第45話 基礎修行⑤ 余力の内側
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朝の空気は乾いていた。
カルディナの外縁、街道を少し外れた草地は、夜露がもう引いている。踏み込めば滑るほどではないが、石畳のように反発も返ってこない。地面は柔らかく、返りが遅い。遅い返りは、走りやすい代わりに、癖が出やすい。
ルーシーは歩きながら、自分の足運びを意識していた。
(……軽い)
悪い意味ではない。
眠りは深い。起きた瞬間から身体が動く。筋肉の張りが残らない。関節も素直だ。呼吸も落ち着いている。
日本にいた頃なら「調子がいい日」と言って、少しだけ気分が上がるはずの状態だ。
だが今は、気分が上がるほど、嫌な予感がする。
身体が軽い日は、だいたい余計なことをする。
踏み込みが伸び、動きが前に出て、結果を急ぐ。
急げば、できる。できるから、さらに急ぐ。
急いだ結果、何かを壊したのは、何度も経験している。
(追うな)
口に出さず、胸の内で反芻する。
言葉は覚えた。問題は、その言葉を守れるかどうかだ。
草地の奥、低い岩のそばにカルヴァンはいた。
今日も早い。いつも通り周囲を一度確認し、余計な気配がないのを確かめてから、こちらを見た。腹の怪我はもう、動きの上では目立たない。だが、無理をした形跡もない。無理をしないから崩れない。崩れないから、こちらの崩れもよく見える。
「来たな」
「おはようございます」
それだけで十分だった。
余計なやり取りはない。ここは仕事場ではないが、今の二人には仕事みたいな規律がある。
カルヴァンは地面を指す。
「今日は、先に動く」
ルーシーは頷いた。
動くこと自体は苦ではない。むしろ動けば落ち着く。落ち着くから、危ない。
「走れ。あそこまで往復。三本」
指差された岩は、昨日と同じ位置だ。距離も分かっている。短距離でも、限界でもない。
それでも、三本と言われるだけで、身体は勝手に「もっと出せる」と言い出す。
ルーシーは軽く息を吐き、走り出した。
一往復目。
脚は軽い。呼吸も安定している。足裏が地面を捉えすぎるくらいだ。
捉えすