第66話 普通の仕事① 戦いの前に
城門を抜けると、足裏の感触が変わった。
石畳から土へ。硬さが消え、音が沈む。朝の冷えが残った地面は湿り気があり、靴底に細い砂が貼りつく。街の中では聞こえなかった鳥の声が、やけに近い。
エルデンの外は、いつも通りだ。冒険者にとっては、街の中より落ち着く場所でもある。人の視線が減り、仕事だけが残る。荷車の軋みも、商人の呼び声も薄くなり、代わりに風が枝を擦る音が増える。
先頭を歩くのはカイゼルだった。無駄のない歩幅で、振り返らない。背中だけで隊列を引っ張る歩き方だ。鎧の擦れる音が一定で、それが隊列の拍になっている。一定の拍は、余計な焦りを消す。焦りが消えれば、事故も減る。
「目的地まで二時間。途中で休まずにいくぞ」
短い声が飛ぶ。確認ではなく宣言に近い。隊列の速度を“今ここで決める”言い方だ。
「了解」
返事は揃った。
ルーシーは隊列の中央より少し前。歩き方は静かで、足音が薄い。意識して消しているわけではない。足裏が勝手に“余計な音”を嫌うだけだ。背中の剣は軽く揺れるが、邪魔にはならない。むしろ、あるべき場所にある重さが気持ちを落ち着かせた。
その少し後ろで、弓を担いだ少年が舌打ちをした。
「……ほんとに、地方の赤は楽でいいな」
わざと聞こえる声だった。隊列の空気を試すみたいに、少しだけ大きい。
ケスディア・イロモ。
整えられた茶色の髪。森に入るには少し軽すぎる装備。革は新しく、弓にも大きな傷はない。歩き方も、まだ“現場慣れ”してない。なのに、声だけは場を支配したがる。余裕を見せて、自分の立場を固めたい――そういう匂いがする。
「道も広い。視界も悪くない。これで赤扱いか? 拍子抜けだな」
独り言のように言いながら、わざとらしく周囲を見回す。
誰もすぐには返さなかった。
沈黙が気に入らなかったのか、ケスディアはさらに声量を上げる。
「正直、言っていい? この程度なら、僕一人でも余裕じゃない?」
空気が、わずかに張った。
セリナが歩きながら視線だけを横に流す。いつもなら冷静な声音が、今日は最初から硬い。白い指先が、革袋の口をぎゅっとつまむ。苛立ちが動作に出る程度には熱い。
「……それは事実じゃない。ただの思い込みよ」
「思い込み?」
「状況を見て決めてない。“自分ならできる”って言ってるだけ」
ケスディアが鼻で笑った。
「実際十分だろ。弓があれば森は――」
「制圧できる、って言うなら帰って軍に入って」
セリナの声が、思った以上に熱を帯びた。歩調が一瞬だけ乱れる。腹に引っかかった言葉を、飲み込まずに吐き出した感じだ。
「討伐は仕事よ。終わらせて帰るだけ。見栄も、プライドも、いらない」
「細かいな」
「細かくない。違うの」
セリナは呼吸を整えるように一度だけ息を吐き、続ける。
「あなたは“自分が無事なら成功”って考えてる。私は“全員が帰れるか”で成功を決める。そこが違うのよ」
ケスディアの眉が動く。
「回復役の発想だな。後ろで温存してる奴の理屈だ」
「言い方!」
セリナの声音が上がった。
「私が“後ろにいる”のは仕事の都合よ。好きで下がってるんじゃない。前に出る人間が勝手をして、怪我を増やすから、こっちが下がらざるを得ないだけ」
ケスディアは肩をすくめ、わざと軽く笑う。
「じゃあ怪我しなきゃいいじゃん。弓なら怪我しない。前に出る奴が鈍いんだよ」
ルーシーは、返事をしなかった。
少年の言葉は軽い。軽いから、真正面から受ける必要がない。だが、軽い言葉が事故を呼ぶのも知っている。事故は、往々にして“自信”の顔をしてやってくる。だから、聞き流すのではなく、頭の片隅に置いた。
セリナが噛みつく。
「“怪我しなきゃいい”で済むなら、誰も回復を連れて歩かない。言ってることが、子どもなの」
「子ども? 僕はBだぞ」
ケスディアが声を尖らせる。
