第18話 運ばない日
第18話 運ばない日
朝起きてから、しばらく今日の予定を考えた。
何もない。
ボルクからも乾物屋からも仕事は入っていない。ベルナー商会の荷物を頼まれているわけでもなかった。
窓の外はよく晴れている。
こういう日に仕事がないと、少し落ち着かない。
朝食を食べながら営業に出ることも考えたが、店の裏へ行くとロイがのんびり餌を食べていた。ここ数日は続けて走っている。
「今日は休ませるか」
ロイは気にせず餌を噛んでいる。
なら俺も、今日は遠くへ出ないことにした。
馬車の前に立つ。
最近は帰ってきたら荷台を掃き、縄を見るくらいで終わっていた。
仕事が増えた分だけ、使う回数も増えている。
まず縄を全部降ろした。
長いものと短いものを分け、地面へ並べる。
一本だけ、荷台の角に当たる部分がかなり毛羽立っていた。
指で摘まむと、細い繊維が何本か切れる。
「これは替えだな」
使えなくなるまで待つ理由はない。荷物を締めている途中で切れれば、その方が面倒だ。
交換する方へ分ける。
「それ捨てるの?」
振り返ると、ディルクが倉庫の入口に立っていた。
両手に木箱を抱えている。
「荷締めにはもう使わない。傷んでないところは短く切れば何かに使えるかも」
「じゃあ倉庫の端に置いとけば? 短い縄が欲しい時あるし」
「そうする」
ディルクは木箱を抱え直し、そのまま倉庫へ戻っていった。
次に雨除けを広げた。
アルネスで大雨に降られた時の泥が端に残っている。
水で落としていると、小さな裂け目を見つけた。
指先より少し長い。
「こっちもか……」
母から針と丈夫な糸を借りる。
裂け目を見せると、端布まで渡された。
「裏からこれを当てなさい」
「縫うだけじゃ駄目?」
「また同じところから裂けるわよ」
言われた通りにする。
慣れないので時間がかかった。
縫い目は綺麗とは言えない。
でも穴は塞がった。
昼前になって、荷台の床も見る。
箱を引いた跡。
金具の箱を置いたところの浅いへこみ。
縄が擦れた角。
買った時にはなかった傷が、ずいぶん増えていた。
ささくれを削っている途中、ふと前から気になっていた音を思い出した。
車輪がたまに軋む。
いつもではない。
荷物が重い時だけでもなかった。
今まで走れていたので、原因までは調べていなかった。
馬車を少し前へ動かす。
止める。
右の車輪を両手で掴んだ。
押す。
引く。
ごとっ。
手が止まった。
もう一度。
ごとっ。
「……動くな」
さっきまで気楽だった気分が、一気に消えた。
近くにいたディルクを呼ぶ。
「ちょっとこれ触ってみて」
車輪を指す。
ディルクが両手で掴み、横へ揺らした。
ごとっ。
眉を寄せる。
「これ、こういうもの?」
「俺もそこが分からない」
「でも動かない方がよさそう」
「だよな」
二人でしゃがんで覗き込む。
見ただけでは何が悪いのか分からない。
車軸が折れているわけでもない。
車輪も外れかけてはいない。
ただ、触れば確かに遊びがある。
昨日まで普通に荷物を載せて走っていた。
そう思うと急に気持ちが悪くなった。
父にも見てもらう。
ヨハンは一度車輪を揺らし、すぐ手を離した。
「僕じゃ分からないな。職人に見せた方がいいよ」
「近くにいる?」
「西通りに車輪を見る職人がいる。ベルナー商会でも何度か頼んでる」
馬車をそこまで持っていくことになった。
荷物は載っていない。
ロイも休ませるつもりだったので、俺とディルクでゆっくり押していく。
「何で俺まで」
「手伝ってくれるんだろ?」
「押すくらいならね」
「助かる」
「最初からそう言えばいいのに」
文句を言いながらも、ディルクはちゃんと押してくれた。
職人は年配の男だった。
車輪を揺らし、軸の辺りを覗き、金具を軽く叩く。
「少し緩んでるな」
「危ないですか?」
「今すぐ外れるようなもんじゃない」
そこで一度手を止めた。
「ただ、このまま荷を積んで走り続けりゃ傷みは広がる。早めに持ってきたのは正解だ」
胸の奥が少し冷える。
昨日まで普通に使っていた。
「直せます?」
「これなら今日中に終わるよ」
