第3話 お守りを探そう
秋月の通っている王老師の書塾の戸を引くと、真っ先に鼻腔をくすぐるのは、何年もかけて壁や床に染み付いた、あの濃厚な墨の匂いだった。
秋月にとって「いつもの匂い」である松煙墨の香りが、部屋の隅々まで濃密に立ち込めている。その香りに包まれるだけで、自然と背筋が伸びるような気がした。
しかし、視線を巡らせれば、部屋の中はやはり老師らしく雑多だった。古い書物が並ぶ静かな教室。
秋月は筆を握り、じっくりと文字を観察しながら書いている。隣の明蘭は、退屈そうに頬杖をついて足をぶらぶらさせている。
「ねえ明蘭、この『和』っていう文字の最後のハネ、どっちに流すのが正しいんじゃろうか……?」
「そんなん、勢いでピッと跳ねたらええんよん! あーあ、お勉強ばっかりじゃ退屈じゃん! どっか面白いとこへ冒険に行こうやぁ、秋月〜!」
そこへ、第二書斎から王老師が静かに歩み出てくる。
その手には、いつも大切に持っている古い木札のお守りがない。
「これこれ、明蘭。お勉強も立派な冒険じゃぞ。……じゃがの、今日はちと困ったことが起きてのぉ、助けてくれるか」
「老師、どうしたん?……あ、いつも腰に下げとるお守りがないよね?」
老師は、感心したように囁く。
「ほう、よく気づいたのぉ、秋月。古い紙は昔の声を運ぶと言うが、あのお守りもワシの古い宝物でな。今朝、書塾へ来る途中で落としてしもうたようなんじゃ」
「ええっ、大変じゃん! どこで落としたん!? わかったら、うちが今すぐ探してきてやるよん!」
老師は、静かに微笑みながら語る。
「慌てなさんな。今朝は、東の薬問屋へ寄り、西の織物屋へ寄り、南の茶壺売りと話し込んでな。どこで落としたか、ワシの古い記憶では霧の中じゃ。……どうじゃ、お主たち。これを今日の宿題として、探してきてはくれんかの?」
「東に西に南……文字通りあっちこっちじゃねぇ。よし、明蘭、まずはどこから行くかね?」
明蘭は、秋月の腕をガシッと掴んで走り出す。
「そんなの考えるより先に突撃じゃん! 東の薬問屋へ走るよん!」
「わわっ、また引っ張る〜! 老師、行ってきます!」
東門へと続く大通りに位置する薬問屋・百草堂は、漆黒の立派な看板に金文字が躍り、軒先には何百もの小さな引き出しが並んだ巨大な薬箪笥が壁一面に見える。店内に一歩近づくだけで、生薬特有の苦くも清涼感のある香りが漂ってくる。どっしりとした佇まいの大店だ。
店先にいる古株らしきおじさんに声をかけた。
「おじさん、おじさん! うちら、老師の塾の者です。ここに王老師のお守り、落ちとらんかった!?」
「お守り? ああ、老師ならさっき店先でクコの実を眺めとったが……。お嬢ちゃん、ちょいまてよ。おい、大法。おまえ知っとるか?」
古株のおじさんは店先を掃き清める店員に問いかけた。
「へい、お守りなんて上等なものは落ちてなかったねぇ。店先は私たちが綺麗に掃き清めたばかりだから、あればすぐに気づくはずさ」
薬問屋の店員は首を振った。ここでは落としていないようだ。落胆する二人を見て古株のおじさんはある情報を教えてくれた。
「あ、わしもお守りは見とらんねぇ。ただ、西の織物屋の奥さんなら耳が早いから知っとるかものぉ」
「西の織物屋……! 明蘭、やっぱり闇雲に走るより、手がかりを繋げた方が早いよ?」
「ほんまじゃん! 秋月、冴えとるねぇ! 次は西へダッシュじゃ!」
「もう、引っ張らんでってば!……あ、おじさん、お兄さん、ありがとうございました!」
西門近くにある織物屋・錦繍閣は白壁に鮮やかな紅色の提灯がいくつも下がり、風が吹くたびに店内に吊るされた上質な絹織物がひらひらと揺れて目を引く色鮮やかな布が並ぶ華やかな店だ。
「おばさん、ここに王老師のお守り、落ちとらんかった!?」
「ああ、さっきのねぇ! 老師の服から何かがポロッと落ちそうだったけぇ、教えようとしたんよ。でも、南の茶壺売りの声にかき消されて、老師、そのまま南へ歩いて行っちゃってね……」
「じゃあ、落としたのはここじゃないん? その時、お守りはまだ地面に落ちとらんかったんかねぇ?」
