シーン1:嬉しい悲鳴と、物理的な富の限界
ヴァレリウス帝国との熾烈な金融戦争(M&A攻防戦)を制し、王都の夏はかつてないほどの好景気に沸いていた。
しかし、その絶対的な勝者であるはずの『銀花会議』の地下本部・円卓の間には、なぜか重苦しい、どんよりとした疲労感が漂っていた。
「……ダメです、会長。第三、第四地下金庫も、すでに限界です。これ以上は金貨を物理的に収容しきれません」
目の下に濃い隈を作ったベルノが、分厚い帳簿の束をテーブルにドンッと積み上げながら、深い溜息を吐き出した。
「東部の辺境伯領からの関税免除による莫大な利益。さらに、帝国商人が納める四割の販売手数料。加えて王都での独占的な売上……。毎日、馬車十台分の金貨や銀貨がこの本部に運び込まれてきます。床が重量で抜けそうです」
「ガハハ……笑いが止まらねえはずなんだが、毎日毎日、金貨の山を数えて磨いて保管するだけで、俺たち食料ギルドの若い衆の腰がぶっ壊れそうだぜ」
巨漢のガストンが、肩をグルグルと回しながら苦笑する。
「おまけに、これだけの現金を各店舗や取引先に輸送する『警備費用』も馬鹿になりませんわ。最近は、私たちの現金輸送車を狙うプロの盗賊団まで現れる始末。……お金がありすぎるというのも、困りものですわね」
マダム・セリアも、扇子でパタパタと顔を仰ぎながらウンザリとした様子だ。
私は円卓の最奥の席で、山のように積まれた『利益の報告書』を眺めながら、腕組みをして目を細めた。
「きゅぅ……」
私の膝の上では、ルンが金貨の山から転がり落ちてきたピカピカの一枚を前足で弄り、退屈そうに欠伸をしている。
(事業が拡大しすぎたことによる、物理的な『富』の飽和状態……。前世の歴史でも、経済が急成長した国が必ずぶち当たる壁ね)
取引の規模が巨大になればなるほど、決済に使う「硬貨」の重量と体積が、そのまま物流の最大のネック(障害)になる。
数万枚の金貨を動かすには、頑丈な馬車と数十人の護衛が必要だ。輸送には時間がかかり、襲撃のリスクもあり、何より『金貨を保管する場所』の維持費が利益を圧迫し始める。
「ベルノ。現在、王国内の市場に出回っている貨幣の総量はどうなっているの?」
「それが……深刻な問題を引き起こしつつあります。我々が莫大な金貨を吸い上げ、この地下金庫に貯め込んでいるせいで、市中に出回る硬貨の数が圧倒的に不足し始めているのです」
ベルノの報告に、私は小さく頷いた。
いわゆる『デフレーション(貨幣不足)』の初期症状だ。商取引が活発になっても、決済するための通貨自体が足りなければ、経済の血流はいずれ完全にストップしてしまう。
「王国の造幣局に、新しい硬貨を鋳造させることはできないの?」
「無理です。金山や銀山からの採掘量が、我々の経済成長のスピードに全く追いついていません。……このままでは、冬を迎える前に、王国の商取引は『お金がないから物が買えない』という物理的な理由で停止します」
円卓の間に、沈黙が落ちた。
東部の軍閥も西の帝国も打ち破った私たちが、今度は「自分たちが稼ぎすぎたことによる、お金の重量と不足」という、目に見えない巨大な壁に直面していた。
「……なら、金貨を使うのをやめればいいじゃない」
私が静かな声でポツリと呟くと、代表たちの視線が一斉に私に集まった。
「や、やめる? 会長、それは物々交換の時代に逆戻りしろと……?」
バルトが目を白黒させる。
「違うわ。物理的に重くて、数に限りがある『金貨』を決済の主役に据え続けるから、こんなことになるのよ。……前世……じゃなくて、私が昔読んだ古い文献に、素晴らしい解決策が載っていたわ」
私は立ち上がり、円卓の中央に置かれていた一枚の金貨を指先で弾いた。
チィィン……と、澄んだ音が地下室に響く。
「この金貨の価値を保証しているのは誰? 王家の刻印? それとも黄金そのものの希少価値?」
「そ、それは……両方でしょう」
ベルノが答える。
「じゃあ、もし私が『この紙切れは、金貨百枚分の価値がある』とサインをして、王都中の商人がそれを信じて取引に使ってくれたら……その紙切れは、金貨百枚と同じ価値になるわよね?」
「なっ……!?」
ベルノの眼鏡の奥の目が、驚愕に見開かれた。
「か、会長! それは『手形(為替)』の話ですか!? 確かに商人の間では、後払いの借用書として手形を使うことはありますが……それはあくまで、顔見知りの信用できる相手との一時的な約束に過ぎません!」
「そうよ。だから、その『信用』の規模を、王国全体……いや、世界規模にまで拡大するの」
私は漆黒のコートの懐から、一枚の真新しい羊皮紙を取り出し、卓上に広げた。
そこには、銀の百合の紋章と、複雑な偽造防止の魔力紋様が美しく刷り込まれている。
「これからは、金貨を馬車で運ぶ必要はないわ。王都の商人たちは、金貨を私たちの地下金庫に『預ける』の。そして私たちは、その預かった金額を証明する『預かり証(銀行券)』を発行する」
私は羊皮紙をトントンと指差す。
「支払いの時は、重い金貨ではなく、この紙切れを相手に渡すだけでいい。受け取った相手は、いつでも私たちの金庫にこの紙を持っていけば、本物の金貨と交換できる。……この『絶対的な交換の保証』さえあれば、人々はやがて、重い金貨ではなく、軽くて便利なこの紙切れを直接お金として使い始めるわ」
「紙を……お金として、使う……!?」
ガストンが信じられないものを見るような目で羊皮紙を見つめる。
「馬鹿な……。ただの紙切れを富だと信じ込ませるなんて、そんな大掛かりな幻術、国家ですら成し遂げたことがありませんぞ!」
「国家には無理でも、私たち『銀花会議』にならできるわ」
私は冷徹に、そして揺るぎない自信を持って言い放った。
「私たちはこれまで、一度の取引も裏切らず、完璧な物流とポーションで王都の命を救い、帝国という黒船から彼らを守り抜いた。……アークレインの民にとって、今や王家の刻印よりも、我が銀花会議の『百合の紋章』の方が、遥かに重い『信用』を持っているはずよ」
代表たちは息を呑み、そして誰一人として反論できなかった。
事実、今の王都の経済は、王家ではなく完全に銀花会議がコントロールしているのだから。
「物理的な黄金の時代は終わりよ。これからは『信用』という目に見えない概念を、私たちがデザインして世界に流通させるの」
私は不敵な笑みを浮かべ、新しい事業の名前を口にした。
「世界で最初の近代金融機関――『銀花銀行』を設立するわよ。……王国の経済を、紙とインクの魔術で完全に支配してあげるわ」
重すぎる金貨の山に悩まされていた地下室の空気が、一瞬にして、未踏の巨大な野望への熱気に包まれた。
モブ令嬢の商売は、ついに「物を売る」段階を卒業し、「お金そのものを作り出す」という神の領域へと足を踏み入れようとしていた。




