シーン3:無から有を生む錬金術(信用創造)と、国家の借金
銀花銀行の設立から数ヶ月。
王都の経済は、紙幣という劇薬によってかつてないほどの爆発的な成長を遂げていた。重い金貨を運ぶ手間が消滅したことで取引のスピードは数十倍に跳ね上がり、市場には活気が満ち溢れている。
しかし、銀行の最上階に設けられた頭取室(私の執務室)では、ベルノが今にも胃に穴が空きそうな悲壮な顔で、一枚の報告書を握りしめていた。
「け、計算が合いません……! 会長、これはいったいどういうことですか!?」
ベルノが私のデスクにバンッと叩きつけたのは、今月の『預金残高』と『紙幣発行高』の帳簿だった。
「地下金庫に保管されている本物の金貨は、ざっと一千万枚。……しかし、現在市場に出回っている、我が銀行が発行した紙幣の総額は、その五倍の『五千万枚分』に達しています! これでは、もし顧客が一斉に金貨の交換(取り付け騒ぎ)にやって来たら、たちまち金庫が空になって破産してしまいます!!」
顔面蒼白で叫ぶベルノの横で、応接ソファに座っていたレオンハルト公子も、信じられないというように目を見開いた。
「……リリア嬢。君は金庫にないはずの金貨を、紙幣として勝手に刷って市場にばら撒いたのか? それは『信用』ではなく、ただの詐欺じゃないか!」
二人の常識的な反応に、私は淹れたてのミルクティーを優雅に啜りながら、フフッと微笑んだ。
「落ち着きなさいな、二人とも。詐欺じゃないわ。これこそが近代金融の神髄――『信用創造』よ」
私はティーカップを置き、デスクの上に数枚の紙幣を扇状に広げた。
「ベルノ。銀行が設立されてからこの数ヶ月、預けた金貨を『やっぱり本物の金貨で返してくれ』と窓口にやって来た商人は、全体の何割くらいいた?」
「え? ……あ、いえ。ほとんどいません。紙幣の方が圧倒的に便利ですし、誰もが銀花銀行の紙幣を『お金』として受け取ってくれるため、わざわざ重い金貨に換える必要がないからです。……せいぜい、全体の10%程度でしょうか」
「その通りよ」
私は指を鳴らす。
「顧客が同時に金貨を引き出しに来る確率が10%なら、私たちは金庫に預金総額の『10%の本物の金貨(準備金)』だけを残しておけば、絶対に破産することはないのよ」
「……っ!」
レオンハルトが息を呑む。彼の優秀な頭脳が、私の言わんとしている恐ろしい仕組みに追いつき始めていた。
「だから私は、金庫で眠っている残りの90%の金貨を担保にして、新しい紙幣を刷り、それを事業を拡大したい商人たちに『利子』をつけて貸し出したの」
私は立ち上がり、窓から見下ろす王都の活気ある街並みを指差した。
「お金を借りた商人は、その紙幣で資材を買い、職人を雇う。支払われた紙幣は巡り巡って、また私たちの銀行に『預金』として戻ってくる。……私はその戻ってきた預金を担保に、さらに新しい紙幣を刷って貸し出す。これを繰り返すだけで、市場に出回るお金の総量は、元手の金貨の何倍にも膨れ上がるわ」
「無から、有を生み出している……。本物の錬金術だ……」
レオンハルトが、畏怖に満ちた声で呟く。
「そうよ。これが資本主義の魔法。私たちが紙幣を刷って貸し出せば貸し出すほど、世の中の『パイ』自体が大きくなり、経済が成長していくのよ」
ベルノはガクガクと膝を震わせながら、その場にへたり込んだ。
「お、恐ろしい……。会長は、王国の経済そのものを、インクと紙切れで意のままに膨張させている……!」
「きゅるっ!」
ルンが私の肩の上で、得意げに胸を張る。
「でも、調子に乗って貸し出しすぎれば、いつかバブルが弾けて破滅するわ。だからこそ、金利の操作と貸出枠の厳格なコントロールが必要なの。……さて、金融の基礎講座はここまでよ」
私がそう締めくくった直後、頭取室の重厚な扉がノックされ、暗部の男が静かに入室してきた。
