第54話 崩落原因調査② 解除と昇格
門が近づくにつれて、街の音が戻ってきた。
荷車の軋み。露店の声。石畳を叩く靴音。外の冷気に混じって、焼き窯の甘い匂いが少しだけ鼻をくすぐる。
ハウルが肩を鳴らした。
「……腹減った」
「いま言う?」ミラが笑い混じりに返す。「さっきまで粉吸ってた口で」
「腹は別だろ」
セインが苦笑いする。
「別じゃない。喉に粉が残ってると、何食ってもまずい。……うがいしろ。あとでちゃんと」
ルーシーは黙って歩幅を揃えた。
疲労が消えたわけじゃない。腕の奥に痺れは残っているし、脚の芯も張っている。けれど、それが動きの邪魔をしない。関節が引っかからない。
呼吸を一度だけ入れる。
腹で吸い、止め、吐き、止めた。
深く入ると落ち着く。落ち着くと、隊列の間隔が見える。自分が今どこにいるかが、音じゃなく距離で分かる。
門をくぐる。
衛兵が目を向け、布包みと粉だらけの靴を見て眉を上げたが、声はかけなかった。慣れている。冒険者はこういう顔で戻る、と知っている。
ギルドまでの道は短い。
短いのに、最後まで油断できない。ここで気が抜けて、転ぶとか、壁に肩をぶつけるとか、そういう「つまらない事故」が一番悔しい。
グレンが前を見たまま言う。
「入ったら、すぐ奥だ。受付で止まるな」
「分かってる」ハウルが返す。
「分かってないから言ってんのよ」ミラが即座に刺す。
「うるせえ」
そのやり取りで、空気が少しだけ軽くなる。
軽くなっても、崩れない。崩れないように歩く。息は短くしない。
◇
ギルドの扉を押し開けた瞬間、匂いが切り替わった。
薬草の青い匂い。紙の擦れる乾いた音。金属の留め具が触れる小さな音。朝より人は多いが、騒がしいというより「回っている」音だ。
そして――視線が集まる。
粉で白くなった靴。擦れた盾。欠けた矢。布包み。
受付のマレーナが顔を上げた。隣にエリー。もう一つの窓口にフィリス。
マレーナの目が、まず人数を数える。次に、手と肩と足を見て、最後に顔を見る。順番がはっきりしている。
「……全員いるわね」
グレンが頷いた。
「報告だ。奥に、通してくれ」
「マスターが待ってる。行って」
言い切るのが早い。ここで余計な確認を挟まない。
エリーが一瞬だけ息を吸った。何か言いたいのに、言葉を飲み込んでいる顔だ。新人の癖。心配と憧れが同時に出て、処理が追いついていない。
フィリスが口だけで笑った。
「……お帰り。って言う場面か? 言うと長くなるか」
「余計なこと言わない」マレーナが即答する。「あとで」
「だよな」
ルーシーは足を止めず、マレーナにだけ目を向けて短く言った。
「戻りました」
マレーナの返事も短い。
「戻ってきてくれてよかった。……あとでね」
それで十分だった。
エリーが、我慢できずに小さく言う。
「……あの、ルーシーさん……」
呼びかけた声が思ったより小さくて、本人が驚いた顔になった。すぐに背筋を伸ばし直す。
「お、お帰りなさい……です」
言い切って、耳が赤い。言えたこと自体が嬉しい、という顔だ。
ルーシーは歩きながら頷いた。
「ただいま」
それだけで、エリーの顔がぱっと明るくなる。だがマレーナが帳簿を閉じる音がして、空気はすぐ仕事に戻った。
「行って。早く」
「了解」
グレンが言って、奥へ進む。
◇
部屋の中にはローデリックだけじゃなかった。
壁際に、もう一人。
扉の前でグレンが軽く叩いた。
「入るぞ」
「入れ」
ローデリックの声は低い。いつも通り、部屋の空気を先に支配している。
――そして、壁際。
ブレイデンがいた。
見慣れた顔だ。ここ最近の現場で、何度も同じ列にいた。言葉は少ないのに、目だけで「やるべきこと」を拾っていく男。
ルーシーの胸の奥が、勝手に一段だけ引き締まる。
ブレイデンがこちらを見た。挨拶はない。会釈もない。
ただ、視線だけで「続けろ」と言っている。
グレンが前へ出る。
「報告だ。ヴェルダーン坑道、崩落地点手前まで。崩れ方は自然じゃねえ。内側から押し広げた痕がある」
ローデリックが短く言った。
「モンスターは」
「シルトリス、グロザード。想定通り。斬って暴れさせる真似はしてない。押して通した」
ミラが矢束の欠けを指で弾いた。
「床の膜は砂で殺した。通路塞ぎは、支えてずらして通った。余計な手数は増やしてない」
ローデリックは頷かない。続きを待つ。
セインが布包みを机の端へ置いた。ほどき方が丁寧だ。転がらないよう、布の縁で受ける。
「硬質片を、回収した。粉が付いてるが……岩の粉じゃない」
ローデリックが欠片を見て、指先で粉を少しだけ取る。
擦り合わせた瞬間、眉がわずかに動いた。
「……硬いな」
ヴィレクスが淡々と言う。
「外殻。鉱石と違う混ざり方だ。自然物じゃない」
ローデリックの目が上がる。
「推測はいい。見たものを言え」
グレンが息を吐いて言った。
「……カーヴァノスがいた」
その言葉で、部屋の温度が変わった。
