7.謝って済むなら、謝りたい
ぽたぽたぽた。
よつはからこぼれたしずくが割れた茶碗に降りかかる。
もしも奇跡が起こるなら、この涙を受けて茶碗が元通りになるだろう。けれど、そんな安っぽい奇跡は起こらずに、ただ涙は壊れた器にそって床にわずかなしみをつくるだけ。
「……割れたのか」
静かな部屋を震わせる声。静かな声だけれど、それを耳にしてよつはの肩はびくりと震えた。
きしり、床板をわずかにきしませて、店主がよつはの向いに立つ。うつむいたよつはの視界に、店主のはだしの足が映る。
「大切にしてくれと、言わなかったか」
問う声からどんな感情も拾えなくて、顔をあげることのできないよつはにはそれを言った店主の表情をうかがうこともできない。
「ごめん、なさい」
こぼれた謝罪は店主へ向けたものか、割れてしまった器へ向けたものか。自分でもわからなかった。
ただぽたぽたと落ちる涙を止めることができずにいるよつはに、店主は静かに問いを重ねる。
「なぜあの男を招き入れた」
「ひとを、道具に触れるひとの手を増やせたら、と」
答えながらも、よつはの胸には後悔が降り積もる。
福永を招き入れて早々に、好き勝手さわって歩く彼を見て招き入れたことは失敗だったかと思っていた。そう思った時点で、彼を帰していたならば。彼が道具を大切にするひとではないとわかった時点で、彼を遠ざけていたならば。そもそも、大学で会った段階でもっと強く彼の接近を拒絶していたならば。
振り返ってもしようもない「もしも」をいくつも積み上げて、後悔に満ちた胸はさらに押しつぶされていく。
どれほど胸を苦しめたとしても、すでに取り返しがつかないことだとわかっていながら、よつはは勝手にめぐる思考を止められない。
「人手が足りているか否か、判断するのはお前じゃない」
店主の一言がぐるぐる回るよつはの思考にぐさりと刺さり、返すことばもないよつははますますうなだれる。
いっそ責めてほしい。感情をあらわにして罵ってくれたなら、よつははひたすら謝ることに集中できた。けれど店主はそうしてくれない。ただ静かな声で問い、よつはの過ちをさらけ出す。
いつも白寿堂を包み込んでいる静謐が、いまのよつはには辛かった。全身を包み込む静けさに耐えきれなくなりそうになったとき、よつはの後ろでかたん、と音がする。
「ふわああ、あ。よつは、来てたの……」
場違いに明るい少女の声は途切れて、軽い足音が近づいてくる。つぎの瞬間にはよつはの視界に映る店主の足に、華奢な少女の足が向かい立っていた。
「ちょっと! よつはを泣かせるんじゃないわよ! いくら意思の疎通するのへただからって、よつはを泣かせるなんて……あら?」
店主に食ってかかろうとした少女は、不意に語気を弱めて戸惑うような声を出す。
「ねえ、よつは。そのお茶碗、どうしてしまったの。寿命? 長く使ったから、もう持たなくなっていたのよね? それで割れてしまったの、よね?」
問うようでいて、肯定を求めている花緑青の声によつはは顔をあげられないでいた。「ちがうの? 寿命を迎えたのではないの?」そうつぶやく少女に、答えられない。
「ああ、あたし、さっき夢うつつに聞いたわ。知らない男の声。その男ね? その男がやったのね。だったらよつはのせいではないわ。だから泣かなくてもいいの。ちゃんと道具を大切にしてくれるよつはだもの、白寿堂をクビにさせたりしないし、これからもずっとここへ来て……」
裏返りそうに明るい声で言う少女に、よつははゆるゆると首を横に振る。もう聞いていられなかった。
「ちがう、招き入れてしまったのが、いけなかった。道具を大切にしてるつもりで、道具を危険にさらしてしまった」
「よつは……」
否定ができないのだろう、花緑青は弱弱しくよつはの名を呼ぶだけで、ことばが続かない。割れた茶碗のかけらをすくい上げて体を震わせるよつはのうえから、店主の声が落ちてくる。
「おれは、物を大事にしないやつは嫌いだ」
静かな声が、よつはの胸に突き刺さる。
刺さったことばの冷たさによつはは息もできないほど苦しくなって、涙を振りこぼしながら立ち上がる。
「よつは!」
少女の悲鳴じみた呼び声も振り切って、よつはは白寿堂を飛び出した。靴をつっかけ、無我夢中で駆けていく。
たまらなかった。
胸を突き破りそうな感情に振り回されるままに、なにも考えずひたすら駆けていく。
知らない道に入ったことも気にならないまま、ただただ駆けて駆けて駆けて、おぼれるようにあえぎながらそれでも足を止められなかったよつはを止めたのは、ひたいに落ちたしずくだった。
ぽつ。
しずくの冷たさにおどろいて、足が止まる。
ぽつ、ぽつぽつ。
立ち止まったよつはのうえに、よつはの見知らぬ景色のうえに、雨はひとしく降ってくる。
見上げれば、空はいつのまにか灰色の雲に覆われて、遠くの建物はけぶるように姿を消していた。
雨のせいかしんと静かな道のうえで、よつはは空を見上げてぼんやりとする。
夏が来るまえに梅雨があるのだったな。
そんな当たり前のことをいまになって、思い出したのだった。




