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人魚姫は泡沫の初恋を歌う  作者: 藤烏あや@『死に戻り公女は繰り返す世界を終わらせたい』発売中


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第19話「面影」

 執務室の奥で、すこぶる機嫌の悪そうな環が机に向かっていた。

 普段の倍以上目つきが悪いのではないだろうか。

 部屋の真ん中にあるローテーブルには、二人分のお茶が手を着けられないまま鎮座していた。


「晴嵐隊長」

「なんだ」


 入室したヤエに気がついていないのか、冷ややかな声が返ってくる。


(環ってこんな声も出すんだ)


 ヤエの前で見せる環との落差に目を丸くした。

 新たな一面を見れて嬉しい反面、自身が特別なのだと嫌でも理解させられるようでいたたまれない。

 沓守へと視線を向ければ、彼女はどうぞと手の平を上へと向けた。

 執務机に近づきながら彼の名を呼ぶ。


「環?」

「用があるなら手短にしてくれ。今の俺は機嫌が悪い」

「お弁当持って来たんだけど」


 言葉に違和感を覚えたのか、初めて環が顔を上げた。

 眉間のしわは一瞬でなくなり、深海のような瞳が溢れ出んばかりに見開かれる。


「ヤ、エ……?」

「うん。お疲れ様」


 勢いよく立ち上がった環に、ヤエは苦笑を零した。


「どうしてここに」

「お弁当届けに来たの」


 弁当の包みを差し出せば、気の抜けた笑みが返ってくる。


「そうか、恩に着る」


 環はそう言うと、ただの弁当を大事そうに受け取った。

 彼は先ほどとは打って変わって朗らかな表情を浮かべる。

 そんな彼に、ヤエは頬を緩ませた。


「恩に着るって、お祖父ちゃんみたいなこと言うのね」

「っ」


 環がまるで幽霊に会ったかのように息を呑んだ。

 何か変な事をいっただろうか。

 首を傾げれば、環は首を振って眉を下げた。


「悪い。やっぱり、ヤエはヤエだな」

「意味が分からないわ」

「そうだな」


 寂しそうに笑う環に、ますますヤエは困惑するばかり。

 たじたじとするヤエへ助け船を出したのは、扉の前で佇んでいた沓守だった。


「隊長。じきに日が暮れます。隊の皆はこれから警邏(けいら)へ向かいますので、ヤエ様を守る人員がおりません」

「あぁ」

「ですので、ヤエ様をお傍に」


 恭しく頭を下げた沓守に、環は頷いた。


「わかった。お前達の気遣い、感謝する」

「いえ。機嫌の悪い隊長を相手にするのは面ど……色々と大変なので」


 沓守はそう言い残して退出した。彼女の言葉に目を丸くしたヤエは、おそるおそる環へと目を向ける。

 すると誇らしげな顔をした環と視線が絡んだ。

 機嫌を損ねていると思っていたが、どうやら違うらしい。


「意外だわ」

「ん?」

「てっきり無礼だって怒ってるかと思ったのに」

「俺をなんだと思ってるんだ……。意味もなく叱ったりしない。それに、沓守は俺の機嫌を取るためにヤエを連れてきてくれただけだしな」


 砂糖を煮詰めたような笑みに、ヤエの喉から変な音が漏れる。

 ぱっと目を逸らせば、くつくつと笑う声が聞こえた。


「さてと、一緒に食うか」

「……いいの?」

「もちろんだ。それじゃあそこの……」


 環が応接用の長椅子ソファーへと目線を移動させ、げんなりとした。

 心底嫌そうな顔をした後、大きなため息をつく。


「ヤエ、左側の長椅子ソファーに座れ」

「へ? うん」


 指示通りヤエは左の長椅子ソファーに座った。

 頭をがしがしと掻いた後、環はローテーブルに置かれたままの湯飲みを片づける。

 新しい湯飲みと弁当を持って来た環がヤエの隣に腰掛けた。


「さっき、子爵に会っただろ? 何もされてないか?」

「沓守さんが喋ってただけだけど……どうしたの?」

「いや、何もないならいい」

「変なの」


 くすくすとヤエの口から笑みが漏れる。

 そんなヤエを優しげに見つめる環に、むず痒くなってしまう。


「早く食べましょ」

「あぁ」


 環は行儀よく手を合わせてから弁当に手をつける。

 律儀な様子にヤエは少しそわそわしながら彼の感想を待った。

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