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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする  作者: Yuki


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第69話 普通の仕事④ 切り裂く速さ

 枝の上に残った影は、最初から逃げる気がなかった。

 静止しているのに、森の空気だけがじわじわと固くなる。葉擦れはある。風もある。けれど、その影の周りだけ、風が避けて流れているみたいだった。


 カイゼルは盾を持ち替え、いちばん前に立ったまま動かない。盾の縁がわずかに下がっているのは、腕が疲れたからじゃない。視線が上を向き続けている。次に来る角度を読んでいる。

 セリナはケスディアの右腕に最後の仕上げのため、呼吸を整えた。血は止まっている。皮膚も寄っている。ただ、骨の痛みまでは消せない。ケスディアは汗だくで肩を揺らし、歯を食いしばっている。弓を握ろうとして指が震え、握れない。屈辱で目だけが鋭い。


 ルーシーは隊列から十メートル。離れたまま、剣を低く構え、胸の内側に意識を置き続けた。

 さっきまで“開いていた”流れは、まだ完全には落ち着いていない。静かに、細く、一本に揃えたまま。乱れればすぐに散って、手先が先に走る。


(ここから先は、私がやる)

 言葉にしない。言葉にすると、どこかが緩む。緩めた瞬間に事故が起きるのは、もう分かっている。


 ボスが鳴いた。

 甲高い命令ではなく、低い短音。喉の奥で鳴らしただけの音なのに、枝が一斉に応える。まだ残っていた雑魚が二体、森の奥へ動いた。指揮を受け取って撤退する動き。ボスはそれを確認もしない。視線はルーシーに固定されたままだ。


「……来るぞ」

 カイゼルの声が短い。怒鳴らない。隊列に余計な緊張を入れない。


 ルーシーは足裏の感覚を拾う。土が硬い。根が走っている。踏み替えの自由がある場所と、ない場所がある。自由のある場所に自分を置く。


 影が、落ちた。


 滑空じゃない。枝から枝へ、短い移動。位置だけを変えて、角度を作っている。次の瞬間、石が飛ぶ。音が遅れて来る。膝を狙う低い軌道だ。

 ルーシーは足を上げずに、重心だけをわずかにずらした。石が足元を(かす)め、土が(えぐ)れる。そこへ、ボスが斜めに落ちてくる。爪が先、皮膜の縁が遅れて、体が最後に続く。あの順番。雑魚と同じだが、速度と圧が違う。


 ルーシーは剣を振らない。

 刃を上げず、通り道に置く。


 ガン、と硬い衝撃。刃が鳴り、手首が跳ね上がりそうになる。握り込みそうになるのを止め、肘を緩め、肩を落とす。刃の角度だけ残す。

 ボスは、当たる寸前で“滑った”。皮膜で空気を掴み、刃の外へ抜ける。避けたのではなく、当たり方を変えている。


(合わせてくる)

 同じ角度で置けば、次はもっと嫌な抜け方をする。そういう相手だ。


 ルーシーは一歩踏み込まず、腰だけを切った。剣の軌道を短く返し、ボスの逃げ先に先回りする。刃が皮膜の縁をかすめた。裂けた感触は薄いが、張りが落ちたのが分かる。皮膜は“翼”じゃない。薄く硬い皮で、張りが命だ。張りが落ちれば、滑空の自由が減る。


 ボスが短く鳴いた。苛立ちの音。

 同時に、別方向から石が来る。上だ。残党が投げた。カイゼルが盾を上げ、受けた音が森に響く。盾の裏でセリナが身を縮める。ケスディアが歯を噛み、視線だけでルーシーを追う。


「ルーシー、後ろ――」

 セリナが声を出しかけた瞬間、カイゼルが抑える。

「待て。今は動くな」


 ルーシーは振り返らない。見れば一瞬遅れる。遅れた分だけ、ボスが有利になる。


 ボスが二度目の攻撃に移る。今度は真正面から来て、途中で角度を変えるフェイント。空中で体を捻り、爪の軌道だけ変える。狙いは肩だ。剣を振らせないための動き。


 ルーシーは、半歩だけ移動を遅らせた。

 わざと“間”を作る。相手が「当たる」と思う距離まで引きつける。その瞬間に、足を出さず、体の軸だけをずらす。爪が空を切る。皮膜の縁が体の横を撫でる。そこへ、刃を置く。


 狙いは胴ではない。前腕の内側。筋束の通り道。深くは要らない。動きが一拍遅れれば十分だ。

 刃が触れ、皮が裂ける。ボスは空中で回り、着地してすぐに跳ねようとする。だが、踏み込みが一拍遅れた。その一拍が、ルーシーにとっては“止まった”に等しい。


(今だ)

