9、それは万華鏡のような
色とりどりのステンドグラスに照らされた白寿堂の景色がさらりと消えて、現れたのはセピア色で描かれた風景。
カーテンの隙間から射し込む月の光に照らされた部屋。影の落ちる部屋のあちらのすみにあるのは、大小さまざまな木の棒や板。こちらのすみにあるのはノコギリや金づち、釘。
雑多にものが散らばる部屋の片隅に組みかけの椅子。乱雑な室内とはうらはらに、細い木を合わせた華奢なあの椅子は……。
よく見ようと目を凝らしたときには、さらり。また景色がかき消える。
そして見えたのは、明るい色の壁紙を貼られた部屋。壁の一面が大きく開いていて、外の光が室内をよりいっそう明るく見せる。
明るい部屋のなかには、大きさのちがうテーブルがいくつか並び、いろいろな背の高さの棚があちらこちらに立つ。
たくさんの家具の合間に椅子も置かれていて、そのうちのひとつに見覚えがある……。
よつはがそれを見つけたときには、さらり。ふたたび景色が消えていた。
次に見えたのは街並み。外国だろうか。道を走るのは車ではなく馬車。荷台から大きな箱をおろす男たちの後ろ姿や、帽子を目深にかぶり紙の束を抱えた少年の姿が見えた、かと思うと景色は崩れ、また変わる。
暖炉のある部屋。ゆりかごのそば。だれかの背中。木陰の芝生。
くるくる切り替わる視界は速度を増していく。
夜空の月。窓の波。荷台、部屋、影、影、影影影影……。
さらん。
最後にかすかな音をたてて、セピア色の景色は消え失せた。世界に色が帰ってきた。
よつはの視界に映るのは、赤、青、黄に緑。色とりどりのステンドグラスの色が降り注ぐ白寿堂の部屋のなかだった。
「いまのは……」
「あたしの記憶よ。椅子だったときの記憶。あやふやで、途切れ途切れで、なにひとつ確かに覚えているものなんてない、どうしようもない記憶」
よつはのつぶやきに、少女が吐き捨てるように答える。
ひとみを涙でうるませながら、けれど決して弱気な表情ではなく、何かをぎりぎりとにらみつけている。
「つくもがみになれるほど長い時を経たのに、あたしはひとつも覚えていない。それほどの時をだれかに大切にされてきたのだろうに、だれの顔も思い出せない。ようやく意思を持てたのに、ことばだってしゃべれるのに、それを伝える相手さえ、思い出すこともできないのよ……!」
叫んだ少女のちいさなこぶしが、きしみそうなほど握りしめられている。
やわらかな栗色の髪が触れるまるいほほが、少女自身への怒りでこわばっている。
こんなときなんと言えばいいのか、よつはにはわからない。同じくらいの時を生きてきただろう曾祖母であったなら、なにか言えたのだろうか。けれど、この場にいないひとにたずねたところで、ことばは返らない。
よつはにできるのは、震えるこぶしに手をそえること。そして、自分の持っているささやかな熱とつたないことばを伝えること。
「子どものころのいちばん古い記憶は、だれかがくれたお菓子がおいしかった思い出。これは、三歳のころのことだと思う」
「え?」
突然、語りだしたよつはに少女がおどろいているけれど、かまわない。
「そのつぎの記憶は、窓から見た花がきれいだったこと。母に聞いたらたぶん祖母の家だろう、って言ってた。これは、四歳のころの思い出」
戸惑う少女を放って、よつははさらに続ける。
「ほかには、どこかで会った犬がとても大きくて、こわかった。だれだかわからないけど、公園で仲良くなったお姉さんが好きだった。小学校でだれかにいじわる言われて、悔しかったこと」
ささやかな思い出の断片をふたつ、みっつと口にするよつはに、少女の表情は戸惑いから不機嫌へと変わっていく。
「それが何なの。あなたにはたくさん思い出があるって、言いたいの?」
いらいらとしたことばが投げられて、自身に向けられていた少女の怒りがよつはを向いたことがわかった。
だから、よつはは安心してことばを重ねる。
「そうじゃない。お菓子をくれたひとの顔は覚えてない。どんなお菓子だったかわからない。花の色も形も思い出せない。犬だっていまは好き。公園の場所もお姉さんの顔も、いじわるの内容だってもうわからない」
握りしめられた少女の手に自分の手を重ねて、よつはは伝える。できるなら、かわいい子には笑っていてほしいから。
「いっしょだよ。覚えてるのなんて、かけらだけ。いろんなことをはっきり思い出せるのは、もっと大きくなってから」
手のひらのしたのちいさなこぶしをやさしく握り、よつはは少女を見つめる。よつはがしゃがんで、ようやく目線が同じになるくらいの年ごろの少女。ちいさな体のなかで年相応でないのは、入り混じった感情に揺れる瞳だけ。
「つくもがみのあなたは、いま何歳くらい?」
「え、と……」
「椅子ではなくつくもがみとしてならば、生じて一年ほど、と言ったところですね」
言い淀んだ少女に代わり、珠串が答える。
それに力を得て、よつはは少女の目をじっと見た。
「生まれたばかりなんだって、思うのはどうだろう。椅子だったときの記憶は、生まれる前の羊水の記憶。生まれてからのいろんな思い出は、これからはじまるんだって思うのじゃ、だめ?」
問えば、少女の瞳がゆらゆらと揺れる。
耐えきれなくなった一滴がついに落ちるその寸前、少女はうつむいて、雫の行方はわからなくなる。
「……思い出せないころ、あたしはいい椅子じゃなかったかもしれない。だからいろんなところを転々としたのかもしれない。あなただって、あたしに座りたがらなかったし。それでも……」
下を向いたまま少女が言い淀む。けれど急かすことはせず、よつはは待った。ずっと重ねたままの手が振り払われない限り、待っているつもりだ。
「それでも、これからが、あるの? これから幸せな思い出が、作れるの?」
「……それはわからない」
おそらく、ここは気休めでもいいから肯定すべきなんだろう。そう思いながらも、よつはは不確かなことを言えない。だから代わりに、少女の手を取って握った。
「先のことはわからないけど、あやふやな記憶のあとに、楽しい思い出がある。家族や友だちと過ごした思い出がいま、ちゃんと思い出せるのは確かなこと」
「……そう」
ちいさくつぶやいた少女の声は平坦で、うつむいた彼女の感情をうかがうことはできない。けれど握った手がするりとぬけたことで、少女の心までも離れていってしまったかと、よつはの体の芯が冷えた。
つぎの瞬間。
どん、という衝撃とともに、よつはの視界が塞がれた。
そして首もとを締め付ける、やわらかな感触。
「だったら、あなたがあたしの友だちになりなさい。そして、あたしの思い出をいっしょに作るのよ!」
怒ったような少女の声がよつはの耳元でそう言う。けれど少女が決して怒っていないことが抱きしめられた体から伝わってきたから、ほっと息をついた。
「うん、よろこんで」
よつはは、少女の華奢な体を潰してしまわないように、そっとやさしく抱きしめ返した。