「会長。お客様です。……『王宮』より、内務卿閣下が極秘の会談を求めておられます」
「通してちょうだい」
レオンハルトとベルノが緊張して身構える中、頭取室に現れたのは、国王の側近であり、王国のインフラ整備を統括する内務卿だった。彼は銀花会議の圧倒的な力を前にして、ひどく恐縮した様子でソファに腰を下ろした。
「……本日は、アルフェイド会長に折り入ってご相談がございまして」
「王家がわざわざ私の銀行へ足を運ぶなど、珍しいことですわね。……資金繰りのお悩みですか?」
私が単刀直入に切り出すと、内務卿は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「お恥ずかしながら。現在、王家は王都と東部辺境、そして西の港を繋ぐ大規模な『魔導機関車』の敷設計画を進めております。しかし、会長の銀行が市中の金貨を吸い上げてしまった影響で、国庫の税収だけでは莫大な初期投資の金貨が確保できず……計画が頓挫しかけているのです」
(来たわね)
私は心の中で冷たく微笑んだ。
経済が急成長し、物流の速度が跳ね上がれば、国は必ず新しい巨大インフラを必要とする。しかし、旧態依然とした税金(金貨)のシステムに依存している王家に、そんな莫大な資金をポンと出せるはずがないのだ。
「なるほど。国家の威信を懸けた大事業、素晴らしいと思いますわ。……で、我が銀花銀行に、その資金を『融資』してほしいと?」
「は、はい。どうか、お願いできないでしょうか。もちろん、国として正式な借用書(国債)を発行いたします。将来の鉄道収入から、必ず利子をつけてお返しします!」
内務卿が深々と頭を下げる。
その光景を見て、レオンハルトは完全に言葉を失っていた。一国の最高幹部が、一介の少女商人に借金を申し入れているのだ。
「いいでしょう。王国の発展は、我が商会の利益にも直結しますから」
私はあっさりと承諾し、デスクの引き出しから新しい『契約書』を取り出した。
「ただし、融資は金貨ではなく『銀花銀行券(紙幣)』で行います。そして、王家が発行するその借用書(国債)を、我が銀行が独占的に買い取ることを条件といたしますわ」
「し、紙幣で……? しかし、それでは……」
「今や、王都で紙幣を受け取らない職人などおりません。ご安心ください。それに、王家が自ら『借金の支払いに銀花銀行の紙幣を受け取る』という事実こそが、この紙幣の価値をさらに盤石なものにするのです」
内務卿は少し迷ったものの、背に腹は代えられないと判断し、震える手で融資契約書にサインをした。
「……感謝いたします、会長。これで王国は、新たな時代へ進むことができます」
「ええ。共に王国を豊かにしてまいりましょう」
私は完璧な営業スマイルで内務卿を見送った。
扉が閉まり、頭取室に再び静寂が戻ると、レオンハルトが顔を引きつらせながら立ち上がった。
「……リリア嬢。君は、自分が今、何をしたのか分かっているのか?」
「ええ、もちろんよ」
私はサインされたばかりの国債を指先で弾いた。
「王家は今、私から莫大な借金をした。……つまり、私が紙幣の供給を止めたり、金利を吊り上げたりすれば、王国の国家プロジェクトはいつでも首を括ることになる」
私は漆黒のコートの背もたれに深く寄りかかり、冷酷な絶対者の瞳でレオンハルトを見つめ返した。
「これで、銀花銀行はただの民間銀行から、国家の財布を握る『中央銀行』になったのよ。王冠を被っているのが誰であろうと関係ない。この国の真の支配者は、紙幣を刷る権利を持っている、この私よ」
レオンハルトは、もはや恐怖すら通り越し、狂信的なまでの畏敬の念を込めて深く頭を下げた。
金貨という物理的な重りから解放されたモブ令嬢の野望は、ついに国家そのものを借金という目に見えない鎖で縛り上げ、完全なる経済支配を完成させたのである。




