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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする  作者: Yuki


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第65話 ヴァルキア

朝のギルドは、紙と金属の匂いがする。依頼札が擦れる音、革袋の紐が鳴る音、鎧の留め具を締める乾いた音。訓練場の静けさとは違って、ここは「生活の仕事場」だ。危ないことを日常に溶かす場所。


 ルーシーは掲示板の前で足を止め、無意識に首を傾けた。赤札へ視線が行きかけて、すぐ戻る。今日は受けない。三日だけ訓練に使うと決めた。決めたのに、身体の方が勝手に「仕事の流れ」を探しに行く。自分は強いとは思っていないのに、身体だけが先に、危ない方へ慣れようとするのが怖い。


「あ、ルーシー」


 受付の方から、元気な声が飛んだ。マレーナだ。


「おはようございます」ルーシーは頭を下げた。


「おはよう。今日は訓練って聞いてるわ。午前は裏の方、空けてある。午後は軽い黄なら回せるけど、どうする?」


 “軽い黄”という言い方に、マレーナらしい配慮がある。押し付けない。選ばせる。ルーシーの生活が訓練だけに偏らないように、でも無理はさせないように。


「……午後は、手が震えてなければやります」

 言ってから、少し変な言い方だと思った。けれど本音だった。疲れてる時に強化する癖が出る。強化が、勝手に出る。


 マレーナは口元だけで笑った。

「いいわ。分かりやすい基準。あなた、頑張り方が雑になる時があるからね」


「……はい」

 言われて、少し恥ずかしい。自覚がある。頑張るほど余計な力が入って、肝心のところで外す。昨日の稽古でも、勝った負けたより、その雑さを見抜かれた気がする。


 裏手へ回ると、柵の向こうに人影があった。グレイヴ・ロウ。こちらが見えた瞬間、向こうは動かないのに、歩幅だけが勝手に小さくなる。近づくほど、胸が狭くなる感じがする。息を深く吸いたくなるが、吸うほど肩が上がる。だから短く吐いて、腹に落とす。身体の合図はそれだけでいい。


「来たか」

 第一声は短い。昨日より温度が低い。


「おはようございます。よろしくお願いします」


「挨拶はいい。三日で終わらせる。俺は長く張り付けねえ」

「……はい」


「条件は一つ。出したら戻せ。戻せないなら使うな」

 戻せ、という言葉が、昨日よりも重く響いた。戻せない強化は事故。事故は味方を壊す。頭では分かっているが、身体が追いつくかは別だ。


 木剣が投げられる。雑に握ると指先が先に強化される。昨日の反発が、手の中に居座っている。


「力を抜け」

 言われて、肩が少し落ちた。


 訓練場の端、壁際にローデリックがいた。今日は声を出さず、腕を組んで見ているだけだ。視線があるだけで、背中が正される。支部の空気が、ちゃんと現場の空気に繋がっていると分かる。


