9、視察
――ある日の昼過ぎ アルメア公国ヴァリス市内 小麦農場
私は内務大臣、経済産業大臣、保健厚生大臣、そして両国の弁務官と共に、ヴァリスの街に視察に来ていた。投資先の状況と河川の汚染状況、市民の病気の広がり具合などを確認するためだ。
ヴァリス市内は市街地を抜けてしまうと、そもそも建物が少なく、広大な畑と、時々家屋や林があるくらいのものだった。ゼフィールの圧迫される様な空気や、北部地域の寒々とした山肌があるわけでもない、程よい気候の田舎という印象を抱く。
一面に畑が広がり、見渡す限りの緑からは、期待のみずみずしい香りと、畑にある細かい土の良い香りがした。たまに混じっている、何らかの動物の糞らしい臭いは普通に臭かったが、これも収量に貢献してくれる物なので、我慢しなければなるまい。
これから夏季に入るため、作物もまだ葉っぱばかりの、青々とした物だらけだ。北の方を見ると、青々とした山がある。空気のせいで朧げだが、確かにそこにある。南の方には海があるはずだが、ここからは何も見えなかった。海岸線はもう十数km先にあるので、見えるはずもないが。
全体的にアルメアは冷涼な気候であるため、作物はトウモロコシや小麦、じゃがいもなどの冷涼な気候でも育つ作物が多い。特に今我々が歩いている辺りは、小麦の農地らしい。後数ヶ月もすれば、このあたりの農地は黄金色に変わるのだろう。よく見ると、雑草抜きや肥料の散布などの農作業をしている方々も見える。こんな広大な農地を人力で管理しているのだから、農家の方々には足を向けて寝られない。
道路に沿って肥沃な大地に走る水路は、先人達の努力の賜物だ。この水は農業用水として百数十年近く利用されてきているのだが、これが今、危機に瀕している。そうは見えなかったが、この水も汚染されている可能性があったのだ。
謎の病気の正体は、未だはっきりしない。農産物に影響があるのかもわからないままであり、国民は危険かもしれない食材に怯えながら、日々の暮らしを営んでいる。
このおかげで、投資がおじゃんになる可能性も大いに現実味を帯びてきている。アルメアの作物は危険だという噂が広まれば、誰もアルメアの食物を買いたがらないだろう。
深刻な問題に発展する恐れがあったため、追加の支援をせびるために、弁務官もお連れして、状況を説明することにした。あまり期待はしていないが、それでも知る価値はあるはずだった。
「しかし、長閑だな。同志」
ヤールスキーが畑を見ながら言った。どの同志のことだろうかと疑問に思っていると、フェームが反応した。
「そうですね。この雰囲気……故郷を思い出します」
「故郷はどこだったかな?」
「フィルスーラ州リセーヌです。酪農が盛んな地域なので、雰囲気はここと結構似ていますね」
「まあ、トラクターとかはここにはないですけどね」
レナースが自虐気味に言うと、フェームは苦笑いした。
「リセーヌにはあるんですか?」
今度はゼトロールが聞いた。
「ありますね。あそこの農地も結構広いですから。むしろ、今の時代で、この規模の畑を手や動物で耕作している場所の方が珍しいと思いますよ」
「それはそれは。ここの農家も喉から手が出るほど欲しているでしょうね」
「まあ、そうかもしれませんね」
「しかし、同志よ。ここで謎の病気が流行っていると言うな?そうは見えないが、それは本当かな?」
「僭越ながら、それは私から」
ヤールスキーは私を見て聞いたが、レソンヌの方から割って入ってくれた。私より専門家に近い彼の方が状況を理解しているはずなので、そのまま喋らせることにした。
「例の病気は主に沿岸部に近い地域でよく流行っています。この近辺はそうでもありませんが、もう少し南の方に行けば患者も増えていきます」
「そうかね?まあ構わないが、早めに抑え込んでもらわないと困るぞ?同志」
「ええ。善処します」
レソンヌは軽くヤールスキーに頭を下げた。
「しかし、水が原因なんですか?」
今度はフェームの方から質問が飛んできた。
「可能性の段階だそうで、詳しいことはまだ」
「ですが、発生源が本当に水なら、水道から感染しない理由に説明がつきませんよね。もし水からなら、水道設備は共通なので、この近辺の住民も感染が確認されると思いますが」
