第1話 消えた写本
朝の光が川面を銀色に揺らすころ、沈秋月は李明蘭と並んで朝市の通りを駆けていた。二人共、王老師の書塾に通っている10歳の女の子だ。
干し魚の匂い、布地の擦れる音、威勢の良い掛け声が響く。秋月は父親から「街の動きをよく見なさい」と言われていることもあり、果物売りの新しい荷や渡船の様子など、日々の小さな変化を目ざとく見つけるのが癖だった。
「秋月、足が遅いじゃん!王老師、今日も絶対あくびしながら待っとるんよ!」
「ちょっと待ってぇや。あの行商人さん、昨日と違う珍しい墨を持っとるけぇ……ねえ、あれってどういう意味なんかねぇ?」
「知らんよ!秋月は観察ばっかりしとらんで、はよ行こうや!」
二人が押し開けた書塾の障子の奥からは、いつもの墨の匂いが立った。だが、いつもと様子が違う。本や紙くずが散らかり放題で、頭を抱えた王老師が座布団に突っ伏していた。
文机の上には、飲み干された酒壺と、その横には、なぜか妙に分厚く盛り上がった座布団がそのまま放置されている。
「もしや川に落としたか、茶館に忘れたか……昨日のことが思いだせん。どうしたもんかな」
ふと、中庭に面した格子の飾り窓の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてくる。
「なんか騒がしいな。どうかしたのか?」
懐に官府へ提出するための大切な巻物を抱えた父が、役所での手続きのついでに、心配そうに窓の外を通りかかったのだ。その隣には、おくるみに包んだ温かい茶壷を手にした母が、柔らかな微笑みを浮かべて佇んでいる。
「古い紙は昔の声を運ぶんじゃ。耳を澄ましんさい……と言いたいところじゃが、声どころか大事な写本が消えてしもうた!」
「それはどう言う事ですか?王老師」
「昨夜、酒を飲み過ぎて、大切な写本をどこかに置き忘れたようなんじゃ」
「老師、まずは事実を確かめんさい。それが大人の務めだ。昨夜どこで誰と飲んだかを整理しましょう」
「まぁまぁ、お茶を持ってきたけん。落ち着いて話しましょう」
「昨夜のことなんだが、よう覚えとらんのよ。酒楼に行ったような行かなかったような気もするけん……」
頭を抱える老師を見て、秋月は胸を痛めた。あの写本は、老師がいつも愛おしそうに撫でていた大切な本だ。自分が探して見つけてあげたら、きっとすごく喜んでくれるはず――。
「そんなの放っておけないよん!秋月、一緒に行こうや!」
「うん、うちも行くわ!あちこち探してみようよ!」
二人は飛び出していった。まずは目星をつけた酒楼へ向かった。
「店主、王老師が昨日、来たじゃろ?」
「いきなりどうした。王老師は来らんよ。ここは子供が来るところじゃないんよ、はよ帰りんさい」
「もう、老師ったらここ来らんじゃん! ほら、秋月走るんよ!」
「ああっ、引っ張らんでってば!……あ、店主、ありがとうございました!」
次は茶館へ走る。
「店主、王老師が昨日、来たじゃろ?」
「おうよ、昨夜は機嫌よく酒を飲んで、手ぶらで帰っていったぞ」
と店主。
「手ぶら……?ということは、その前にどこかで落としたんよ?ようわからんくなったわ」
その頃、役所の裏手では秋月の父も同僚に尋ねていた。
「昨夜、循環中に書塾の王老師を見かけなかったかい?」
いくら尋ねても求める手がかりは一向に掴めない。視線を上げれば、汗を拭う下役たちが、うず高く積まれた公文書や荷を抱え、廊下を忙しなく行き交っている。誰もが己の職務に追われ、こちらを振り返る余裕すらない。それが、この厳格なる官衙の、いつもの見慣れた日常の風景であった。
街をあっちへ走り、こっちへ戻り、すっかり途方に暮れた二人は川沿いの船着き場へたどり着いた。そこで、朝市で見かけた謎の行商人が、古びた竹籠を大切そうに抱えているのを見つける。
「あの行商人、怪しくない?もしや写本を拾って売ろうとしとるんじゃ……」
秋月は意を決して踏み出した。
「行商のおじさん!その籠に入っとる珍しいものって、なんなん?」
行商人はふっと口元を緩め、竹籠の蓋を少しだけ開けて見せた。中にあったのは、芳しい香りを放つ珍しい茶葉の包みと、一枚の和紙。その和紙を渡された。
「見えるものと見えぬものがある。お嬢ちゃん、大切な探し物は案外、お前のすぐ影の下にあるかもしれんよ」
そう謎めいた言葉を残し、行商人は去っていった。
「なんなん、影の下って?うちらの足元?それとも……」
二人は再び市場や裏道を走り回ったが、手がかりは一向に見つからない。夕暮れの風が吹き抜ける頃、すっかり疲れ果てた二人はトボトボと書塾へ戻ってきた。
部屋に入ると、自分の文机でぐうぐう寝ていた王老師が、うーんと唸って目を覚ました。
「お前たちどこ行っとったん。講義の時間を曠課し、あちこち遊び回るとは、一体いつ正業を修めるんよ!」
「曠課してごめんなさい。二人で老師の写本を探してたんよ」
「まあ、良い。明日までにこれを抄写しんさい。それにしても、今日はどうも尻が痛くて寝心地が悪いんじゃ……」
老師は文机に肘をつき、妙に盛り上がった座布団の上にどかっと座り直した。その背中に夕日がかかり、床に長々と黒い影を落とす。
その影と、老師のお尻の下を見た瞬間、秋月はハッと目を見開いた。
「……あ! 影の下って……!」
「え? なにが?」
首をかしげる明蘭。
「あ……行商人さんが言っとった『影の下』ってこれのことか!」
「ええっ!? どういうことなん!?」
秋月は思わず文机に駆け寄った。
「老師! ちょっとその座布団、どけてみてください!」
老師が「なんじゃ急に」と首をかしげながらお尻を浮かせ、下に敷いていた分厚い座布団をどかした。――すると、その下から探していた写本があっけなく姿を現したのだ。
昨夜、酔っ払った老師が「大事な本だから」と座布団の下に隠し、そのまま忘れて一日中その上に座り込んでいただけだった。
「「ずこっ!!」」
秋月と明蘭は見事なズッコケを見せ、老師は顔を真っ赤にして「ゴホン!ゴホン!」と盛大に咳払いをしたが、二人に課した抄写は取り消さない。
その日の夜、沈家の食卓には湯気が立つ豆腐料理と炒め物が並んでいた。秋月が今日の「あっちこっち冒険劇」を夢中で話すと、父は温かい目を向けた。
「やれやれ……じゃが秋月、町を走り回って色々と人に話を聞いたのは良い経験になったな。足で確かめるのが一番大切なんだ」
「うん!でも次は、老師のお酒を控えさせるところから始めんといけんね。それと抄写もね!」
秋月が笑うと、母がそっと温かいお茶を注ぎ足してくれた。川沿いの小さな町に、今夜も穏やかな夜が訪れていた。