 ルーシーは初めて前へ出た。踏み込みの距離は短い。大きく出れば、勢いが暴走する。短く、確実に。


 剣が走る。

 一閃ではない。短い刃の移動を、連続で積む。相手の体を追わず、相手が次に置く足場を切る。

 ボスが幹へ逃げる。なら幹の表皮を削る。削れたところに足が乗れば滑る。ボスが枝へ移る。なら枝の根元を浅く切る。折る必要はない。芯を削れば、踏んだ瞬間に沈む。


 ボスはかわす。かわすたびに、空中で皮膜を使う。だが、縁が裂けている。張りが戻らない。ほんのわずかな遅れが出る。その遅れに、刃が間に合う。


 ルーシーの剣が、皮膜の付け根をもう一度裂いた。次いで肩口。深くは入れない。深く入れると刃が止まり、反動で自分が乱れる。浅く、速く、数で削る。

 血が飛ぶ。赤い線が空気に散る。ボスの鳴き声が喉の奥で詰まる。鳴こうとした瞬間に、ルーシーの刃が喉元の横をなぞったからだ。触れるだけ。切り落とさない。だが、そこに刃があるという事実が、声を止める。


 カイゼルが息を吸った。

 盾越しに見ても分かる。「避けているのに削られている」。それは剣士の理屈を超える速度だ。


「……セリナ、後ろを固めろ。石が来る」

「分かってる……! でも、あれ……」

 セリナの声が震えた。怖さではない。理解が追いつかない震えだ。

 ケスディアが唾を飲み、吐き捨てるように言う。

「……あれが、同じ人間……?」


 ルーシーは答えない。答える暇があるなら攻撃しろ。そういう場面だ。


 ボスが地面へ落ちた。

 わざとだ。土煙を上げ、視界を奪う。滑空だけでは勝てないと判断した。なら地上で“目”を潰す。知性個体らしい切り替えだ。

 土煙の中で、石が飛ぶ。残党の投石。視界がないのに来る。位置が共有されている。


 カイゼルが盾を上げ、二発目を受ける。腕が沈む。背筋が軋む。それでも隊列を崩さない。崩れたら、セリナとケスディアが終わる。


「ルーシー! 上じゃない、下!」

 カイゼルが叫んだ。盾越しに見えた影。地面を這うように、ボスが距離を詰めている。


 ルーシーは土煙の“圧”を読む。空気の流れが、ひとつだけ重い。そこに体がある。目で見るより早い。

 剣を振り上げない。振り上げれば刃が大きく動き、制御が難しくなる。低いまま、短く。


 刃が走る。

 土煙を裂いた刃が、ボスの前腕を浅く切る。ボスは痛みで引かない。次の行動が送れるからだ。遅れれば次が来る。だから、さらに前へ出る。爪が地面を抉り、ルーシーの足首を狙う。


 ルーシーはよけない。よければ重心が浮く。浮けば刃が走る。代わりに、足裏の角度を変えて地面に噛ませる。踵を少し沈め、爪の軌道を受け流す。

 その瞬間、剣が二度走る。前腕の筋。皮膜の縁。どちらも浅い。浅いが、確実に削る。


 土煙が晴れかけ、ボスの体が見える。

 胸が厚い。前腕が太い。皮膜が大きい。だが、その縁が裂け、付け根が削られ、前腕の可動がわずかに落ちている。ルーシーの連撃は、致命傷ではなく“自由”を奪っている。


 ボスが跳ぶ。最後の勝負に出た。

 跳んで、頭上を越え、背中へ回る。雑魚がやってきた動きだが、ボスは精度が違う。背中を取れば、一撃で終わる。


 ルーシーは振り向かない。

 振り向く動作は大きい。大きい動作は制御を乱す。


 かわりに、半歩前へ出る。

 背中を取られる距離を、無理やり詰める。落下の勢いが乗る前に、相手の体と自分の体を重ねる。空中の自由を奪う。


 剣が“置かれる”。

 背中へ回ろうとしたボスの中心線に、刃が入る。深くは入れない。止めない。切り抜く。刃が皮膜の付け根を裂き、体がよろけて地面へ落ちる。

 落ちた瞬間を逃さず、さらに二撃。後脚の腱を浅く。肩の付け根を浅く。ボスが起き上がろうとした場所に、刃がもう一度置かれる。


 ボスが鳴こうとする。

 ルーシーは、喉の横に刃を置いたまま、呼吸を一つだけ落とした。声を止めるためではない。自分の流れを締め直すためだ。暴れさせない。散らさない。一本のまま。


 ボスは鳴けない。

 いや、鳴かない。

 鳴いても届かない。届く前に刃が来ると理解した顔だ。


 セリナが、息を詰めたまま呟いた。

「……切ってる。ずっと……切ってるのに……倒れてない」

 カイゼルが低く返す。

「倒すためじゃない。動けなくしてる」

 ケスディアが悔しそうに唇を噛んだ。

「……そんな戦い方、聞いたことない」


 ルーシーには聞こえていない。聞く余裕がない。

 ボスは、まだ生きている。まだ判断している。まだ仕掛ける可能性がある。


 ボスが前腕を振った。

 投石だ。自分で投げた。近距離で、顔を狙う。視線を逸らせば、次の爪が入る。


 ルーシーは顔を逸らさない。

 剣で弾かない。弾けば刃が暴れる。


 眉の前を、石が掠める。熱い風が頬を切る。血が一筋、流れる。

 ルーシーは痛みを無視し、刃を走らせた。前腕の内側、石を投げた筋を削る。投げる動きが途切れる。ボスが一瞬だけ目を細めた。


 そこで、ルーシーは初めて“詰め”に入る。

 派手な一撃ではない。逃げ道を潰す連撃を、さらに細かくする。


 皮膜の縁、付け根、前腕、肩、後脚。順番ではない。相手が動かした部位を、即座に削る。動かした部位が削られれば、次に動かす場所が減る。減れば読みが当たりやすくなる。読みが当たれば刃が置ける。置ければ削れる。

