帝国軍北部地方兵団所属・曹長それがしの戦果
(1)
まどろみから覚醒したわたしは、何度かのまばたきの後に遅れて思考を開始した。
数か月ぶりかの、ふわふわのベッドシーツの感触。ぬくもりを抱くその純白に、わたしはすっかり包まれていた。
身に纏っているのは、血と汗と泥と硝煙にまみれた野戦服ではない。しみひとつない清潔なパジャマだった。
辺りを見回すと、野戦病院とは到底思えないような内装の部屋が広がっている。暖かみのある木造建築だ。
ベッドの横の窓からは、朱い陽の光が差していた。そういえば、今は黎明なのか。それとも薄暮なのか。
薄手の掛け布団をめくると、そこには見るのも憚られる銃創が……無かった。
右わき腹に2発、右腿に3発。連合の兵が放った9ミリが、私の肉を貫いていった筈なのだ。
被弾してからは必死に身を隠し、歯を食いしばりながら連中が過ぎ去るのを待った。その時の寒さも、熱さも、痛みも鮮明に覚えている。
……ああ、そこまでだ。そこから先はまさしく五里霧中、恥も見聞も小銃も投げ捨て、一心不乱に駆けだした。
死にたくない一心で、どれだけ走ったか。樹の根につまずき額をしこたま打ち、獣の遠吠えに怯えるあまり吐き下し、
それでも走って走って……気が付けば、いささか質素ではあるが、これまでの状況と比べれば天国もかくやと言うべき環境にある。
試しに右脚を大きく曲げ、そして伸ばしてみる。目を凝らせば、若干の痕が残っているのが見える程度である。
適切な治療を受けたにせよ、施術後の自然治癒でここまで回復するとは。それとも、予想するよりも遥か長期間を寝て過ごしていたのか。
ベッドの傍らに置かれている小さな丸テーブルの上には、古びた室内灯。そして、鮮やかな紫を携えたスミレが活けられた花瓶。
誰かが私を看病してくれた。それだけで、胸がいっぱいだ。ここに来て人間扱いされた事が、胸を突くほどに嬉しかった。
最新鋭の武装に身を包んだ連合の兵たちとの泥沼の塹壕戦、そんな環境では性差など二の次である。
女のわたしが叩き返されなかったのは、それほどまでに地方戦力が枯渇しかかっていたからだろう。
一部では、共同体との国境沿いの現地民による反東方パルチザンが各地で決起するまでに逼迫していたと聞く。
そうまでして守るものが、あんな北部の辺境にあったのだろうか。わたしにはわからなかった。
窓の外からの木洩れ陽の中で生の実感を噛み締めていると、部屋に来客が訪れた。
「おはよう、のどは乾いていないかしら」
ナイチンゲールのさえずり。ふと、わたしはそんな単語を想起した。
アクセントひとつをとっても、溢れんばかりの慈愛や哀憐の情を孕ませたる美声の持ち主は、
まばゆいブロンドの三つ編みを揺らして、私のそばへ歩み寄った。
手にしている盆の上には、たっぷりと水が注がれたガラスの水差し。そして、大粒の葡萄の実が積まれた皿。
「おひとついかが?」
ブドウの実の一粒をつまむと、淑女はにこりと微笑んだ。
清楚な雰囲気を醸す彼女の白いエプロンドレスの下から、こんもりとした弧を描く腹部、
その上に鎮座する豊満な乳房が、それぞれその存在を誇示していた。
来月には新たな命を産み落とす事になるであろう彼女は、続いてブドウの実を口に放り込んだ。
咀嚼の為の舌や顎、歯を噛みあわせる動きが、わたしにはやたらと艶めかしく、熱っぽく見えた。
そしてまた、見る者みな安堵に包まれるであろう笑顔を、わたしに向けた。
私の心臓が、ばくんと高鳴った。
(2)
彼女の来訪に心躍らせるわたしは、もはや餌付けされた犬だ。
行き倒れていた私を救われたる救世主は、その身に子を宿した淑女であった。
彼女の懐の広さにも驚いたが、発見されてからわずかに七日しか経っていない事にも吃驚した。
聞けば、この周囲を流れる河川は帝国の用水路と繋がっておらず、清らかなまま。
それが関係しているらしいと彼女は言うのだが、専門ではないらしく、申し訳なさげに目をしばたかせていた。
彼女には、感謝のことばも見つからない。
起きて話せるようになってからも、彼女は一日もかかさずに食事の用意をしてくれる。
節々が凝ったと言えば、マッサージもしてくれた。見かけによらぬ力強い指圧に、わたしは至福を味わった。
今日も彼女は太陽が真上にさしかかるころには、大きな乳房とお腹を抱えてわたしの部屋へやってきた。
