10、シファル病
――アルメア公国ゼフィール市 ゼフィール中央病院
私は、レソンヌと共に、ゼフィールにある病院に来ていた。ゼフィール中央病院は、アルメア国内の医療の最高権威であり、おそらく最も質の高い医療を受けられる場所だ。
ここには、研究のためにシファルで流行っている謎の奇病、「シファル病」と名付けられた病気の患者が何人かここに移送され、原因特定のために種々の検査を受けていた。それがあらかた終わって報告ができるそうなので、私は足を運んでいた。
レソンヌに連れられて応接室に入ると、そこには壮年の白衣姿の男がいた。聴診器を首から下げており、医者だと一目でわかる見た目をしていた。
「お待ちしておりました。当院の院長を務めております、セントル・ランタスです」
ランタスと名乗る医者は、恭しくお辞儀をした。
「お会いできて光栄です」
私はランタスと握手を交わした。かなりお歳を召した人の手だ。シワやシミの目立つその手で、多くの患者の命を救ってきたのだろう。
「どうぞ、おかけ下さい」
そう言われて、私とレソンヌは彼の向かいに座った。
「わざわざご足労いただき、誠にありがとうございます。なにぶん、検体のデータを外に出すと不要な情報を漏らす可能性もありましたので」
ランタスが私に説明する。既にレソンヌからその件は聞いていたので、私は頷いた。
「その件についてはお伝えしてありますので、気にしないでもらって大丈夫ですよ」
「それはありがたいです」
ランタスはレソンヌに感謝を述べ、資料を開いた。
「さて、どこから説明すれば良いのやら、という感じですが、原因、感染経路、症状などお話しできる事はありますが、いかがでしょう?」
「では、まずは病気の概要を」
「はい。シファル病は主にある種の神経障害をもたらす病気で、頭痛や耳鳴り、口の周辺や手足の痺れに始まります。そこから重篤化すると歩行機能障害、言語障害、難聴などが発生し、最終的には死亡します。これらの症状はいわゆるハンター・ラッセル症候群の発症例でして、妊産婦が発症した場合は胎児にも影響を及ぼす疾患です。この病状からすると、メチル水銀化合物に起因する中毒症状です」
「確実性は?」
聞くと、ランタスは私をジッと見た。
「ほぼ間違いありません。患者の遺体から原因物質が検出されていますし、聞くところによるとエルトニルス海の海中に堆積したヘドロからも検出されたと聞きます。それに、これは公害病としても知られており、他国でも症例がある疾患です」
他国でも症例があるなら、その国がどう対応したのかが分かれば、この件においても参考になるだろう。少し救いがありそうだ。
「しかし、どうしてその様な毒が?」
「これが検出された箇所が胃の中や小腸の残留物などでして、食べ物が原因だと考えられます」
とすると、水を引いている小麦などの農作物に影響を及ぼしている可能性もありそうだ。もしそうなら、いよいよ大変な事になる。
「特に、どの様な食べ物で検出された?」
「主に魚ですね。どうやら食物連鎖によって魚の体内にも相当量の原因物質が濃縮されている様で、それを人が摂取する事で発症します。本来は自然界に身近な物質で、人間が摂取しても害はないものです。したがって、大抵の場合は発症前に体外に排出されますが、この近海はかなり濃度が高い様で、発症に至るみたいです」
「おそらく工業排水が原因なのですが、その工場の特定にはまだ至っていません」
ランタスの説明にレソンヌが付け加えた。原因も重要だが、結果の方を知りたかった。ひとまず、一番の懸念点をぶつける事にした。
「農作物に影響は?」
「農作物については、今のところ問題はありません。通常の量に留まっています」
それなら、最悪の事態は避けられそうだ。私は胸を撫で下ろした。
「しかし、特定ができないのはなぜだ?」
聞くと、レソンヌは一度気まずそうに視線を逸らしてから、口を開いた。
「……経済状況を批判する様で恐縮ですが、我が国でそれほど大規模な化学工場がないため、工業用途で使用された排水が環境汚染を引き起こすレベルになるとは考えにくいのです。もしかすると複数種類の工場が由来なのかも知れませんが……。いずれにせよ、もう少しお待ちいただければ報告出来るかと」
だとすると、それはどこから排出された物なのかという疑問が残る。原因物質の排出元を知らなければ、汚染を止めようがない。
私はランタスを見た。
「この病気の治療法は?」
「ありません。神経疾患なので薬などはなく、強いて言えばリハビリテーションが現状唯一の解決策です」