 その循環が、速度になる。


 ボスがかわす。かわした先に刃がある。

 ボスが跳ぶ。跳ぶ前に腱が削られ、跳び切れない。

 ボスが滑る。滑るための皮膜が裂け、滑りきれない。


 土が舞う。葉が散る。樹皮が飛ぶ。

 森の音の中で、刃の音だけが乾いている。短い金属音が連続し、途切れない。


 カイゼルは盾を構えたまま、わずかに前へ出ようとして止まった。助けに行けない。行けば邪魔になる。ルーシーの刃線に入れば、自分が切られる。そう理解している顔だ。

 セリナは治療の手を離し、両手を握りしめた。回復魔法を入れたい。だが距離がある。近づけば危ない。もどかしさが喉に詰まる。

 ケスディアは弓を握り直した。指は震えている。矢をつがえることはできる。だが射線の先にルーシーがいる。外せば味方を撃つ。迷いが顔に出る。今まで迷わなかった男が、初めて迷っている。


 ボスが一瞬だけ、上を見た。

 合図だ。残党が投石を準備している。

 ルーシーの刃が喉元から外れた、その瞬間を狙う。


(させない)

 ルーシーは喉元を狙わない。

 合図を出す“胸”へ一瞬だけ視線を置く。胸の筋が動く。そこに刃を置く。浅い一撃。だが、呼吸が詰まる。鳴けない。合図が乱れる。


 上から石が落ちる。狙いが甘い。連携が崩れている。カイゼルが盾で受ける必要もない距離に落ち、土に沈む。


 ボスの目が、細くなる。

 敵意ではない。計算をしている目だ。


 ルーシーは、剣を止めない。

 止めた瞬間に、相手が生き返り誰かが傷つく可能性があがる。止めないために、刃の動きをさらに小さく早くする。


 ボスが最後に仕掛けた。

 地面を蹴り、土を跳ね、低い姿勢で突っ込む。爪ではない。肩でぶつかる。体当たりで距離を潰し、ルーシーの剣を無効化する。雑魚にはできない判断だ。


 ルーシーはさがらず、斜めにかわし、根の少ない場所へ、重心を移す。そこへ体当たりが来るが、ルーシーは剣を引かず刃を、相手の肩の前へ置く。置かれた刃に、ボスが自分から当たる。皮が裂け、筋が切れる。体当たりの勢いが半分になる。


 残った半分の勢いは、ルーシーが足裏で受ける。

 踵を沈め、膝を柔らかくする。衝撃が上体へ抜けないように流す。

 その流れの中で、刃がもう一度走る。今度は後脚。踏み込みの腱を浅く削る。


 ボスの体が崩れた。

 完全に倒れない。だが、立ち直れない。踏み込みが利かない。皮膜も裂けている。前腕の動きも鈍い。


 そこで、ルーシーは剣を喉元に戻さない。

 代わりに、相手の“視線”を切る。


 ボスの目の前、わずか数センチの距離を刃が走る。空気が裂ける。反射で目が閉じる。その瞬間、ボスの判断が遅れる。遅れた判断の隙に、ルーシーは肩口へ短い一撃を入れる。肩が落ちる。腕が下がる。爪が地面を掴むだけになる。


 ボスは、そこで初めて止まった。

 逃げるための動きではない。戦いを続けるための動きでもない。

 “終わり方”を探している動きだ。


 ルーシーは剣を下げない。

 下げれば最後に何かが来る。来たら自分が乱れる。乱れれば事故が起きる。


 数呼吸。


 ボスの前腕が、ゆっくりと下がった。

 鳴かない。跳ばない。飛ばない。


 撤退の合図も出ない。

 合図を出す余裕がないからだ。残党は、勝手に散っていく。森の奥へ、影が溶けるように消えていく。


 ボスは、こちらを見たまま、後退した。

 枝へ。幹へ。葉の陰へ。


 裂けた皮膜を畳みながら、視線だけを外さない。

 敵意でも、恐怖でもない。覚えるための目だった。


 影が消えた瞬間、胸の内側の流れがふっと緩んだ。

 緩んだ分だけ、世界が遠くなる。足が一拍遅れて地面を掴み、呼吸が深くなりすぎて喉が痛い。


(……戻せ)


 ルーシーは自分に言い聞かせ、流れをもう一度細くする。

 三か月、毎日やってきたことだ。


 背後で、カイゼルが盾を下ろした。

 重い音が、森に落ちる。


「……終わったな」


 確認の声だった。安堵ではない。仕事としての区切りだ。


 ルーシーは答えず、剣を低く構えたまま、森の奥を見ていた。

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