「この歳でBになった奴が、どれだけいる? 貴族枠でも、実力がなきゃ無理だ。僕は――」
言いかけて、わざと間を置く。
視線が、露骨に前方へ向いた。カイゼルの背中ではなく、その少し横。ルーシーに引っかけるような角度だ。
「……そっちもさ。女なのに、でかいよな。普通、もっと小柄だろ。何食ってんの」
空気がさらに硬くなる。
ルーシーは一拍置いてから、淡々と返した。
「そうですか」
それだけ。感情を乗せない。
ケスディアは“聞いているかどうか”を確かめるみたいに目を細める。
「いや、悪いって意味じゃないよ? たださ、その体で前に出るの、怖くないの? 転んだら誰が起こすの」
刺し方が露骨になった。
セリナが歩みを止めた。止めた分だけ、隊列が乱れかける。カイゼルの足も、ほんの少しだけ乱れる。
「……その口、今すぐ閉じなさい」
「なんで? 事実だろ」
「事実じゃない。失礼なの。仕事中に言うことじゃない」
セリナの熱が上がっている。普段なら切り捨てるだけの言葉が、今日は燃料になる。怒りが、声と肩の張りに出ている。
ケスディアはさらに調子に乗る。
「貴族の教育じゃ、女は後ろだ。前に出るのは向いてない。……まあ、Cならなおさらだな。足並み揃える相手じゃない」
その言い方が、わざとだと分かる。分かっていて、言っている。場の空気を悪くすると知っていて、そうしている。
ルーシーは肩をすくめる代わりに、歩幅を少しだけ詰めて二人の間に入った。自然に“仕切り”の位置を取る。戦闘じゃない。だから、剣は抜かない。声も荒げない。
「続けますか。歩かないと遅れます」
事務的な言い方だった。仲裁というより、現実へ引き戻す。
だが、ケスディアはそれを“上から言われた”と受け取ったらしい。
「は? なんでCが仕切ってんの」
わざと大きい声。
「それにさ、納得いかないんだよ。この編成。なんで僕がリーダーじゃない?」
ついに言った。核心の不満を、隠さない。矢筒を叩く音が、苛立ちを伴って響く。
「経験? 年齢? そんなの結果を出してから言うことだろ。僕の方が結果を出せる。……少なくとも、あんたよりは」
最後の一言を、ルーシーへ向けて投げた。
ルーシーは一拍置いた。反射で言い返すと、余計に燃える。燃えた火は、現場では全員に回る。だから――答え方を選ぶ。
「結果は、これから出ます。今は、仕事の順番に従います」
そっけない。だが、折れていない。
ケスディアの顔が歪む。欲しいのは謝罪でも反論でもない。“自分が上だ”という確認だ。それが得られない。
次の瞬間、重い圧が落ちた。
カイゼルが止まり、振り返った。視線だけで場の温度が変わる。背中で引っ張っていた男が、正面を向いた途端、隊列の空気が締まる。鎧の音すら、一段小さく聞こえた。
「……ケスディア」
呼び捨てだった。
「文句はいい。仕事をしろ」
それだけで終わらせる――と思ったのに、ケスディアが食い下がる。
「でもおかしいだろ! 俺はBだ。しかもこの若さで――」
「だからだ」
カイゼルが言い切る。
「若い。だから、まだ足りない。足りないのは矢じゃない。“止まる判断”だ」
ケスディアが言葉に詰まる。
「結果はもう出てる」
カイゼルの声は低い。怒鳴らない。だが、逃げ道がない。
「だから今、俺が前を歩いている。以上」
その“以上”が、刃物みたいに切れた。
セリナが一歩進み、噛みつく。
「聞いた? 今の。あなたの“足りない”は、私が一番困るの。怪我を増やす人間は、回復役の敵よ。治すのは魔法じゃない、時間と手間よ」
熱い。珍しく、感情が表に出ている。
ケスディアは顔を赤くして、負け惜しみを吐く。
「……地方の赤なんて、さっさと終わらせればいいんだよ。無駄に慎重になる必要なんかない」
弓を担ぎ直し、わざと大きめの足音で前に出た。
森へ入る前の小道で、しばらくだけ沈黙が続いた。