ブレイデンの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
ルーシーはそれを見て、腹の奥に息を落とした。
ローデリックが言う。
「接触は」
「した。押し潰しに来た。壁側に潰そうとした」
ハウルが歯を見せるように笑った。
「正面で止めたら終わる。だから流した。壁に当てないよう、角度だけ作った」
ミラが即座に続ける。
「矢は通らない。だから刺すんじゃなくて“向き”をずらした。首を振らせるだけ」
ローデリックの視線が、ルーシーへ一瞬だけ飛んだ。
「……お前は」
ルーシーは短く答える。
「線を作りました。浅く。外殻に」
ブレイデンが初めて口を開いた。声は低い。短い。
「……その剣で、外殻に“線”が残ったか」
「残りました」
「斬ったか?」
「斬ってません。押し当てて、滑らせました。それだけです」
ブレイデンはそれ以上言わない。
ただ、目が“確認”から“評価”に変わったのが分かる。
ヴィレクスが言う。
「その線に土を入れた。割れ目が走った。そこから押して、崩して――それで引いてきた」
ローデリックが言った。
「負傷は」
「なし」グレンが即答する。「矢と薬と、装備の擦れだけ。人は全員生きて戻ってる」
ローデリックはそこで初めて頷いた。
「撤収判断は正しい」
ブレイデンが、短く鼻で息を吐く。
「……余計な欲が出なかった。そこはいい」
言い方はぶっきらぼうだが、これは褒め言葉だ。
ルーシーは表情を変えずに受け取る。
ローデリックが机の上の書類を指で押さえた。
「……ここからは、ルーシーの“管理”の話だ」
一拍。
「今日をもって解除する」
ルーシーの胸の奥が、遅れて沈んだ。
見られている距離が消える。消えていい。消えたぶん、次からは自分の責任になる。
「はい」
ローデリックは続けた。
「それと。Cランクへ上げる。手続きは明日、詳細はマレーナに伝えておく」
ブレイデンが低い声で言った。
「勘違いすんな。Cになったから強いんじゃねえ」
目が動かない。
「今日、“Cの仕事”を崩さなかった。だから上げた」
ルーシーは短く頷いた。
「はい」
「よし。今日は解散」ローデリックが言う。「報告書はグレンが書いておけ。欠片は預かる。原因の最終確認はこっちでやる」
「了解」
扉を出る。
廊下の空気が、さっきより少しだけ軽い。
軽くなったのは安心じゃない。区切りが付いたからだ。やるべきことが“次”へ移った。
◇
受付へ戻ると、マレーナがこちらを見た。
目が一瞬だけ、ルーシーの顔に止まる。次に、グレンへ。最後に、全員の手足。
「……終わった?」
「終わった」グレンが言う。「証は置いてきた」
フィリスが身を乗り出した。
「すっきりした顔してるな。で、どうだった」
「余計な詮索すんじゃないよ」マレーナが即座に刺す。
「いや、言うだろ。……なあ、ルーシー」
ルーシーが視線を向ける。
フィリスは、そこでわざと咳払いをしてから言った。
「……Cランク昇格、おめでとう」
エリーが一瞬固まって、次の瞬間、目を見開いた。
「え、えっ……!? え、C……!?」
マレーナが帳簿を閉じて、淡々と言った。
「明日、正式手続きするわ。今日は帰って休みなさい。温かい布団に入って、すぐ寝る。明日でいいことは明日」
昨日の言葉と同じ温度だ。生活の指示として、ちゃんと効く。
ルーシーは頷いた。
「分かりました」
エリーが、遅れて、でも一生懸命に言う。
「お、おめでとうございます……! ルーシーさん……!」
声が少し震えている。嬉しいのと、緊張と、憧れが全部混ざっている。
ルーシーは短く返した。
「ありがとう」
それで、エリーの顔がぱっと明るくなる。分かりやすい。
フィリスが、肩をすくめて言った。
「……で、祝勝会は?」
「やらない」マレーナが即答した。「今日は寝かせる」
「厳しい」
「厳しくしないと、あとで後悔するの」
言い方は静かだが、線が引かれている。ルーシーはその線がありがたいと分かる。
帰る。
帰って、寝る。
今日の段取りは、もう決まった。
◇
家の鍵を回す音が、小さく鳴った。
扉を閉めると、外の音が薄くなる。静けさが戻る。
剣を下ろし、革帯を外す。重みはいつも通り背中に残っている。筋肉の張りもある。でも、その張りが動きの邪魔をしない。関節が引っかからない。
呼吸を一度。
深く入ると落ち着く。落ち着くと、今日の場面が順番に並ぶ。
カーヴァノスの目。外殻の硬さ。線が残った瞬間。割れ目が走った瞬間。撤収の判断。ローデリックの「解除」。ブレイデンの「勘違いするな」。
余計な反省は、今はしない。
今やると、頭が勝手に“追い”へ向かう。追うと事故るのを、もう身体が知っている。
布団を整える。靴を揃える。水を飲む。
温かい布団に入って、すぐ寝る。
マレーナの言葉を、そのまま守る。
明日、Cランクになる。
でも今日の区切りは、眠りで終わらせる。
ルーシーは息を吐き、止めた。
部屋の暗さが、静かに濃くなっていった。