我が国の水道設備は、基本的に川の水をそのまま水道管に流して、水道水として使っている。浄化設備などは技術と予算の都合からなく、主に飲料水としてではなく、洗濯や掃除、シャワーなどの用途で使われるのだが、もし水系感染症なら、フェームの指摘の通り、そこで感染するはずだ。
「ええ、そうなんです。ですからどういうわけなのかを探っている最中でして、成果はあまり上がっていませんね」
「そもそも、感染源が水以外の可能性もあります。例えば魚とかは調べてみましたか?」
「それも調べています。いずれにせよ、支援がない事には時間もかかるでしょうね」
すると、レソンヌとフェームの話を遮る様に、ヤールスキーが声を発した。
「それはそうと、同志よ。もうじき投資が開始されれば、このあたりの農業も近代化されるそうだな?」
「その通りです」
「すると、収量の増加はどれほど見込めるのかね?」
私がレナースを見ると、彼は頷いてくれた。
「例えばこのあたりの小麦だと、現在の畑では1ヘクタールあたりの収量は1〜2t程度ですが、この投資を通じてその倍になる事を見込んでおります。それに、機械の普及を通じて農地の拡大を促進する狙いもありますから、見通しではそれよりも多くなる可能性があります。もちろん、気象の問題もありますから、正確に予測する事は不可能ですが」
「面積あたりの収量が増える理由は?」
「化学肥料や農薬、農法、優良品種の種子の普及です。諸外国のデータだと、特に先進国では1ヘクタールあたりの収量が4t程度ある事も珍しくなく、サーバードやアリナーレなどのデータでは、それくらいの効率で生産できている事を示しています。この技術が我が国に普及すれば、それだけ食糧自給率も上がります」
「しかし、それだと我が国からの輸入が縮小されるのではないのかね?」
ヤールスキーに聞かれると、レナースは彼に資料を渡した。
「確かに、小麦の輸入は減らさざるを得ないでしょう。しかし、それ以外の作物や製品の需要の増加を見込めます。結果的にはむしろ、貴国にとってプラスとなると思われますよ?」
ヤールスキーは資料を見ると、満足げな表情を浮かべた。
「……なるほど。同志。この貿易額の拡大が事実となれば、我が国としても良い結果をもたらすだろう」
「とはいえ、それは我が国に適切な支援が施された場合に限った話です。いずれにせよ、諸外国からの支援を受ける必要はあるでしょう」
ヤールスキーはレナースの話の肝心なところは聞いていない様子だった。
「そうか。だが、この資料は持ち帰らせてもらう」
「ご自由に」
「ですが、収量がいくら増加したとしても、それを支えられるだけのインフラがなければ無為に終わります。ご存知の様に、ここまで来るには車で行くしかありません。軽便鉄道でも結構ですから、せめて鉄道の敷設はしないといけないでしょうね」
「それは確かにその通りです」
ゼトロールの意見にフェームが賛同した。
「なぜ鉄道にこだわる?別にトラックでも良いじゃないか?」
一方のヤールスキーは疑問符を浮かべた。
「我が国が人材不足だからです。貴国は無縁かもしれませんが、我が国は違います。トラックは一台ごとに運転手が必要ですが、鉄道ならそれが一編成という単位に変わります。つまり、一人あたりの貨物の輸送量がトラックよりも圧倒的に優れているわけです。個人的には都市間輸送網くらいは鉄道で構築するべきだと思いますが、予算の都合上、まずはこのヴァリスとシファルを最低限結ぶ必要があると思います」
「それは確かに正しい意見です。ですが、インフラにのみ力を入れても、それは意味がなくなります。皿が大きくても盛れる料理が少なければ、意味はありませんからね」
今度はレナースが言った。
「ですが、皿が小さすぎても料理を乗せきれません」
ゼトロールとレナースで口論になりそうな雰囲気が出てきたので、私が割って入る事にした。
「いずれにせよ、バランスの話だろう?丁度良い皿に丁度良い量の料理を盛るのが正しかろう」
私が言うと、二人は頷いた。