足音と装備の擦れる音だけが並び、会話が消える。沈黙は落ち着きにもなるが、今回は違う。怒りと自尊心が冷えきらずに残っている沈黙だ。
ルーシーは横目で二人を見た。セリナは唇を薄く結び、視線を前から外さない。ケスディアは逆に周囲を見回し続け、獲物を探しているふりをして、自分の居場所を主張している。
こういう時に事故が起きる。敵より先に、味方の“ズレ”が致命傷になる。
カイゼルは何も言わない。ただ歩幅を一定に保つ。一定のまま、全員の速度を揃え、呼吸を揃え、頭を仕事に戻す。余計な慰めも叱責もない。必要な時にだけ刃を落とす男だ。
森の縁に入る。
光が落ち、視界が細切れになる。音の方向が曖昧になる。草の擦れる音が増えて、逆に“何が動いたか”が分かりにくい。落ち葉の下で根が盛り上がり、足首を取ろうとする。平地より、判断が一拍遅れる地形だ。
カイゼルが、短く手を上げた。
「ここで一度、役割を伝える」
ようやく、ブリーフィングだった。
森に入ってからでは遅い。だが、ここで止められるのがリーダーの仕事だ。
「目標は魔獣の討伐。投擲による被害がでてる。対象は樹上を使う群れ。数は十前後と見ておけ。追うな、分断される。寄せて潰す」
言葉が現場の速度になった。全員の目の焦点が一段上がる。
「俺が前。間合いを作る。攻撃を防ぐ。セリナは後ろ、視界が切れる位置に立つな。治療は“触れる距離”が必要だ、無理に前へ出るな」
セリナが頷く。
「了解。刺し傷なら一分。深いのは五分以上かかる。戦闘中は、悪いけど誰かが盾になって。勝手に突っ込まないでね」
言い方が強い。ケスディアに向けている。
カイゼルが続ける。
「ルーシーは中。俺の右後ろ。動けるなら、斜めに抜けて敵の足を止めろ。――ただし、味方の射線に入るな」
「はい」
返事は短い。戦闘の返事だ。
最後に、カイゼルはケスディアを見る。
「お前は高い位置を取る。撃つ前に声を出せ。『撃つ』でいい。位置を言え。勝手に動くな。外した矢は味方に飛ぶ。ここは競技場じゃない」
ケスディアは矢筒の蓋を指で弾き、わざと音を立てた。
「まあ、声くらいは出してやるよ。社交の場でも、弓の腕は話題になるしな。狩りの席で外したことなんてない」
自慢が止まらない。セリナが眉を寄せる。
「ここは狩りじゃない。外さない保証はない」
「保証? 僕が撃つんだぞ」
言い切る声音が、また場を軋ませた。
ケスディアは笑った。
「命令多いな。弓ってのは、自由に動いてこそ――」
カイゼルの目が細くなる。圧が一段、上がった。
「“自由”は、制御できる奴の言葉だ。今のお前は、ただ勝手なだけ」
ケスディアの笑いが引きつる。
「……分かったよ」
分かっていない返事だった。
ルーシーが、間に入る。
「撃つ前に一声。位置共有。それだけ守れば、楽になります」
仲裁のつもりだった。
だが、その言い方はケスディアにとって“説教”に聞こえたらしい。
「はあ? Cが、Bに講釈? 背がでかいと口もでかくなるの?」
飛び火が、直接来た。
ルーシーは目を瞬かせる。想定はしていた。だから、声の温度を変えない。
「講釈ではなく、段取りです」
ケスディアが、わざとらしく嘆息する。
「段取りねえ。……まあ、いいよ。どうせ簡単なんだろ? 地方の赤なんて」
その背中が、先に森へ入っていった。
最悪の空気を、最悪のまま引きずって。
森の影が濃くなる。
音が減る。視界が割れる。枝が重なって、距離感が狂う。葉の揺れは風か、足音か、判別に一拍かかる。
その瞬間、ケスディアが小さく呟いた。
「……撃つぞ」
「待て」
カイゼルの声が半拍遅れる。
ケスディアは止まらなかった。
ルーシーの視界の端で、枝が揺れた。
高い位置。複数。しかも、静かだ。
「……来ます」
ルーシーの声が落ちる。
次の瞬間、弓が引かれる音がした。
最悪のタイミングで、最悪の空気のまま、仕事が始まった。




