セルフィー・メロディー
赤ちゃんはコウノトリが連れてくるんだよ。わたしはまだ生まれたばかりの赤ちゃんで、わたしを選んだコウノトリがいて、わたしを赤ちゃんポストのような小さなゆりかごに運んでくれたの。わたしは物心ついたときには、何人かの大人の顔が近くにあった。その大人というのは身の回りのお世話をしてくれる先生たちだったと思う。そのころはもう小さな養護施設に住んでいたから。施設には大人だけじゃなくて、年の違う子どもたちもいた。女の子も男の子もいたの。
わたしが成長するにつれて、施設には自分より小さい子が入ってくるのね。わたしは自然とお姉さん的な役割を演じるようになっていったの。でも、それは年下の子たちの見本となるというよりは、自分を居心地よくさせるためといった方がよかったわ。施設でわがままを言って先生に目をつけられるよりは、大人しく言いつけに従っておくようにするの。先生に普段から力を貸していた方が、いざというときに力になってもらえることがわかっていたの。幼いころから処世術というものを理解し始めていたのかもね。
わたしは自分の親のことを知らないし、今まで親がいたことがない。だから、もしわたしに親がいたらどうなっていたか? と想像することは意味がないと思ってる。わたしは女だけど、もし男だったら? と考えてみるのが馬鹿げているように。
街で楽しそうにしている親子連れを見かけると、胸がきゅっとすることもある。そういうときは、あの人たちはわたしとは別の世界の人たちだと思うようにしてるの。世の中って、そうしたいろんな世界の人たちが集まってるよね。まるでピラミッドのヒエラルキーのような現実。子どものころから、そんな背伸びをした考えを持っていたの。それは静かな諦観のようなもので、たまに崩れ落ちそうになるわたしの防波堤になってくれていたような気がする。
いつからか、わたしは苦しみから身を守るために、繭のような真綿の中にくるまっていたの。それは自分専用の透明なシェルターのようなものね。その中でわたしは本を読んでいたの。
あるとき、コインロッカーの中で生まれた子どもたちが懸命に生きていくお話があると知ったのね。図書館でその本を借りて読んでみて、自分もこんな冒険ができたらいいなと勇気のようなものをもらったの。それは素敵な自信と言い換えてもいいかもしれない。
それで、もっとたくさんの勇気を見つけることができるんじゃないかなと思って、何冊も本を読み続けた。その過程において、いろいろな視点も手に入れたような気がするの。そんな眼を通して見る景色は思春期の彩りのようにとても美しくてうっとりする。そのうち、わたしは文芸誌まで触手を伸ばし始めたの。好きな作家さんの作品は、本になる前にどうしても読みたくなるときがあるのね。
公立の高校に受かったから、高校卒業までは施設にいられることになったの。一安心っていう気持ちだった。だって、中学を卒業してすぐ働くのなんてすごく大変だと思うし、将来住むところや生活費をどうするか、いろいろ考え出すと憂鬱になる。住み込みの仕事を探すのがいいのかな? 身体を売って手っ取り早くお金を稼ぐ方法もあるとは思うけど、すごく危険を感じるし、わたしには到底無理な感じがする。自立した生活は、高校卒業までお預けってわけね。とりあえずは卒業した後のことを考えて、少しずつだけどバイト代から貯金をしているの。
バイトはね、『グリーシー・スプークス』というレストランのウェートレス。学校と施設から近いというのもあるけど、なんといってもパンケーキがおいしいの。一口ほおばると至福のひとときが訪れて、もうそれで決めたようなものね。バイトは社会勉強の一環だから、早く慣れておくに越したことはないと思ってね。
学校のクラスの中にも、ヒエラルキーのようないくつかのグループがあるわ。世界のミニチュアを眺めてるようなものね。子どもたちって大人の真似をするでしょ。それに近いようなものね。わかりやすくて、くらくらするわ。見た目のいい人やおしゃれな人は、上の方の階層にいる感じがする。勉強ができる人やスポーツが得意な人もね。でも、ほんとうに一番立派なのは心のやさしい人だとわたしは思っている。
そう考えると、スマホや携帯って武器のような気がするの。みんな持ってるから平等っていう意味でね。武器っていうよりは、祈りのロザリオ? または偉大なドラッグ?