 ルーシーが気づいて頭を下げると、ローデリックは顎を小さく動かしただけで返した。言葉を挟まないのは、今日はグレイヴの領分だという合図だ。


 グレイヴが短く言う。

「最後に一つ。ここで強化を覚える理由は勝つためじゃねえ。味方を守るためだ」

「守る……」

「この世界は、魔法でも剣でも一つ間違えば事故が起こる。味方にも当然ダメージが出る。だから“出しっぱなし”が一番危ねえ」


 グレイヴは、わざとルーシーの真正面に立った。距離は近い。木剣が触れそうな距離。

「ここで《ヴァルキア》を出すとどうなる」

 質問なのに、逃げ場がない。

「……相手に、圧がかかります」

「それだけじゃねえ。近いと、周りの空気が硬くなる。硬くなると、隣の動きが遅れる。遅れた奴から死ぬ」


 そして、短く《ヴァルキア》と言った。派手なものはない。だが、肌の上の空気が一瞬だけ重くなる。耳の奥が詰まる。砂の粒が、沈んだように見えた。

 次の瞬間、何事もなかったように戻る。戻った後の方が、逆に軽く感じる。


「今のが基本の出し方だ。長くすると、味方が動けなくなる」

「……はい」

「お前がやるときも同じだ。出すより先に戻し方を覚えろ」


「今日やることは二つだけだ」

 グレイヴは指を二本立てる。

「一つ。お前の“前に出る癖”を、止めるじゃなく整える。二つ。強化は出すより戻す。戻せないなら、どれだけ出せても意味がない」


「戻す……」

 口に出すと、言葉が重くなる。戻す、引く、元へ返す。全部同じだと頭では思うのに、身体は別々のものとして扱ってしまう。


「出し方を教えろって顔をしてるな」

「……してました」

 正直に答えると、少し間抜けだった。

「出し方は勝手に覚える。お前はもう勝手に出してる。問題は“勝手に出る瞬間”だ」


 グレイヴは木杭の前に立った。足だけを見る。


「半歩」

 言われた瞬間、ルーシーは半歩出る。戻る。砂が引っかかる。戻りが遅れる。遅れた分だけ、上体が起きてしまう。

 すぐ指摘が飛ぶ。

「膝を伸ばすな」

「……はい」

「伸ばすと戻りが遅れる。遅れると、次を受ける前に当てに行く。お前の癖に直結する」


 半歩。戻り。左右。後ろ。前。

 単純なのに、足裏が忙しい。忙しいと、思考が追いつかない。追いつかないと、身体が勝手に動く。そこが危ない。現場で必要なのは、賢い判断じゃなく、遅れない戻りだ。


 五回目、ルーシーは左右を間違えた。頭では左へ出るつもりなのに、足が右へ出てしまう。瞬間、身体がねじれてバランスが崩れた。

「……すみません」

「謝るな。今のが現場で出る。慌てると左右が入れ替わる。入れ替わった時に勝手に上がる」


 勝手に上がる。昨日の“硬い反発”の記憶がよみがえり、腹の奥が冷える。


「剣を持て」

 木剣を構える。

「同じ半歩をやれ。剣先を揺らすな。揺れを止めようとして強化するな」


 やってみると、剣先は揺れる。揺れが気になる。気になると、手首を強化で押さえたくなる。押さえた瞬間、腕の中に硬さが生まれる。

「いま強化したな」

「……はい」

「強化するのは“止める”じゃない。“強化”だ。強化すると戻せない」


 グレイヴは、木剣の背でルーシーの剣先を軽く叩いた。カン、と普通の音。次にもう一度、同じ強さで叩く。なのに二回目だけ、ルーシーの手首が勝手に反発し、音が少し硬くなる。

「ほら。勝手に出た」

「……今ので、ですか」

「今ので出る。だから現場で出る。出る瞬間を選べない奴は危ない」


 言い切られて、背中が少し汗ばむ。自分はまだ、コントロールできない。


「次、打ち合いだ」

 グレイヴの木剣が来る。縦。軌道がぶれない。受ける。衝撃が肩の奥に残る。

「今のは普通。普通で受けろ。普通のまま戻せ」

「……はい」


 横から来る。嫌な角度。身体が前に出かける。

「動くな」

 止める。止めたまま角度を作る。

 コン、と硬い音が混じる。反発が返る。

 戻す。――つもりが、遅れた。腕の中に反発が残る。消そうとして強化する。強化すると、次でまた勝手に出る。


「戻せ」

「……はい」

「遅い。遅いと強化する。無意識に強化すると周りが死ぬ」


 “死ぬ”が訓練の言葉として落ちてくるのが怖い。だが、怖いからこそこの場で言われる必要がある。現場で言われたら遅い。


「強化は、気合いで押すんじゃない」

 グレイヴは自分の足を軽く踏む。砂が沈む。

「地面を押した反発に、硬さを一瞬だけ重ねる。重ねたら引け。引けないなら重ねるな」


「引く……」

 戻すよりも具体的に感じた。引くなら動作だ。止めるより、引く方がやれそうだ。


 その後は、同じ反復を続けた。普通で受ける。必要な瞬間だけ硬くする。硬くしたら引く。引けなかったらやり直し。

 途中で一度、ルーシーは足先を取られてつんのめた。転びそうになる。転びそう、と思った瞬間、身体の奥が熱くなって硬さが勝手に出かける。


「戻せ」

 声が落ち、ルーシーは踏ん張るのではなく膝を落として勢いを逃がし、腕の中の硬さを引く方向に意識を向けた。ギリギリで転ばずに済む。

 心臓が一拍遅れて跳ねる。


「今のだ。転ぶのはどうでもいい。転びそうな瞬間に勝手に上げるな」

「……はい」

「怖い時ほど出したくなる。出したら事故になる。短く、引け」


 昼前、グレイヴは手を上げた。

「今日は終わり。午後は働け。疲れてる時に引けるかが本番だ」

「……はい」


 ギルドへ戻る途中、ルーシーは手のひらを見た。柄が擦れた場所が熱い。握りを強くすると痛い。弱くすると不安になる。普通の握りが一番難しい。普通のまま、一瞬だけ硬くして、すぐ引く。

