟み撃ちにするよ!」
「了解じゃん!」
秋月の指示で二人が回り込むと、行き場を失った野良犬は、西の古い路地裏へと逃げ込んだ。
三人が追いついた時には、路地裏のどん詰まり。
背後の高い壁に追い詰められた野良犬は、ウゥーと低く唸りながら、大事そうに墨をくわえて身構えている。
「ふぅ……ふぅ……追いついたじゃん! もう逃げられんよん!」
明蘭が捕まえようと一歩踏み出すと、犬はさらに警戒して墨を強く噛みしめようとした。
「待って明蘭、驚かせたらいけん! 強引に取ろうとしたら、せっかくの墨に歯形がついちゃうよ。……林、鞄の中のあさ買った肉まん、まだ残っとらんのん?」
「あとで食べようと思って、半分残しておいたんよ!」
「そう、それをワンちゃんに見せてみて。墨より、そっちの方が絶対に美味しいけぇ」
「お、おう……。ほらワンちゃん、美味しい肉まんじゃぞ。その黒いのは食べられんけぇ、こっちの肉まんと交換しようや」
林が息を整えながら、優しく声をかけて肉まんを差し出す。野良犬はふんふんと鼻を鳴らし、肉まんの甘く香ばしい匂いに目を輝かせると、くわえていた墨をポロッと落として肉まんに飛びついた。
「やったぁ! 林、今じゃん! 墨を回収しようや!」
林は急いで墨を拾い上げ、服の袖で丁寧に泥を拭った。幸い、噛み傷も大きな傷もついていなかった。
張林は感極まって涙目である。
「よかったぁ……! 北に東に西に、ぶち走った甲斐があったわぁ! 秋月、明蘭、本当にありがとう! 二人がおらんかったら、ワシ今頃お父さんに家を追い出されとったわぁ!」
「うふふ、無事に見つかって良かったねぇ。あっちこっち走り回って、ぶち疲れたけど楽しかったわ」
「よし! お手柄じゃん! これで今日の事件も解決よん! ぶちお腹空いたけぇ、みんなで沈家のご飯食べに行こうやぁ!」
林も一緒に、沈家の夕食に混ざっている。机の上には、流石、家宝だと言うだけの立派な墨が置かれている。
「あらあら、あなたが林くんね。大変な目に遭ったねぇ。お家の大事なものが戻ってきて、本当によかったわ。あっちこっち走ってお腹が空いたでしょう、お肉多めの炒め物を作ったけぇ、たくさん食べんさいね」
林は恐縮しながら大きな声で返事をした。
「あ、ありがとうございます! いただきます!」
沈父は墨をじっと見つめている。
「……まずは事実を確かめる。林、この龍紋の墨は、明朝の職人が作った極上品じゃ。お主の父親が大切にするのも無理はない。じゃが、街中を駆け回った挙句、犬と肉まんで交渉して取り戻すとは……お主たちの機転と体力、なかなか見事じゃな」
「でしょ〜! うち等のコンビに、新しい仲間の林が加われば三人組じゃん!」
秋月はクスクス笑う。
「林はただ落として走っただけだけどねぇ。でも、これからは三人で書塾の宿題も、あっちこっちの冒険もできるね」
「おう! ワシ、もう二度と物は落とさんけぇ、これからもよろしくな!」
賑やかになった沈家の食卓で、三人は楽しそうに笑い合うのだった。