魅力の虜。そんなものになるのは、男だけだと思っていた。しかし今のわたしを表現するには、その単語以外に存在しまい。
ドアがノックされる音を聞くだけで、動悸が激しくなる。髪を手櫛で撫ぜられるだけで、わたしの肌は汗を帯びる。
わたし自身は中背ほどの体格だが、彼女の背丈はわたしよりも頭ひとつぶんほど高い。
そのせいもあってか、わたしは彼女を前にすると、いつも包み込まれるような錯覚を感じていた。
ふわふわとした、柔らかな感情に揉まれる、ここちよい抱擁をおぼえる錯覚である。
この建屋は彼女の所有物らしく、別荘として使用しているのだという。今は一時的に滞在しているだけに過ぎないとの事で、
私が一命を取り留めたのは、まさしく神の思し召しと言ったところであろう。ちなみに、彼女の部屋は私の間借りしている部屋の隣にある。
夫はどこにいるのか聞くと、ここから少し離れた集落にいるという。彼女だけが、臨月に備えて養生しているというわけだ。
稚児に童話を語り聞かせるような、慈しみに満ちた声色。そんな美声が夫の存在を示唆したとき、わたしは恐らく嫉妬した。
なぜ? 誰に? どうして? そもそも、嫉妬するのも初めてであった。
こんなに美しい彼女を娶る事ができただなんて、なんて幸せなのだろう。ああ、羨ましい。
同性の私ですらこうなのだ。この淑女の伴侶が彼女を射止めた時の悦びたるや、尋常ではなかったであろう。
「どうかしたの? 気分でも悪い?」
つまらないやきもちで俯いていると、いつの間にか彼女はベッドへ上り込み、横たわるわたしの上に四つん這いで被さっていた。
こんなに間近で彼女の顔を見た事はない。長い睫毛に彩られたサファイアのような碧眼がわたしをまっすぐ見据え、
こぼれた髪が黄金のカアテンのように私を包んだ。石鹸の香りが、半開きになっていた小窓からの風とともに流れてきた。
(3)
我慢ができない。
一晩だけのつもりだったのに、気が付けば私は足を引きずりながらも彼女の部屋の前にいる。
もう、いつものベッドで自分を慰めるだけでは済まない。
あの、わたしの両手でも掴みきれないくらい大きな乳房。ふかふか、もちもちした感触が忘れられない。
あの、わたしの頭よりも大きなお腹。ともすれば痛ましく見えてしまうほど、ぱんぱんに張り詰めた肌の感触が忘れられない。
あの、わたしの浅黒く日焼けした肌を、優しく揉み解し愛撫する彼女の愛が忘れられない。
鏡の向こうには、そこには軍属の頃に比べ劇的に変化した私の顔があった。
張り艶の出た健康的な肌に包まれた頬を始め、ほのかな生気の色味が見てとれた。
しかし、その真っ当な外面の内側でくすぶる劣情が、わたしを常に苛んでいる。
彼女と一緒にいたい、身重な彼女の為に何かがしたい、庇護されるだけじゃ物足りない、もっともっと彼女に愛されたい、抱かれたい!!
出会った時には感じられなかった、母性の持つ暗部のようなものを持つ彼女に、わたしはすっかり惹かれてしまっていた。
ずっと彼女に甘えていたい。頭にあるのはただそれだけだった。原隊への帰還などクソっくらえだ。
親指をしゃぶりながら、あの晩に見た彼女のじっとりとした視線を思い出すと、
腰が跳ねるほどの快感がわたしを襲う。彼女は罵倒なんかしない。空想の彼女は、あの甘美なる声で優しく愛の言葉を囁いてくれるのだ。
何度目かの彼女による愛撫を楽しんだ後、部屋に戻るととある違和感に気づいた。
家具に異常などない、なんの変化もないはずだ。部屋を一回りしても、ちりちりした焦燥感は拭えないままだ
まるで、そこで認識できて然るべきはずの異常になぜか気づけない、そんなもどかしさ――――
何度か部屋をふたたび見回すと、やがてわたしはその異常に気付いた。いいや、魅入られたと言うべきか。
その異常……怪異は、ほんの一瞬だけわたしの視界に飛び込んだ。次の瞬間、まばたきした直後には、そいつは姿をくらましていた。
顔がなく、真っ白な肌をした、異様なまでに手足が長いその怪異。そいつは、窓から数百メートル離れた木の陰で佇んでいた。
遠近が狂っていると錯覚するほど、そいつのフォルムはおかしかった。言い知れぬ不安と恐怖が、わたしの背筋を這いまわった。
姿を見たのはほんの一瞬。しかし、やつのひょろ長い姿は、未だにわたしの脳裏に焼き付いている……!!