いつも手元にあって、手放せないもの。もうライフラインの一つだよね。
わたしは利用料金をバイト代で払ってるから、どう使おうとわたしの勝手だと思ってて。それで、わたしはこっそり自分のブログを作ったの。タイトルは『セルフィー・メロディー』。ブログのデザインはシンプルに白の背景にしたの。まだまだタブラ・ラサのティーンエイジャーってことね。で、文字は全部黒。強くてクールな感じにしたかったの。ブログは非公開にしてるから、他の人は見ることはできない仕組みになってる。
『セルフィー・メロディー』には自分の小説を投稿しているの。それは文学少女を気取ったわたしの小さな宮殿のようなものね。そんな言い回しは自分でもちょっと痛いなとは思ってる。それに、宮殿といってもリアルの王子様はいないんだけどね。二次元の王子だったら心の中にいるけどね。
気が向いたときには自撮りをして、自分の画像もブログにアップしてる。もちろん何枚か撮って、一番自分がよく見える写真を使うの。撮る角度を変えたり、照明を工夫したりしてね。でも、加工アプリで写真を盛るようなことはしたくないの。それは、わたしのささやかな正義のようなものね。
自撮りのデータはスマホ本体から消すことが多いかな。残しておくと恥ずかしいような気がするから。逆に内緒の画像を裏アカでアップする人もいたみたいだけど、あれって拡散されたらやばいよね。恥ずかしい過去がネットの海をさまよい続けるんだよ。自分だけの秘密のつもりかもしれないけど、そんなのはくわしく検索するとヒットするよね。若き日の青い衝動というか、やっちゃった感が半端ない。人に見てもらいたい承認欲求のようなものなのかな。位置情報が入ったままだったら、個人の特定もされてしまうかもしれないし。内容によっては、仕事のときや結婚するときに差し支えるような気がするな。何かの画像が調査でひっかかって破談になってしまったら悲惨だと思う。
そう考えると、今の情報社会って諸刃の剣だと思うの。情報をゲットしやすいけど、ゲットされやすいっていうか。それに乗じて、偽の情報をばらまいているような人たちは最低だと思う。それと、うっぷんを晴らすように誹謗中傷を書き散らしている人たちもね。宮殿の姫としては「あら、あなた方。大層お暇なご様子ね。もう少し建設的なことでもなさったら」とでも言ってあげたいわ。いずれにしても、周囲に振り回されないように自分を慎重に守っていかないとね。
話はちょっと変わるんだけど、この前『文芸的な』っていう文芸誌を読んでいたら、文学に関係するイベントの告知が載ってて、何かおもしろそうだなって思ったの。「みんなで小説を作る実験」みたいなことが書いてあって、イベントのタイトルは『ある変奏』っていうの。そんなのはこれまでなかったでしょ? 自称文学少女のわたしにはぴんと来たっていうか。
さっき話したように、わたしは貯金のためになるべく節約しないといけないので、もし可能ならボランティアのような形で参加できればすごくいいなと考えたのね。だから、思い切って編集部にお問い合わせのメールを入れてみたの。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってこういうときのことだと思ったわ。
「『文芸的な』を拝読している者ですが」みたいな書き出しでね。
「イベントのお手伝いを何かさせていただきたいのですが、いかがでしょうか? よろしくお願い申し上げます」みたいに、なるべく丁寧な文章を心がけたの。
そうしたら、担当の方からすごく感じのいいお返事が返ってきたわけ。
「会場内の出入り口付近に物販ブースを設ける予定です。そちらのお手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか?」みたいな内容だったの。もちろん、速攻オーケーの返事をしたわよ。その日はラッキーにもバイトがお休みだし、帰りも夜の門限に間に合いそうだし。
学校の催し物以外のこういうイベントって、わたしは今まで体験したことないから、すごく気分があがりそう。本を読むときとは、また別の心の動きというか、何か熱気のようなものに触れて触発されるような気がする。著者さんや編集者さんみたいな専門家の方々から、いろいろな文学の話をお伺いすることもできるのかなと思って。天にも昇るような気持ちというと大げさかもしれないけど、自分の住んでる世界がぐーんと広がるような気がするわ。さすがに「わたしも小説を書いておりまして」なんて、おこがましいことは言えないけどね。でも、ゆくゆくは自分の小説を読んでもらうことが目標で、そのためにはもっといっぱい本を読んで、いいものを書き続けていかないとだめだなと思ってる。
もしかすると、千載一遇のチャンスが巡ってきたのかもしれない。わたしもここらへんで透明なシェルターのドアを開けて、外に出る冒険をしなくちゃだめだなって思ったってこと。
だって、わたしには、いざというとき頼りになる家族がいないというハンディキャップがあるから。スマホや携帯よりもっと強い武器を手に入れないといけないし。ヒエラルキーのあるこの世界を、渡り鳥のように美しく飛び続けていくためにね。