 頭で分かっても、身体が先に走る。その差を三日で埋めるのが、今の課題だ。


 午後、ルーシーは結局、黄の短い依頼を一件だけ受けた。倉庫の荷の見回りと、浅い生活圏の道の安全確認。戦闘はない。ないのに、荷を持ち上げる瞬間に腕を強化しかける。強化すると勝手に上がる。

 そこで思い出す。引け。短く。

 力を抜くのではなく、余計な力を元へ戻す。

 仕事の最中にそれを思い出せたことが、今日の成果だった。


【二日目】


 二日目は風が強かった。砂粒が舞い、目の端が少し痛い。瞬きをすると視界が揺れる。揺れると判断が遅れる。遅れると、嫌だ、が先に出る。嫌だが先に出ると、勝手に硬さが出る。


 訓練場に入るなり、グレイヴが言った。

「今日は失敗を学べ」

「……はい」

「昨日の“分かった気”を壊す。分かった気のまま現場に行くと、人が死ぬ」


 いちいち“死ぬ”を使うのが怖い。だが、現実の言葉はそれしかない。


 今日も見物人が一人いた。柵の外、腕を組んで立っているブレイデン。視線をこちらに向けているが、口を出さない。


「最初に手だ」

 グレイヴは丸太の的を引きずってきた。表面が毛羽立ち、何度も打たれて硬くなっている。

「当ててみろ。ただし壊すな。木片を飛ばすな」

「……当てるのに、壊さない」

「現場で味方の盾を割ったらどうなる」


 ルーシーは木剣で軽く打った。普通の音。次も同じ。

 三回目、少しだけ嫌な予感がして、腕が強化入りかけた。

 コン、と音が硬くなり、表面のささくれが小さく跳ねた。細い木片が二、三本、砂に刺さる。


「止めろ」

「……すみません」

「謝るな。今のが『出ている』ってやつだ。硬いまま当てるな。木片が飛ぶ」

 グレイヴは足先で木片を示す。

「これが狭い坑道なら? これが横の仲間の目なら? 逃げ場は?」


 想像が一気に具体化し、喉が乾いた。味方にも当然ダメージが出る世界だ。魔法だけの話じゃない。近接の“硬さ”だって、不用意に出たら同じだ。


「戻すのを先に決めろ」

「……はい」

「当てに行くな。目的は“壊す”じゃない。“引く”だ」


 次。ルーシーは当てるより先に、引くことを意識した。打った瞬間、腕の硬さを戻す方向へ。すると音は普通のまま、木片が飛ばない。


「いい。次は連続」

 縦、横、縦。間が短い。

 受ける。戻す。

 受ける。戻す。

 四つ目で汗が滑る。握りがずれる。ずれた瞬間、視線が落ちる。落ちた瞬間、木剣が来る。受け遅れる。嫌だが出る。勝手に硬さが出る。


 コンッ。反発が大きい。

 戻す――が、遅れる。腕に強化がかかる。強化されたまま当てに行きそうになる。


「戻せ」

 声が低い。怒鳴らない。だから余計に効く。

 ルーシーは歯を食いしばり、腕の中の硬さを引いた。引いた瞬間、痛みが少し引く。強化するより引く方が、身体が楽になる。


「今のは、強化したな」

「……はい」

「強化すると力が散る。散った力は周りを叩く。引くのは、強化を一点から抜く動きだ」


 理屈が、身体の感覚と繋がり始める。


 次の連続で、グレイヴはわざと“間”を作った。間が空くと、ルーシーの身体が「行ける」と判断する。足が前に出かける。

「待て」

 止める。止めたまま受ける。

 コン、と硬い音が混じる。勝手に出た。

 引く。

 引いたつもりが、少し残る。残った硬さが手首に刺さる。


「残ってる。残りは事故になる」

「……はい」

「消そうとするな。消そうとすると強化が出る。引け」