織物屋の奥さんは続けた。
「そうそう! 紐が服の帯に引っかかっとったけぇ、ぶら下がったまま引きずりながら歩いて行かれたんよ」
「ってことは、南の茶壺売りのお店の近くで完全に落ちたってことじゃん! 急ごうや!」
南門近くの、少し落ち着いた職人街にある、歴史を感じさせる佇まいの店。ここは翠銘軒だ。年季の入った渋い焦げ茶色の木造建築。軒先には素焼きの茶釜からゆらゆらと湯気が立ち上り、店主が自慢の茶葉を煎じる香ばしい香りが道行く人を引き寄せる。
店先の地面をキョロキョロと探す二人だった。
「ないよん……どこにも落ちとらんじゃん! 誰かに拾われちゃったんかねぇ……」
秋月は立ち止まって、茶壺売りの棚をじっと観察する。
「……待って。あの棚の端っこにある、一番小さくて古い茶壺。あれ、売り物じゃないよね? なんであんなとこにあるん?」
「え? どれどれ……あ! 茶壺の取っ手に、老師のお守りがぶら下がっとるじゃん!」
「おや、それかい? さっき足元に落ちとったけぇ、泥を払って、一番目立つ特等席の茶壺に飾っといたんよ。老師の大事なもんなんかい?」
「やっぱり!そうだよ、 おじいさん。もらって帰っていい?」
二人が嬉しさのあまり手を伸ばそうとしたその時、店主の老人がパシッと竹の物差しで棚を叩いた。
「これこれ、触るんじゃない。確かに老師の落とし物のようだが、これは子どもには渡せんよ」
「えっ、どうしてですかぁ? うちら、先生に頼まれて……」
「ダメなものはダメだ。お守りというのは、他人に悪用されたら呪いにも使われる大切なもの。あのご高名な先生の持ち物とあれば、なおさらだ。いくら弟子だと言っても、本人が来ん限りは渡せんねぇ。そういうルールじゃけん」
おじさんは腕を組んで、ぷいっと横を向いてしまった。 確かにあるのに、あと一歩が届かない。下手に騒げば官府の役人に「泥棒だ」と怪しまれてしまう。
「どうしよう……おじいちゃん、全然言うこと聞いてくれんねぇ」
困り果てた二人は、店の前で頭を突き合わせてひそひそと相談した。悩んだ末、秋月たちは「老師を連れてこよう!」と腹をくくり、走って書塾へと引き返した。
書塾の第一書斎では、老師が散らかった紙くずの中で、所在なさげに頭を掻いていた。
「見つけたんじゃけど、おじいさんが老師本人じゃないと渡してくれんのよ!一緒に来て!」
秋月たちは息を切らせながら、ことの経緯を報告したのだった。
「ほう、 翠銘軒の親父が、わしに取りに来いと?そう、なら、一緒に行こう」
老師を左右から急かすようにして、二人は再び南門の街へと引っ張っていった。再び『翠銘軒』の店先。
「店主。わしのお守り拾ってくれたそうだな」
老師がのんびりと現れると、茶壺売りのおじさんは一瞬きょとんとしたが、おじさんはニヤリと笑うと、そっとお守りを取り出し、老師の前に差し出した。
「本人に受け取ってもらおうと思いましてね、老師」
「おお、これじゃ、ありがとう、店主」
無事に翠銘軒で王老師はお守りを受け取り、嬉しそうに、そして懐かしむように目を細めて二人に話しかけた。
「あっちこっち探してくれて、すまなかったのぉ」
「へへーん、うちと秋月のコンビにかかれば、こんなの朝飯前じゃん!」
「でも老師、なんでこのお守りをそんなに大切にしとるん? 古い木札だし、文字も掠れて読めんのに……」
老師は、静かに微笑み語りかける。
「これはな、ワシが若かりし頃、初めてお役人の試験に合格した時に、亡き妻が作ってくれたお守りなんじゃ。古い紙は昔の声を運ぶと言うが、この木札も、ワシに当時の志を思い出させてくれる。お主たちが届けてくれたお守りの声は、一段と温かいのぉ」
秋月は、お守りをじっと見つめ
て答えた。
「……そっか。素敵な声じゃねぇ」
「よーし! 宿題も終わったことだし、お腹空いたじゃん! 秋月、沈家のご飯、よばれに行こうやぁ!」
「うふふ、そうだね。じゃあ、老師、また明日!」
夕暮れの街を、またドタバタと手を引き合って帰っていく二人。王老師は、書塾の机に広げられた二人の「和」の文字を見つめ、優しく微笑むのだった。




