足りないもの
小学校一年生から使っている学習机に、辞書から漫画までいろいろな本が詰まった腰よりすこし高い棚。中身ごとひとり暮らしの部屋に持っていったクリーム色のプラスチックチェストのぶんだけ広くなった、よつはの部屋。
ほんの半年前までずっと暮らしていたその部屋のベッドのうえ。ころりと寝転がって見るともなしに部屋のなかを眺めていたよつはは首をかしげた。
「この部屋、こんなところだったかな……」
思わずひとりごとをこぼすくらいには、違和感を覚えていた。帰ってきたその日には気づかなかった違和感は、一日、一日と過ごす時間が長くなるごとに強くなっている。
この家に帰ってきてから三週間。お盆を過ぎたいまでは、もう気のせいだと思うことも難しいくらいだ。
けれど、いくら見回してもおかしなところなど見当たらない。
よつはがいないあいだ、家族がきちんと掃除をしてくれていた。よつはが帰ってくると知って、窓を開けて空気の入れ替えもしてくれている。干しておいてくれた布団だってふんわりやわらかく、いい香りがしていて、不快な部分などない。むしろとても過ごしやすい。
なのに、なにかが足りなかった。
しっくりこない。落ち着かない。長い時間を過ごした自分の部屋だということは、間違いないのに。
部屋だけではない。家全体に、なにか違和感を覚えていた。
だからといって家のなかが大きく変わったわけではない。余分な食器でいっぱいの棚に圧迫されたキッチンも、それぞれの定位置がなんとなく決まっている居間のテーブルも半年前のまま。
気心の知れた家族に囲まれて、慣れ親しんだ場所で過ごす気安さはある。
久しぶりに会う友人たちといっしょに時間を過ごす楽しさもある。
けれど、どこにいてもふとした瞬間に足りないなにかを探してしまう。その答えをよつはは見つけていた。
ごそごそとポケットを探って、取り出したのは愛用のペンとセットにしてあるメモ帳。ベッドに寝転んだままメモ帳を開いて、ぱら、ぱらとページをめくる。
事あるごとに書き込んできたメモ帳には、いろんなことが書いてある。
友人と会う約束をした日時、待ち合わせ場所のこと。一人暮らしの部屋に戻ったら、礼華と遊ぶ約束をしていること。試験に関係することや、教授の言ったことばの走り書き。出勤は九月から、という短い覚え書きもあれば、本のタイトルが焦りのにじむ文字で記された箇所もある。
『金継ぎ』や『器のお直し』などの単語が散見されるそのメモからは、割れてしまった器をどうにかしたいと、涙をこらえながら必死で調べた時間が思い出された。
それをぺらりとめくれば、たくさんの文字がみっちりと並ぶページも出てくる。そのなかで丸をつけられた「花緑青」の文字。
「よろこんでくれて、よかった」
しみじみとそうつぶやくのは、よろこんで欲しかったからだ。どうすればよろこんでもらえるだろうと、懸命に考えたからだ。
たくさん、たくさん候補を探してきて決めた名前をなでながら、気づけばよつははほんのりと笑っていた。
ぺらり、またページをさかのぼる。
お茶の名前や淹れ方。それに合うおすすめの茶菓子のこと。珠串から教わったあれやこれやが書かれているそこは、何度も見返したからすこしだけ紙が煤けている。
珠串の淹れた茶の温もりを思い出して、なつかしくなる。
ぱら、ぱらとさかのぼっていたよつはの手が、ぴたりと止まったのは、そのページにたどりついたときだった。
これをメモしたのは、大学の掲示板の前。表題と簡単な募集要項、それから店の住所と店名だけが書かれたチラシを見て書いたのだ。
「……白寿堂……」
思い出を振り返れば、白寿堂がなつかしくてたまらなかった。生まれてから一番長く過ごした場所であるこの家よりも、まだ半年しか過ごしていないあの場所が、よつはのなかで大きくなっていた。
帰りたい。
自分の家に居ながら、そう思ってしまった。
その思いに気づいたら、寝転んでなどいられなかった。
跳ねるようにベッドから起き上がり、部屋のすみのキャリーバッグに手を伸ばす。
すこしの服と、細々した日用品。たいして数のないそれらを集めてどんどん詰め込んでいく。
今日はまだお盆が終わったばかり。九月から出勤という予定より早いけれど、もう戻ろう。荷造りをしてこちらの友だちにも連絡をして、明日にでも出発しよう。
言っていたよりも早く戻ったよつはに、花緑青は喜んでくれるだろうか。珠串はやさしく出迎えてくれるだろうか。なかばさんは体をなでさせてくれるだろうか。店主は、彩はどんな顔を見せてくれるだろうか……。
そんな考えに胸を踊らせながらせっせと部屋を片付けていると、不意に携帯電話がぶるりと鳴った。硬い机に振動をひびかせたそれを手に取ると、礼華からのメッセージが届いている。
なんだろうか、お土産の希望を聞いていたから、その返事かもしれない。
浮き立った気持ちのまま礼華からのメッセージを開いたよつはは、頭の上から冷水を浴びせられたようにがちりとかたまった。
『これ、よつはのバイト先よね?』
そんな文章に添えられていたのは、一枚の写真。
やさしい緑で覆われた前庭にオレンジの屋根と白い壁が鮮やかなその建物は、よつはが見慣れた白寿堂だ。いつもであれば、その佇まいを目にすればよつはの気持ちはやわらいだ。
けれど、写真のなかの白寿堂は、三角コーンとそれをつなぐ黄色と黒のポールに囲まれていた。まるで工事現場だ。
それを肯定するように、ひとの立ち入りを禁止するバリケードの向こうには、今まさに工事をはじめようとしている幾人かの作業員と重機も写っている。
バリケードと白寿堂のあいだに置かれたパワーショベルが、どこに向かってそのバケットを振りかざすのか。
想像してひやりと冷たいものを感じたよつはは、荷造り途中のキャリーバッグをつかむと、夢中で駆け出した。




