8、うしろ髪、ではないけれど引かれます
席を立って帰る、と告げたよつはを珠串は引き止めなかった。ただいつもの笑顔のまま眉を下げて、困ったような顔になる。
その口が開いて引き止められる前に、とよつはがそっと足を進めたそのとき。
がたっ。がたん!
物音が聞こえたのと同時にうしろから引っ張られて、たたらを踏んだ。
振り向けば、よつはの服が引っ張られている。伸びたシャツをにぎっているのは、色白のちいさなこぶし。
いつの間に現れたのか、華奢な体の持ち主が緑の椅子の横に立ち、緑のワンピースから細いうでを伸ばしてよつはを引き止めていた。
「行かないで」
ちいさなつぶやきが、静かな室内にぽつりと落ちる。
うつむいたままの少女がどんな顔をしてそれを言ったのか、よつはにはわからない。けれど握り締めすぎて白くなった細い指が、何かを耐えるようにかすかに震える頼りない肩が目に入ってしまって、よつははくるりと体を反転させる。
その拍子にちいさな手はその場に取り残され、ぱたりと落ちた。握っていたのはシャツのほんのはしっこだったらしい。込められていた力のわりにあっけなく離れた手は持ち主の体の横に垂れ下がり、緑のワンピースにくしゃりとすがる。
「行かないで」
かすかな声は悲鳴のようで、よつはの胸をかき乱す。
そこでかけるべきことばが浮かばなくて、沈黙してしまったのがいけなかったらしい。
「……もう座ってほしいなんて、言わない。ほかの椅子に座っても、文句なんて言わないわ。静かな椅子でいるから、ここに居させて。部屋のすみでいいから、ほこりをかぶってもいいから、あたしをもうよそへやらないで!」
悲痛な叫びが店の空気を震わせた。
そんな声をあげながらも、ワンピースをにぎる少女の手はよつはにすがりつくでもなく、ますます力を込められて震えている。なによりも感情を写すだろうおおきな瞳は、よつはをとらえて訴えかけてくるでもなく、足元を見つめたまま。
なんだかわからないけれど、この子なりの事情があるようだ。うつむいて震える少女を見ながらよつはは思う。
珠串が説明してくれはしないだろうか、とわずかな期待を込めて視線を送るが、ナイスミドルは困ったように眉を下げて首を横にふる。先ほど言い合っていた姿を見ていたからなんとなくわかってはいたが、どうやら少女と珠串はあまり親密な仲ではないようだ。
つまり、少女のことは少女自身に聞くしかなさそうだ。
こんなとき、礼華がいてくれれば相談に乗ってもらえるだろうけれど。ここに居ない人物をあてにしたところで、事態は変わらない。
ならばどうすべきか。
考えたよつはは、すとん、と床にひざをつく。
これで互いの視線の高さは同じになった。うつむいたままびくり、と肩を震わせた少女の顔をのぞき込むことはせずに、よつははことばをさがす。
「……中紅よつは、です。こうして会うのは、きょうがはじめまして」
気の利いたことなんて言えず、ようやく思い至ったのは自己紹介。
そもそも、椅子とひととしてはすでに出会い、座らせてもらってもいる身で「はじめまして」が正しいのかどうか。よつはにはわからない。
けれどもこれが、いまのよつはの精いっぱいだ。
「先日は座らせてもらって、ありがとう。重たくなかった?」
問いかけに、少女の手がぴくりと動く。ワンピースを握りしめていた指がゆるゆるとほどけるのと同時に、うつむいていた頭がほんのすこし持ち上がり、ふわふわの栗毛が揺れる。
「重たくなんて、なかったわ」
ちいさな声だったけれど、ひざをついて向き合ったよつはには、少女の応えがたしかに聞こえた。
「なら、良かった。こんなに華奢だから、どこか痛めてないか心配で」
ほっと息をついたよつはに、少女の頭がさらに持ち上がる。
「あなたが座ったくらいで壊れるほど、やわなつくりはしていないわ。これでもあたし、けっこうな年月を経ているのだもの」
だんだんと上がってくるふわふわの栗毛のすき間に見えた瞳が、エメラルドのようにきらめいた。
すこしだけ明るさを取り戻したように見える顔の可憐さをまじまじと見つめたよつはは、こてりと首をかしげる。
「けっこうな年月……年上?」
細い手足によつは以上に起伏の少ない体。よつはの胸くらいまでしかない身長の少女を眺めて問えば、しゃらしゃらという音とともに忍び笑いが空気を震わせた。少女ではない。よつはの前に立つ少女は、可憐なくちびるをへの字に曲げて不機嫌な顔をしている。
笑いの発生源をさがして視線をさ迷わせたよつはは、振り向いた先で珠串を見つけた。
いつもすんなりと伸びている背すじを曲げた珠串が、肩を震わせている。それに合わせてしゃらしゃらと音がする。よつはと少女から顔を隠すようにしているけれど、わずかに覗くその顔は明らかに笑っている。それも常に浮かべているおだやかな笑顔ではなくて、おかしくて止められない、といった笑いようだ。
「……あなたが相当な童顔だったとして、あたしより年上ってことはないわね」
少女にもむっすりと言われてしまえば、よつはは目をぱちくりするほかない。
「くっ、ふふふ。つくも、は九十九とも書くのです。それだけの時間が経てばなんでも良いというわけではありませんが、そのくらい長い年月を重ねた物がつくもがみになる、と言われております」
「九十九……ひいおばあちゃんと同い年くらい」
「ふふっ、くくくく」
思わずつぶやいてしまうほど、目のまえの少女は愛らしい。たとえよつはの後ろで笑っている珠串をにらみつけていても、その可憐さは損なわれないほどだ。
「百年くらい、ずっとこの店にいたの? それともどこか遠くから来た?」
ふと口をついた疑問だったけれど、その問いは少女の心のやわらかいところに触れるものだったらしい。しゃらしゃらと鳴る音は途切れ、珠串の笑い声もやむ。
握りしめたちいさな手で胸元を抑えた少女は、何かを耐えるような顔で立っている。ゆらめくようなその瞳から宝石の光がこぼれ落ちてしまうのではないか、と思わず伸ばしたよつはの手が少女に触れたとき。
ちかり。エメラルドの光がよつはの目のなかで瞬いたかと思うと、視界に映る景色はがらりと姿を変えていた。