第46話 基礎修行⑥ 三ヶ月、何も起きない日々
カルディナで三ヶ月が過ぎていた。
長いようで短い。
短いようで、きっちり九十日分の仕事と修行が積み上がる。
ルーシーにとって、その三ヶ月は「待ち」の時間ではなかった。
毎日、やることが決まっていたからだ。
三ヶ月の間、朝はいつも街外れだった。
自主練は「一日の始まり」として、完全に固定されていった。
誰もいない空き地。
剣を抜き、呼吸を整え、走る。
止まる。
振る。
途中で止める。
派手な技はない。
新しいことも、ほとんどない。
ただ、同じことを、同じ条件で繰り返す。
繰り返しているうちに、嫌でも分かるようになる。
――自分は、すぐに“追う”。
走れば速くしたくなる。
振れば強くしたくなる。
できると思った瞬間に、次を欲しがる。
それは体力の問題ではない。
余力の問題だった。
余力があるから、崩れる。
崩れるから、事故に近づく。
ルーシーはそれを、朝の自主練だけで、何度も思い知らされた。
◇
最初の一ヶ月は、正直きつかった。
走っても苦しくない。
剣を振っても腕は上がらない。
息も乱れないし、脚も動く。
それなのに、止められる。
止められるのは、動作ではない。
「次」だ。
次に踏み込む癖。
次に速くする癖。
次に力を足す癖。
身体が勝手に「次」を選ぶ。
夕方になると、同じ空き地に戻る日があった。
朝とは違う。
この時間は、カルヴァンがいる。
ルーシーが動き、カルヴァンは見る。
口を出さないことも多い。
だが、視線があるだけで、誤魔化しは通らなかった。
「追うな」
その一言で、全部が止まる。
ルーシーは反射で頷く。
だが、次の瞬間には、また同じことをやりかける。
分かっているのに、身体が先に出る。
止められるたび、悔しい。
悔しさが、さらに追いを呼ぶ。
だから、また止められる。
(……終わらないな)
何度も思った。
だが、カルヴァンは終わらせなかった。
「できていない」からだ。
その線引きが、ルーシーにはありがたかった。
自分で勝手に「できた」と思って事故るのが、一番怖い。
◇
二ヶ月目に入ると、変化は質を変えた。
止められる回数は減る。
だが、別のものが見え始める。
背中の内側。
肩甲骨の間あたりに、薄い熱が出る。
最初は汗だと思った。
だが違う。これは内側だ。
熱は、面になる。
面になると、動きが滑る。
滑ると、気持ちがいい。
気持ちがいいから、追う。
夕方の練習で、その兆しが出るたび、カルヴァンは言った。
「それは“使う”な」
「……でも、出ます」
「出るのは勝手だ。追うのはお前だ」
正論だった。
だから、何も言い返せない。
出るものを止めるのは難しい。
だが、追うのを止めるのは自分の仕事だ。
基礎修行は、魔法の練習じゃない。
剣の練習でもない。
――事故を起こさない練習だ。
ルーシーは、それをはっきり意識するようになった。
◇
三ヶ月目になると、生活そのものが型になった。
朝は自主練。
昼は仕事。
夕方はカルヴァンの指導。
夜は調整と反省。
仕事は派手なものではない。
護衛、巡回、倉庫の警備。
カルディナは大きな街だ。
派手な依頼もある。
だが、ルーシーに回ってくるのは、常に管理系の仕事だった。
昼前、ギルドで札を受け取る。
受付の女性は、帳簿を閉じる前に一度だけ確認する。
「ルーシーさん」
名前を呼ばれるだけで、把握されていると分かる。
ある日、受付の女性が帳簿をめくりながら言った。
「あなたの依頼配分、少し不思議です」
「不思議、ですか」
「ええ。この街に慣れた冒険者なら、そろそろ別の仕事を回されてもいい頃なのに」
視線を上げずに続ける。
「それでも、指示は変わらない」
一拍。
「……個人的に、よほど気に入られているんだと思います」
ルーシーは少しだけ口元を緩めた。
「そうかもしれませんね」
それ以上は言わない。
言う必要がない。
「気に入られている」という言い方は軽い。
だが、軽い言い方で済ませられる程度に見えるのは、むしろありがたかった。
◇
夕方――その日の練習を終えた後。
カルヴァンは、いつもより長くルーシーの動きを見ていた。
口は出さない。
止めもしない。
ただ、見る。
見られていると、誤魔化せない。
誤魔化さないと、余力が見える。
余力が見えると、追いが出る。
ルーシーは、わざと遅く振る。
わざと止める。
わざと、何もしない時間を挟む。
熱は出る。
薄い面が背中に残る。
それでも、追わずに納める。
できる日と、できない日。
差は小さい。
だが、その小さな差が事故を分ける。
しばらくして、カルヴァンが何でもない声で言った。
「明日、時間取れるか」
ルーシーは背筋を正した。
「はい。取れます」
カルヴァンは頷くだけだった。
「……よし」
それだけで、意味は十分だった。
基礎修行を三ヶ月続けた意味は、そこで初めて形になる。
ルーシーは剣を納め、静かに息を吐いた。
胸の内に湧いたのは、高揚ではない。
落ち着いた緊張だった。
追わない。
固めない。
止めない。
それを、明日は「判定の場」でやる。
ルーシーは宿へ戻る道を、いつも通りの速度で歩いた。
いつも通りに歩けることが、今は一番難しく、そして一番確かな手応えだった。