 ルーシーは“消す”ではなく“戻す”を選んだ。硬さを抜く方向に意識を置く。すると、手首の刺さる感じが少し消えた。


 ブレイデンが、柵の外で小さく息を吐いた。声は出さない。だが、見られているのが分かる。Bランクの目に“危ない”が映っていると思うと、余計に背筋が伸びた。


 その後も失敗は続いた。短くしたつもりが長い。長いと散る。散ると怖い。怖いと強化が出る。強化がまた長く出る。

 自分で自分を追い込む形だ。悔しさより先に、情けなさが来る。情けないと思うと、強化してしまう。悪い循環。


 休憩で水を飲んだ時、グレイヴが言った。

「お前、強いと思ってねえだろ」

「……はい。思ってません」

「そこはいい。だが、“強くない自分”を守ろうとして強化するな。守るなら引け」

 守る、という言葉が意外だった。守るために強化する。強化するから事故になる。守るために引く。引けるなら、守れる。


 午後の最後、グレイヴは突然、掌を差し出した。

「ここに当てろ」

「……手に、ですか」

「木剣の腹で、軽く。硬さは出すな。普通で当てて、引け」


 怖い。怖いからこそ、強化したくなる。強化しない。普通で当てる。

 木剣が掌に触れた瞬間、ルーシーは反射で硬さを出しかけた。

「引け」

 声が落ち、ルーシーは硬さを出す前に引いた。

 グレイヴの掌が動かない。動じない。

「それだ。怖い時に引けるかが本番だ」


 夕方、グレイヴは短く言った。

「明日で決める。明日も同じ失敗をするなら、お前にはまだ早いってことだ」

「……はい」

 返事が小さくなる。怖い。でも、怖いまま引く。その練習をしている。


【三日目】


 三日目の朝、ルーシーの手のひらには薄い水ぶくれができていた。握ると小さく痛む。痛むと、嫌だが出る。嫌だが出ると勝手に硬さが出る。だから、痛みをただの情報にする。

 訓練場へ入る前に、短く息を吐いた。肩が落ちる。落としたまま入る。


 グレイヴは最初から言った。

「今日は“切り替え”を覚えろ」

「切り替え……ですか」

「一秒で出して、一秒で戻す。長く出すな。長く出した瞬間、周りが巻き込まれる」


 木杭ではなく、二本の杭が並ぶ場所へ連れていかれた。間隔は肩幅より少し広い。

「右を触れ。次に左。次に右。足は動かすな。剣だけ動かせ」

「……はい」


 右、左、右。

 単純だが、剣だけ動かすと軌道がぶれる。ぶれを直そうとして強化すると硬い反発が残る。結果、次が遅れる。遅れると嫌だが出る。そして勝手に強化される。

 結局また同じだ。


「声を使え」

「声……」

「“引く”って言え。言って引け。声が出せるなら余計な力が抜ける」


 ルーシーは少し大きめに言った。

「……引く」

 右。硬さを一瞬だけ重ねる。引く。

「引く」

 左。引く。

 言葉にすると、肩が落ちる。肩が落ちると手首が強化されにくい。強化されにくいと残りが減る。


「次、打ち合い」

 グレイヴの木剣が来る。縦。横。縦。

 ルーシーは受けるたびに小さく言った。

「引く」

 受ける。引く。

「引く」

 横。嫌だが出る前に、短く強化を重ねる。引く。

「引く」


 七つ目、グレイヴの踏み込みが深くなった。距離が詰まる。身体が「逃げろ」と言う。逃げると、足が前に出る。そして当てに行ってしまう。

 だから逃げない。受ける。短く重ねる。引く。


 その瞬間、強化が“短く”ではなく“鋭く”出た。

 コンッ、と音が変わり、反発が大きく返った。グレイヴの木剣が、ほんのわずか止まった。

 ルーシーの目が開く。止まった? 今、自分が?

