お届けもの一枚
見つめ合い、名前を呼んでは返事をするひとりと一匹に、珠串がにこにことほほえむ。
「無事に名前が決まったようで、喜ばしいことですね。そうは思いませんか」
珠串が話をふったのは、揺り椅子に腰かけている店主だ。店主はなにやらむっすりとした顔でシバイヌ、なかばさんを見ていたがよつはの視線に気がつくとぷい、と顔をそらしてしまった。
やっぱり、なにか気にさわるようなことをしてしまっただろうか。
よつはの不安を察してか、珠串が店主を見ながらため息をつく。
「そうやって、ことばを惜しんで後悔したことをもう忘れたのですか」
「……覚えている」
「でしたら、すなおになればよろしいでしょう。この店に居るもので、よつはさんに名を呼んでもらえないのはもうあなただけですよ」
珠串に言われた店主は、ぐっと眉間にしわを寄せてますます不機嫌な顔になる。
ふたりのやりとりを見ていたよつはは、ようやく気が付いた。
「そうだ、店主さんの名前を聞いてなかった」
よつはがこぼしたつぶやきに、店主がぴくりと肩をふるわせる。店主のほうはずっと気にしていたのかもしれない。
役職名で呼ぶことは失礼ではないだろうが、やはり名前くらいは聞いておきたい。そう思って問おうとしたとき。
「好きに呼べばいい」
たずねかけたよつはよりも先に口を開いて、店主が言う。まるではじめからその答えを用意して待っていたかのような素早さだ。
「好きに……」
花緑青に名付けをねだられ、なかばさんの呼び名を決めたばかりのよつはは、さらに名前を考えなければならない状況にとまどった。
なんでもないように言っておきながら、店主の視線はちらちらとよつはに向けられている。まるで、名前の候補が挙げられるのを今か今かと待っているかのように。
「ええと……」
椅子のつくもがみ、花緑青の名づけにもしばらく時間をもらった。石灯篭のつくもがみはイヌの姿をしているから、気分的にも名前をつけやすかった。だが、店主の名前はそう気安くつけるわけにもいかない。それもおそらく、この場で決めるなんて、けっこうな無理難題だ。
日頃、呼ばれている名前を教えてもらえれば、それをヒントに考えることもできるのだが。
「そうだ、健太郎さんにはなんて呼ばれてるんですか」
ここの管理人である健太郎は店主を知っているはずだから、名前を呼ぶこともあるだろう。そう考えて問うたのだが、店主はぷいっと顔をそらしてしまう。
すかさず苦笑を浮かべた珠串が口をはさむ。
「この調子で、いつも恥ずかしがってしまって。名前を呼びあうほどの仲にはなれていないのですよ」
言われて、想像のなかで健太郎と店主を並べてみる。やたらとパーソナルスペースの狭い健太郎が肩でも組めば、この店主はするっと逃げてそれきり近寄らないかもしれない。
なるほど、と納得はするがそれでは参考にならならい。
店主をまじまじと穴があくほど見つめていても、いい案は浮かばない。ただただ、オレンジ色の髪が似合っていて、色とりどりにきらめく瞳がきれいだと思うばかり。
何かないか、とステンドグラスをじいっと見つめてみたり店名をもじってみてはどうか、と思案していたよつはは、不意に声をあげた。
「あ、そうだ」
「なんだ。どんな名だ」
よつはが思わずあげた声にすかさず反応する店主は、やはり名前が挙げられるのを心待ちにしているのだろう。
「すみません。名前じゃなくて、この紙を」
うっかり声を出して期待させてしまったことを申し訳なく思いながら、よつははかばんをさぐってファイルにはさんだ一枚の紙を取り出した。
庭で会ったシバイヌ、なかばさんのかわいさにうっかり忘れていたが、きょうはこの紙を渡すという目的があったのだ。
「おや、何でしょう。『従業員募集のお知らせ』?」
「これは」
よつはが差し出した紙に書かれた文字を見て、珠串が首をかしげる。よつはが差し出したのは、この店に来るきっかけとなったアルバイト募集のチラシだった。手書きのやさしい文字で書かれているのは、表題と簡潔な募集要項、それから白寿堂の住所だった。
一風変わった募集要項を見たのはまだほんの数か月前。あのとき偶然、ほかのチラシの下に貼られていたこの紙に気が付いてほんとうによかった、とよつはは懐かしく、またうれしく思う。
そんなことを考えていると、興味なさげにちらりと視線をよこした店主が、揺り椅子のうえでがばりと体を起こす。身を乗り出すようにしてよつはの手のなかの紙を見つめた店主の目がふるりと揺れたのに、よつはは気が付かなかった。
「これ、大学構内に貼られていたこのお店のアルバイト募集チラシです。正式に雇用が決定したら、学務に申し出て掲示物をはがすことになってるんです。はがしたものはお店に持って行って、適切に処理してもらうように、と言われて持ってきたんですが」
どうしましょうか、と問う前に、店主の手が紙にのびる。
壊れ物を扱うかのようにそっと紙を受け取った店主は、そこに書かれた文字を見つめて、ため息をつくように言った。
「これは、慎太郎の字だ……」
慎太郎ってだれだろう。そう聞くのがはばかられる空気を作り出して、店主はその紙を見つめているのだった。