「まあ、結局のところそれが正しいです。当然、投資の額が高ければ高いほど、よりやりやすくなるのは確かですが」
レナースはそれとなく弁務官の方を見るが、フェームは視線を畑に移した。意図的なものに感じる。一方のヤールスキーはやや呆れた様子だった。
「しかし、同志よ。君らの仕事は、決められた資金で決められた事を可能な限り最大の効率で行う事だ。これ以上の予算は出せないと本国も言っている」
「それは既に承知しています」
やはり、増資は望み薄の様だ。残念だが、ハナから期待はしていなかった。
そんな会話をしながら散歩を終えると、我々はシファルにある旧商工会館に場所を移して、会談をする事になった。近くに良い感じのレストランか何かがあればそこにしたが、あいにく、そこくらいしか場所がなかった。政治家同士、仲良くピクニックというわけにもいくまいし。
閣僚達とはここで別れ、三人と入れ替わる形で、宰相兼弁務官連絡調整局長のローサファンヌが合流する。ゼトロールとレナースは首都に戻って別件の処理を、レソンヌはヴァリスでもう少し調査をするらしい。弁務官二人は、投資の可否の判断をしてもらうため、そのまま私に随行する事になっている。
やや日が傾き始めた頃に、ようやく我々は到着した。シファルの旧商工会館は昔からある建物であるため、シャルステルの様式の建築物として、今は数少ない観光名所と化している。外からしか見られない観光客からすれば魅力に欠けるだろうが、中に入れる我々からすればそれなりに良い立地にあるため、窓から見えるエルトニルス海の水平線は中々に見ものだった。
「ふう。ようやくですね。今では貴重な、牧歌的な経験でした」
到着早々、フェームが言う。おそらく皮肉だ。とはいえ、個人的には無事に到着できてホッとしているわけだが。
「全くだ。乗り心地もそれに見合う程度だったな」
ヤールスキーも続いて不満を述べる。シャルステル人の皮肉が一瞬で理解できた彼も、随分とシャルステルの文化に染まった物だと感じる。
「まあ、無事に到着できただけでも良しとしましょう。車が壊れる可能性もありましたし」
私が宥める様に言うと、ヤールスキーが軽蔑する様な視線を送ってきた。
「そういうところだぞ。同志」
「それだけ状況が深刻だという事です。とりあえず。そろそろ移動しませんか?」
私の提案に皆が頷き、我々は商工会館の会議室に行った。
会議室には既にローサファンヌが待ち構えており、立ち上がってお辞儀をした。
「おお、同志ローサファンヌ。来ていたのか」
ヤールスキーはローサファンヌが来る事を知らなかった様で、少し驚いていた。
「私も参加するべきだと思いましたので」
「仕事が早く済みそうで助かります」
フェームが言う。私とレナースの二人では不甲斐ないと暗に非難している様に感じたが、中々良いラインの悪口なので、言うに言えない。
挨拶が済むと、皆はそれぞれ席に座る。
「皆さん、ヴァリスはいかがでしたか?」
ローサファンヌが弁務官の方を見て聞いた。
「思ったよりは広かったな。まさしくあるべき労働者の姿だ」
「私もヤールスキー弁務官と同じ意見です。勤勉な方が多い様で、素晴らしいと思います」
二人とも、病気の件については触れなかった。
「そう言ってもらえると、我々としても鼻が高い限りです。秋頃にでも、この小麦で作ったパンでも差し入れいたしますので、是非お楽しみに」
「期待しています」
フェームは感想を述べたが、ヤールスキーは微笑みながら黙っていた。ローサファンヌが彼を見たので何か言うかと思ったが、そのまま私に視線を移した。
「では、投資については反対はないという事でよろしいでしょうか?」
「そうですね。良いと思います」
「異論はない。これは我々のためになる、労働者のための意義のある支出だ」
私が聞くと、二人からは好意的な返事が得られた。
「どうやら全会一致の様ですね」
ローサファンヌはどこか安心した様な笑顔を浮かべていた。
「では、もうそろそろ日も暮れてしまいますし、今晩は一泊しますか?お望みなら列車もございますが」
ローサファンヌが続けて弁務官に聞くと、ヤールスキーが反応した。
「私は泊まろう。同志フェームはどうだ?」
