あなたのお名前なんですか
庭のすみに自転車を止めたよつはは汗をぬぐい、見慣れた建物をみあげてすこしだけ口角をあげる。
色の濃い青空に映えるオレンジ色も鮮やかに、白寿堂がそこに建っていた。白い壁は清々しい気配を漂わせ、伸び放題の草木を見せるためのキャンバスのようだ。
青い空を背負って建つ一軒家が、いつになく晴れやかな雰囲気をまとっているように感じられるのは、よつはの心境のせいだろうか。
気持ちも軽く、よつはは一歩をふみだした。
「くふん」
白寿堂の前庭にある飛び石に足を置いたよつはを出迎えたのは、草むらから突き出た犬の鼻。石灯籠のつくもがみが鼻先だけを見せて、ちいさく鳴いている。
「こんにちは。きょうはひなたぼっこ?」
「わふ」
目の高さに合わせてしゃがめば、石灯籠が草むらから顔を半分だけのぞかせて短く鳴く。まるで返事をしているような鳴き声に、よつはもつられてことばを返そうとして、気がついた。
「あなたをなんて呼べばいい? 石灯籠さん、ではなんだかな……」
「きゅうう?」
こてり、と首をかしげる石灯籠。犬のことばの翻訳機でもあれば、その鳴き声がなんと言っているのかわかるのだろうか。それともつくもがみだから、同じつくもがみである花緑青に通訳してもらえばわかるだろうか。
「きょうは起きてるかな、花緑青。お昼過ぎだから昼寝してるかな」
「わう」
立ち上がって玄関へと向かうよつはの後ろに、石灯籠が付いてくる。草むらにかくれてよつはの後を追いながら、ときおり半分だけ顔をのぞかせてわふわふと返事をしてくれる。
そのままいっしょに店内に入るつもりなのだろう、玄関までくると石灯籠はよつはの足にぴったりくっついて、足の横から顔をのぞかせている。
「こんにちは」
玄関を開けると、室内のひんやりとした空気が迎えてくれた。
冷暖房の設備は見当たらないけれど、なぜだか白寿堂のなかはいつも過ごしやすい。すごく涼しいわけでもないけれど、暑い日にはほんのり涼しく、肌寒い日にはかすかなぬくもりを感じる。
そのうえ室内ではきれいなステンドグラスも楽しめるとあっては、自分だけがその恩恵にあずかっているのはもったいないな、などと考えてぼんやりしていたよつはの耳に、静かな声が流れ込む。
「上がらないのか」
「店主さん。おじゃまします」
ぼうっとしていたよつはが顔をあげると、そこには階段を降りてくる店主の姿がある。
促されるままに靴を脱いだよつはは石灯籠の脚を掃除用の布切れで拭いてから、いっしょに店内へと足を進める。
ステンドグラスの色を落とした部屋のなか、揺り椅子に腰かける店主がいた。そのそばに置かれた華奢な椅子は、しんと静まっている。花緑青はまだ寝ているらしい。
「そうだ、店主さん。石灯籠さんの名前を知っていますか」
室内に入るや物陰に身を隠し、顔を半分だけのぞかせたシバイヌを見ながら聞いてみる。
揺り椅子をゆるやかに動かした店主は、興味なさげにステンドグラスを眺めている。
「さあな。聞いたことはない。……呼び名は、大事か?」
なにげない様子でそう問われて、よつははぱちりとまばたきをした。即答できるほどの確固たる考えはない。けれど、どうでもいいとも思っていない。
「あるといいかな、と。無くてはならないわけではないけれど、そのものを指すことばがあるなら、それを呼べたらうれしい、と思います」
「……そうか」
そう言ったきり、店主はそっぽを向いてむっつりと黙り込んでしまう。あまりにもまとまらない考えを話してしまったせいで不愉快にさせただろうか、とよつはが心配になってきたころ。
しゃらり、涼やかな音を立てて珠串が奥の部屋から顔を出す。
「そうか、ではないでしょう、まったく。会話を続ける気がないのですか」
あきれ顔を隠しもせずやってきた珠串は、その手にお盆を持っている。姿が見えないと思ったら、台所にいたらしい。
「よつはさん、どうぞお好きなところへおかけください。冷たい緑茶をお持ちしましたから」
店主に向けていた顔を一転させて笑顔になった珠串が言うままに腰かけると、透きとおった緑色の影を落とすグラスが手渡された。
指先から伝わる涼を楽しんでいるよつはの前で、珠串が片ひざを床につく。どうやら、棚の陰からこちらをうかがっているシバイヌを見ているらしい。
「きゅううん」
「ふむ」
見つめられたシバイヌが鳴き声をあげると、珠串はゆったりとうなずいた。なにかわかったのだろうか、よつはが期待を込めて見守っていると。
「まったくわかりませんね。ふつうの犬の鳴き声にしか聞こえません」
しゃらしゃらと笑いながら言って、珠串が立ち上がる。
「名前がわかるものはおらず、言っていることばを聞き取れるものもいないようですね。よつはさんが名前を決めてさしあげては、いかがですか?」
「そんな、勝手に……」
突然の珠串の提案にたじろいだよつはだったが、珠串の肩越しに熱い視線を感じて動きを止めた。
シバイヌだ。
戸棚のわきから顔を半分だけのぞかせたシバイヌの姿をしたつくもがみが、きらきらした瞳でよつはを見つめている。
「……名前、つけていい?」
「わん!」
もしやと思い試しに聞いてみれば、元気のいい返事がある。そのうえきっちりおすわりしてぱたぱたと尻尾を振りながら待っているものだから、よつはも応えざるを得ない。
「ええと、ええと……ポチ!」
「きゅうん」
シバイヌの尻尾が動きを止めて、へにょりと垂れる。
「えっと、コロ!」
「くぅん」
シバイヌの耳がぺたりと倒れる。
「あー、じゃあ、ハチ!」
「きゅうぅ……」
シバイヌはぺっちゃりと床に伏せてしまった。
犬の名前と言われて思いついたものでは、だめらしい。ふむ、とよつはは改めてシバイヌの顔を見る。と言っても、棚からのぞかせている半分だけしか見えないが。
じっと見つめて、ぽつりとつぶやく。
「……なかばさん、はどうだろう」
「わう?」
思いついた名を呼んでみれば、シバイヌは伏せていた体を起こし耳を持ち上げて首をかしげる。
向けられた丸い瞳がなにかを期待しているように感じられて、よつははもう一度呼んでみる。
「なかばさん。いつも、半分だけ顔を見せてくれるから」
「わふっ」
すっくと立ったシバイヌは、元気に鳴いて尻尾をぱたぱたとふっている。
どうやら気に入ってもらえたらしい。ほっとしたよつはがちいさく「なかばさん」と呼べば、名を得た石灯籠も「わふ」とちいさく返事をするのだった。