値段は銅貨三十二枚だった。
安くはない。
でも、使っていれば整備に金がかかるのは当たり前だ。
前世で乗っていたトラックだって、買った時の状態のまま何年も走れるわけではなかった。
「お願いします」
むしろ今日見つかったのは運がよかった。
荷物を積んだ先で壊れれば、修理代だけでは済まない。
帰り道。
ディルクが横を歩いている。
「思ったよりかかったな」
「このくらいで済んだならいいよ」
「そういうもん?」
「壊れてから持ってくる方が面倒だし」
「確かに」
ディルクはベルナー商会へ戻ると、そのまま倉庫の仕事へ戻っていった。
馬車がないと、店の裏が妙に広い。
ロイは相変わらずのんびりしている。
縄も見た。
雨除けも直した。
今日は営業へ出るつもりもない。
そこで、しばらくまともに見返していなかった帳面を出した。
独立してからの仕事は、全部書いてある。
ベルナー商会。
ボルク。
乾物屋。
営業で取った仕事。
帰りに拾った小口の荷物。
一件ずつ見ると、それなりに増えていた。
その横には出ていった金もある。
ロイの餌。
自分の食事。
アルネスで泊まった宿代。
縄。
雨除けの補修に使ったもの。
書くだけ書いて、最近は全部をまとめて見ていなかった。
財布も出す。
銀貨を並べる。
銅貨も数える。
帳面と合わせる。
銀貨八枚と銅貨四十七枚。
もう一度数えた。
同じだった。
「思ったよりあるな」
声に出る。
馬車とロイを買った時には、かなり心細くなった財布だった。
そこから考えれば、ちゃんと増えている。
仕事をした分だけ残っている。
少し嬉しくなった。
ただ、中古とはいえ今の馬車は銀貨十五枚だった。
ロイは銀貨十九枚。
同じものをもう一組揃えるなら、今の手持ちでは到底足りない。
別に今すぐ買う予定があるわけではない。
それでも、自分がどのくらいの場所にいるのかは分かった。
そこへ兄が入ってきた。
「何してるの?」
「今どれくらい残ってるか見てた」
兄は机の上を見る。
「結構あるじゃん」
「開業した時よりは増えた」
「なら順調なんじゃない?」
「今のところはね」
「父さんよりちゃんと数えてそう」
店の方から声が飛んできた。
「聞こえてるよ」
兄が笑う。
俺も銀貨と銅貨を財布へ戻した。
夕方前に職人のところへ戻った。
車輪を揺らしてみる。
さっきのような動きはない。
「一度走ってみな」
馬車を引いて通りを少し進む。
戻る。
前から気になっていた軋みも消えている。
「大丈夫そうです」
「しばらく使ったらまた見ろよ。車輪なんてずっと同じじゃないからな」
「分かりました」
銅貨三十二枚を払う。
予定になかった出費ではある。
それでも壊れる前に手を入れられたなら、悪い使い方ではない。
ベルナー商会へ戻る。
荷台へ縄と道具を戻す。
今度は適当に放り込まない。
よく使う縄をまとめ、雨除けはすぐ取れるところへ置く。
工具は小さな木箱へまとめた。
箱が動きそうだったので、短い紐で前へ固定する。
そこまで終わると、ようやく手を止めた。
ディルクが倉庫から出てきた。
「車輪、どうだった?」
「少し緩んでたみたい。直してもらったよ」
俺が車輪を揺らしてみせる。
ディルクも手を掛ける。
「朝みたいには動かないな」
「音も消えた」
「じゃあ見つけて正解だったじゃん」
「うん。今日は馬車見ておいてよかった」
ディルクは車輪から手を離す。
「朝より機嫌よさそう」
「そんなに顔に出てた?」
「分かりやすかったよ」
そう言って、空箱を抱えたまま倉庫へ戻っていった。
夕方の光の中で馬車を見る。
見た目は朝とほとんど同じだった。
傷も残っている。
古い馬車なのも変わらない。
ただ、車輪は静かになった。
縄も整理した。
雨除けの穴も塞いだ。
財布の中身も、初めてちゃんと分かった。
銀貨八枚と銅貨十五枚。
朝より減った分は、馬車を使い続けるために必要だった金だ。
ロイは今日はほとんど働かず、馬小屋で餌を食べている。
俺も今日はどこにも荷物を運ばなかった。
手だけは、いつもの仕事の日より汚れていた。




