第9話 るーし?
三日目の朝、倉庫の空気は少しだけ違っていた。
忙しさは変わらない。
荷の量も、重さも同じ。
それでも、動きに無駄が少ない。
(……昨日より、静か)
怒鳴り声がない。
誰かが苛立つ気配もない。
瑠衣は、自然とその流れの中に入っていた。
箱を持ち、運び、置く。
動作はいつも通りだ。
肩の具合も問題ない。
脚の疲れも、想定内。
(……今日も、普通)
午前中、荷の流れが一度だけ詰まった。
箱を持った男が、行き場を失って立ち止まる。
次の箱が来て、さらに止まる。
以前なら、ここで声が荒くなっていた。
だが、そうはならなかった。
「……るーし」
誰かが、短く呼んだ。
瑠衣は振り返る。
状況を見る。
一瞬だけ考えて、
箱を一つ、横にずらした。
それだけだった。
流れが戻る。
男は何も言わず、箱を運ぶ。
次の人間も、続く。
誰も指示を出していない。
ただ、「そうした方が楽だ」と判断しただけだ。
年配の女性が、その様子を見ていた。
何も言わない。
だが、口元がわずかに緩む。
瑠衣は気づかない。
もう次の箱に手をかけている。
昼前、若い女性の一人が声をかけてきた。
「るーし、これ」
差し出されたのは、水の入った器。
瑠衣は一瞬きょとんとしてから、受け取った。
(……あ、喉渇いてた)
軽く頭を下げる。
名前の呼ばれ方は、もう揺れていない。
皆、同じ音で呼ぶ。
「るーし」
柔らかくて、短い。
(……私のこと、だよね)
不思議と違和感はなかった。
昼の食事は、今日も少し多い。
誰も説明しない。
ただ、そうなっている。
午後、作業はさらに滞りなく進んだ。
箱の置き方が揃い、
動線が自然に空く。
誰かが指示を出しているわけではない。
でも、皆が“同じやり方”を選んでいる。
中心にいるのは、瑠衣だった。
本人だけが、それに気づいていない。
作業が終わる頃、
年配の男が一度だけ瑠衣を見る。
何も言わない。
だが、視線は短く、確かだった。
夜。
寝台に横になり、肩を確かめる。
問題なし。
今日一日を思い返す。
呼ばれた。
動いた。
少し楽だった。
(……名前、変わったくらい、かな)
「瑠衣」とは呼ばれない。
でも、それで困ることはない。
(……るーし、か)
問いかけるように、心の中で繰り返す。
答えは、まだ出さない。
でも。
今日もちゃんと働けた。
それで十分だ。
瑠衣は、静かに目を閉じた。