 次の瞬間、怒鳴り声が落ちた。


「……やめろ。そこで終わりだ」


 グレイヴの指が、ルーシーの手首の骨の位置を押さえる。逃げ場を消す押さえ方だった。力でねじ伏せるのではなく、動ける余地を潰す。

 ルーシーは息を呑み、次いで短く吐いた。吐かないと、また強化が入る。


「今のは、出し方が違う」

「……違う、ですか」

「お前が“出した”んじゃねえ。勝手に強化が入った」


 言われて、胸の奥がざわついた。

 さっきの強化は、狙って乗せたものじゃない。怖い、と思った瞬間に、腕に強化が入り――そのまま刃に乗った。


 グレイヴは目を細めた。


「昨日言っただろ。お前の中、うるさいって」

 その言葉で、昨日の終わりに残った感覚が、今さら形になる。

 止めているつもりでも、完全には止まっていない。静かにしている“つもり”の下で、強化が勝手に反応している。


「……うるさい、って」

「余ってる。溜まってる。勝手に入る。――《ヴァルキア》がな」


 名を出されて、ルーシーは喉が乾いた。

 《ヴァルキア》は、強くなるための呼び名だと思っていた。だが今の言い方は違う。強くなる以前に、暴発の仕組みとして扱っている。


「《ヴァルキア》は“押す魔法”じゃねえ。合わせる魔法だ。合わせるってのは、身体の動きに乗せるってことだ。乗せる前に勝手に入ったら、そりゃうるさい」

「……私、いま……勝手に」

「入った。しかも短くじゃなく、鋭く。あれは味方の横でやったら、当ててなくても事故になる」


 ルーシーは唇を噛みそうになり、すぐやめた。噛むと強化が入りやすい。強化が入ると、また勝手に跳ねる。

 だから、息を吐いて、肩を落とす。戻す。


「いいか。お前が覚える順番はこうだ。

 まず“引く”。次に“一秒だけ乗せる”。最後に“意識して発動する”。

 発動が先だと、声や気持ちが引き金になって、強化が勝手に入る」


「……声が、引き金に」

「そうだ。だから今日は、声で“引く”って言わせた。お前は、言葉に引っ張られるタイプだ。褒められて一拍遅れるのも同じだ」


 胸が熱くなる。図星を刺されると、反射で誤魔化したくなる。

 でも誤魔化しは、現場では事故に直結する。


「……はい。気を付けます」

「気をつけろ。中が静かになれば、ようやく《ヴァルキア》を“使った”と言える」


 グレイヴは掴んでいた手を離し、木剣の先をルーシーの胸元に向けた。突くのではない。距離を示すだけだ。

「この距離で、もう一度やってみろ」

「……はい」


 怖い。だが怖いまま声を出す。

「引く」

 受ける。短く重ねる。引く。

 今度は反発が短い。残りが少ない。

「引く」

 次。普通で受けて引く。

「引く」


 グレイヴが一歩下がった。

「……いい。きっかけはできた」

 ルーシーは一拍遅れて頷いた。

「……はい」

「完璧じゃねえ。だが、危ない瞬間に気づける。気づければ引ける」


 グレイヴは木剣を棚に戻した。

「ここで終わり。俺は他所へ回る。仕事が溜まってる」

「……はい」

「次に来るのは二週間後。それまでCの仕事に慣れろ。勝手に出す癖を戻すな」

「はい」

「戻ってきたら報告を聞く。どこで勝手に出たか、どこで引けなかったか。言えるようにしとけ」

「……はい」


 グレイヴが去ると、訓練場の空気が急に軽く感じた。重さが消えたのではなく、こちらが慣れただけかもしれない。

 ルーシーは手のひらを見た。痛みは残っている。だが、痛みが来ても引ける感覚が、指先に残っている。三日分の反復が、ようやく一つの動作になり始めた。


【翌日】


 ギルドの掲示板の前で、ルーシーは赤札を見上げた。間引き、素材回収、撤退線の確保。赤でも、即死を狙う内容ではない。だが、赤は赤だ。油断すれば死ぬ。


「あ、あの……ルーシーさん……」


 小さな声。振り向くとエリーが立っていた。新人の受付。頬が少し赤い。話しかけたいのに、毎回一拍遅れる。


「おはようございます」

「お、おはようございます……。きょ、今日は……赤の依頼が……。Bランクの方が一人入って……それで、ルーシーさんも、って……」


 紙束を抱えた指が少し震えている。頑張って声を出しているのが分かる。


 ルーシーは一拍置いた。訓練場で繰り返した言葉が腹の底で鳴る。引く。短く。戻す。

「……はい。行けます」

「ほ、本当ですか……!」

 エリーの顔が明るくなる。

「よ、よろしくお願いします……!」

「こちらこそ、お願いします」


 赤札を外して受付へ出す。怖さが消えたわけじゃない。けれど、怖さを強化でごまかさない方法だけは、手に残っている。現場で必要になるのは、その一点だ。


 提出の途中、マレーナが横から声をかけた。

「赤は“慣れ”で死ぬわ。帰り道まで仕事よ」

「……はい。帰り道まで、ですね」

「それと、無理に頑張りすぎないでね。あなた、周りに気を使いすぎると動作が遅れそうだから」

 図星で、ルーシーは目を泳がせた。

「……気をつけます」

「気をつける、じゃなくてほんと無理しないでね」

「……はい」


 言い直した瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。強くなるための言葉ではない。事故を起こさないための言葉だ。


 翌朝の集合場所は城門前だった。まだ商人の荷車が列を作る前で、空気が冷たい。ルーシーは剣の柄に触れ、指先の痛みを確かめた。

 痛みがある。だから強化したくなる。強化する代わりに、腹の奥で小さく言う――引く。

 それだけで、肩が少し落ちた。


 背後から重い足音が近づき、カイゼルが「行くぞ」と短く言った。今日の隊の頭だ。Bランクの声は、短いだけで場の手綱になる。

 ルーシーは反射で足を出しかけ、すぐ止める。

「はい。……準備できています」

 言えた。止めて、戻して、言葉にする。小さな成功が、今日の赤を現実に変えていく。


 門が開く音を聞きながら、ルーシーは自分にだけ分かる速さで、もう一度だけ“戻り道”を確認し、歩き出した。

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