「お誘いはありがたいのですが、私はまだ仕事がありますので、またの機会にしましょう」
「そうか。私の妻も君と会いたがっていたし、いつでも我が家は歓迎するぞ」
「ありがとうございます」
確か、二人は個人的な親交が深かったと聞く。弁務官同士の仲が良いのは意外かもしれないが、連絡調整局を廃止しても良いのではないかと思うくらいには仲がいい。二人は時折一緒に家族ぐるみで食事をするそうで、随分と微笑ましい間柄だった。フェームは若いため、可愛がられているのだろう。
「さて、では私は失礼します」
「駅までお送りしますよ」
ローサファンヌが提案した。
「良いんですか?」
そう聞かれると、ローサファンヌが私に着いて行っていいか視線で聞いてきた。断る理由もないので私は頷いてみせる。
「なら、行きましょう」
二人は会議室を出て、中年の男が二人、会議室に残される。
「しかし、同志よ。友情とは儚い物だな」
二人が出て行く様子を見ていたヤールスキーは、何かを馬鹿にする様な笑みを浮かべた。だが、その目はどこか残念そうに見える。
「まさか、フェーム弁務官に一緒に泊まって欲しかったのですか?」
彼は笑いながら、首を横に振った。
「いや、そうではない」
すぐに否定したかと思えば、彼はソファに座り、憂鬱そうに俯いた。
「……私は彼女を敵として扱わなければならない。一方の彼女もそれは同様だろう。国家の前では、個人の感情なんてたかが知れている。そうは思わないかね?同志よ」
ヤールスキーは私を見た。おそらく本心からの言葉に思える。
「気持ちは理解できます。家族との関係も簡単な物ではありませんからね」
「その点では私は恵まれているみたいだな」
彼は私に同情する様に笑った。一応、私も恵まれている方だとは思うのだが、否定するのも面倒に感じたのでそのままにする事にした。
「まあ、一般論です」
そう答えると、ヤールスキーが私を見た。
「しかし、同志よ。家族は大事にするべきだ。何があってもな」
「理解はしているつもりです。しかし、なにぶんこんな仕事をしていては難しいでしょう」
「確かに、それはそうだ」
彼は私の言葉を待っていた。少し考えてから、私は自分の意見を述べる。
「……結局のところ、お互いの理解がなければ近づけないと思いますけどね」
「この歳でそれを言ってはいけないと思うがね」
「それもそうですね」
お互いに話題を探す時間が来た。家族の様子でも聞こうか、それとも政治の話に移るべきかで迷った。
すると、ヤールスキーが先に口を開いた。
「……同志よ。あの件はどうだ?」
「シャルステルですか?」
聞くと、彼は頷いた。その顔は真剣だが、どこかくたびれている。
「……あいにく、閣僚同士で揉めています」
「だろうな。私もこれを聞いた時、本国は何を考えているものかと驚いたよ」
ヤールスキーは足を組み直し、肩をすくめた。
「意外ですね」
「だが、これが私の仕事だ。国家に奉仕する公務員の責務を果たさなければならない。別に脅すつもりはないが、どうか私の境遇も理解してくれると助かる」
そうは言うが、私にはそれが脅しに聞こえた。自らを人質にして、要求を飲ませようとしている風に聞こえる。
「まあ、同情はします」
「自らの信じる事をしろ。同志アルメアよ」
「ええ。常にそうしているつもりです」
「なら良いがな……。同志よ。これは友情の証として、一つ、教えてやろう。何も犠牲にせず、草を踏まずに道は作れない。新たな道を作るには、草を踏み潰す必要がある。その決断は非情なものになる事もあろうが、それは正しい選択だ。賢明なる我が同志なら、言うまでもなく理解しているだろうが」
それは承知しているつもりだ。あるいは、していないと見えるからそう言われるのかもしれないが。
「肝に銘じておきましょう」
私はそんな無難な返事をしておいた。私は外を見ると、水平線の前で小船の航海灯が、思い思いの方向を向いて海面を照らしているのが見えた。おそらく漁船だ。
結局、私は初めからなかった選択肢を選ぼうとしているのだろうか。しかし、それに屈していてはならない。結局のところ、これは自分との戦いなのだから。