「それと、原因となる物質の摂取を止めるのも当然必要です」
これは、魚の摂取を国民に控えさせる必要が出てきた。しかし、下手な公表ではパニックを誘発する恐れがあった。最悪の場合は、アルメア産の食物、本来安全な食物をも含めて買ってもらえないということになれば、その経済的打撃は計り知れない。
せっかく回復しようとしている経済がまた止まる可能性は、どうやっても避けたかった。しかし、国民に知らせないのは論外だが、報道なんて物に頼れば、それこそパニックを誘発することになる。難しい決断だ。
「いずれにせよ、原因となる工場を早く突き止めてくれ。一日遅れれば、それだけ国民が死ぬことになる」
「無論です」
レソンヌのその言葉は、覚悟に満ちた重々しい物だった。
――アルメア公国ゼフィール市 公爵府執務室
私は宰相と内務大臣、経済産業大臣、それに被差別民問題特別委員長を呼びつけ、会議に臨んでいた。今後の方針について話しておきたい事があったからだ。
ひとまず、先程レソンヌから説明を受けたシファル病の詳細を、まずは皆に共有した。
「とりあえず、シファル病についてはこの様な感じであると、保健厚生大臣より説明を受けた」
「農作物に影響はなさそうでホッとしました」
ローサファンヌは背もたれに寄りかかった。
「しかし、これだと水産業が心配ですね。農家はよくとも、漁師がこれでは……」
マルティンが報告書を睨みつけながら言った。
「それに、この件を国民に知らせればパニックを起こす可能性があります。最悪の場合は関係のない農作物も打撃を受ける可能性があります」
ゼトロールが言った。やはり私と同じ懸念を抱いているらしい。
「そうなれば経済的な打撃は避けられませんね」
レナースは肩をすくめた。
「閣下、この件の公表については慎重な姿勢を取るべきだと思います」
ゼトロールが私に鋭い視線を送った。
「それは私も感じているが、正直なところ迷っている」
「迷っていると言うのは?」
「保険厚生大臣はこういう事を嫌うでしょうからね」
私の代わりにローサファンヌが答えたが、もう少し付け加える事にした。
「それに、国民に対して隠し事というのもいかがなものかと感じてな……」
「確かに、何らかの形でリークされた場合はむしろ悪化させる恐れがあります」
ゼトロールが言った。身内に裏切り者がいるとは考えたくはないが、あり得なくはない話だった。もしかすると、正義感に駆られたレソンヌあたりがやらかす可能性もあった。
「そもそも国民の健康を害している事実があるのにも関わらず、その様な未必の故意とも言えそうな事……殺人も同然では?」
「同感ですね」
マルティンとローサファンヌが眉をひそめると、レナースが反論する。
「それを言うなら、昨今の経済事情のせいで何人もの人が亡くなったとお考えですか?数千人単位で、それも餓死ですよ?食物が有り余っているような現代世界でそんな事、あってはならない事ではありませんか?」
「しかし、だからと言って国民に毒を食べさせ続けるのもいけないと思いますがね」
「何より厄介なのは、排水を出している工場が特定できていない点です。せめてこれが分かれば、まだ報道のしようがありそうですが……」
ゼトロールの言う事も一理ある。
とりあえず、ここまでで皆から出た意見をまとめると、報道規制に好意的なのがゼトロールとレナース、否定的なのがローサファンヌとマルティンという感じになりそうだ。論点からすると、優先すべき物が国民の健康か、経済かの話だ。その経済も国民の健康に関わってきているという主張もあるし、実際のところ、それは正しかった。しかし、誰もが正しいからこそ、まとめ役としては困るのだ。
「経済産業大臣、これを公表した場合の経済的な打撃についてはどれほどになる?」
「かなり酷いものでしょう。いくら安くても、有毒かもしれない食物を食べたがる者は誰一人いません。国内の需要はわかりかねますが、国外の需要は皆無と見て良いでしょう」
「それに、飢えるか、毒かの二択を迫られた国民が、反政府組織に加担する恐れもあります」
「内務大臣の懸念は正しいと思います。ですが、それさえ知らされなかった国民に、もしもこの件がバレた場合……それこそ反政府組織に加担する人がより多く増えるのは自明ではありませんか?」
ゼトロールはローサファンヌを見た。
「バレない様にすれば良いんです。報道はこちらが握っています」