(4)
祖霊、と彼女は言った。
この土地で代々祀られるカミの一柱、という事だった。
土地の繁栄を脅かすもの……あるいは停滞させる者の前に現れ、罰を与えるというのだ。
彼女は祖霊とやらの説明を一通り終えると、さめざめ泣き始めた。
「黙っていて本当にごめんなさい、赦して、赦して……」
無論、彼女を責める気など毛頭なかった。そもそもカミの一柱が何だと言うのだ。
こちとらは唯一神より王権を賜った皇帝に仕える兵士なのだ、そんなものは土着信仰のまやかしに過ぎん。
――――そう、彼女には嘯いた。
「ひょろ長」を一目見てから、わたしは彼女の部屋に行かなくなった。
夜が更ける前に、ベッドへと潜るようになった。日課となっていた、彼女を想っての自慰の回数も少なくなっていった。
ある夜。窓を見ると「ひょろ長」がいた。
ある夜。窓を見ると「ひょろ長」がいた。違う木の陰に隠れている。
ある夜。窓を見ると「ひょろ長」がいた。
ある夜。窓を見ると「ひょろ長」がいた。納屋の裏手に立っていた。
ある夜。窓を見ると「ひょろ長」がいた。納屋の裏手から少し動いていた。
ある夜。「ひょろ長」の姿が見えなくなった。私は震えながら、数日ぶりに彼女の部屋へ向かう事にした。
もう、限界だ。あれだけ健康的だった顔は、塹壕戦に参加していた頃に戻ってしまっていた。
「ひょろ長」、「ひょろ長」、「ひょろ長」。勘弁してくれ、お願いだから……やめてくれ……!!
(5)
部屋に彼女はいなかった。
わたしをいつも抱いてくれたベッドに、彼女はいなかった。
静寂の中に、わたしの荒い呼吸音と心臓の鼓動が響き渡る。聴覚が麻痺してしまったかのようだ。
窓には施錠がされている事から、私用で集落にでも戻ったのだろう。
彼女が使っていたバスケットが部屋にない事を確認し、安堵の息を吐いた。
そして、顔を上げると、心臓を握りつぶされたような感覚に陥った。
「ひょろ長」がいた。建屋のすぐそばの、木陰に。
わたしはすぐさま建屋から飛び出した。
支給されていた護身拳銃でもあれば心強かったのだが、ないものは仕方がない。
月が出ていた事は、幸か不幸かわたしには判断できなかった。
月明かりに照らされた「ひょろ長」の姿を正面から目にし、わたしはついに泣きだした。
許して、許して、出て行くから許してください、お願いします、赦して下さい神様。
息絶え絶えに周囲を見回すと、「ひょろ長」
樹の根につまずいて、顔を上げると木陰に「ひょろ長」
あんな、場所から場所へ移動できるなんて、考えられない。人間じゃない。
人間じゃなけりゃ神様しかいない。わたしに怒っているんだ、わたしを……
がちがち歯の根を震わせながら、半べそをかきながら、わたしは走った。
あいつの姿を見ないように目をつむって、とにかく走った。
やがて限界が訪れ、酸素を求めて立ち止まると、わたしの肩が誰かに叩かれた。
「お姉……様……たすけて……」
振り向いたそこにはお姉様の顔はなく、卵のように白い頭の「ひょろ長」が、わたしを見下すように佇んでいた。
「なるほどなあ、『こうなる』って事か。こりゃ、今の私の知識じゃ解明は無理だわ。あーあ、グチャボロじゃねぇか。
ともあれ、『実験』は成功だ。お前の戦果は忘れないよ。恨むなら事実を黙ってた私の旦那様を恨むんだなあ。 あのやぶ医者もすぐにそっちに叩き込んでやる、あの世で復讐するがいいさ。私は……当分この世を離れる気なんか毛頭ないがね」