「しかし、隠す事でかえってパニックを誘発する恐れもありませんか?」
ローサファンヌがゼトロールに聞いた。
「その時こそ報道の力が試されますね。農作物は安全であるという情報を上手く流せれば、問題ないかと」
「具体的な案はあるんですか?」
「一応、公爵閣下ご自身や、ご家族にヴァリス産の農作物を食べていただく様子が全国に報道されれば、ある程度の効果が見込めると思います」
すると、皆の視線が私に注がれる。
「それは実際、効果的でしょうね」
実際、それくらいで経済状況が改善されるなら、それほど安い事もなかった。たかだか国産の食べ物を食べる様子を全国に見せるだけで、皆が納得してくれるのなら、私はそれでよかった。それに、流石にこの件については閣僚を信頼したいという願望も、少なからずあったが。
「必要とあらば、もちろんやろう」
「それでこそ閣下です」
私が好意的な意見を返すと、ゼトロールが言った。それはそれとして、私もゼトロールが言う様に、すぐに公表する事は差し控えるべきだと感じていた。「根本的な解決はできていませんが、とりあえず魚を食べるのはやめましょう」なんて言おうものなら、漁業従事者の顰蹙を買うのは間違いないし、最悪の場合は農家も巻き添えを喰らう。それだけはなんとしても避けなければならない。
「しかし、話を戻すが、この件について公表のタイミングを慎重に見計らうべきなのは私も同感だ」
すると、ローサファンヌとマルティンが少し驚いた様子でこちらを見た。
「正気ですか?一日でも公表が遅れれば、それだけ国民の命が脅かされるんですよ?」
知ってか知らずか、皮肉にもマルティンは、私がレソンヌに言ったことと全く同じような反論をしてきた。
「それは承知の上だ。しかし、せめて有毒物質を排出している工場が判明するまでは公表は控えたいと思う」
「根本的な解決ができませんでは、国民も納得しないでしょうからね」
ゼトロールが言った。
「だが、分かり次第、報道規制は解除する。これが妥協できるラインだ」
「いずれ公表するなら、私も賛成します。隠し続けるのはまず無理だと思いますし」
ローサファンヌはどうにか納得してくれたみたいだが、マルティンはかなり機嫌が悪そうだった。
「私は直ちの公表でない限りは反対しますよ。国民には知る権利があります」
「その知識を使えるほどの素養が国民になければ、意味がありません。理想論で国が回れば苦労しませんよ」
ゼトロールが言った。まるで民衆が愚かだと言いたい様な口振りに感じる。
「ですが、それが国民の意思と言うべきものではありませんか?」
「いずれにせよ、閣下のご決断です。我々があれこれ言える立場にはありません」
「お考え直し下さい」
マルティンは私を見たが、私は首を横に振った。心苦しいが、こればかりは譲れなかった。
「これが妥協できる最大限のラインだ。あまりこういう言い方をしたくはないが、この中で納得していないのは君だけだしな」
そう指摘すると、マルティンは周囲から送られている視線に気づいた。何かを怒りに任せて言いそうになったが、どうにか堪えた様で、口をパクパクさせるだけで済んだ。言葉を飲み込んだかと思えば、彼はため息を吐いた。
「……わかりました。しかし、支持はしませんからね」
「すまないな。だが、皆にはそれぞれの事情というものがある。私もこれが一番正しい決断だと信じているからそう決断した。それはわかってくれ」
「ええ、わかってます。この件についてはこれで終わりですね?わかってます」
マルティンが半ば自分に言い聞かせている様にも聞こえたが、ひとまず納得してくれたみたいだった。
「決まりだな」
「まあ、閣下のご決断ですから、私はそれに従います」
私が言うと、ゼトロールは何かを妥協したかの様なため息を吐いた。
「上手くいけば良いんですがね……」
「決まったことをとやかく言うのも変な話ですからね」
レナースとローサファンヌがそれぞれ感想を述べる一方、マルティンは黙っていた。
「さて、そろそろ良いと思うが」
「そうですね。他に誰も言う事がない様なら……」
ローサファンヌが一人一人の大臣の様子を伺う様に見るが、特に他にはなさそうだった。
「では、これで会議は終了する」
私はそう宣言し、席を立った。
マルティンとはここ最近、意見が合わなくなりつつある。本来は彼が正しいのだろうが、しかし、彼の意見は閣僚の中でも理想論が過ぎる。現実とは非情な物だ。あるいは、誰かがそうしているのか。いずれにせよ、今の自分にできる事は何もなかった。




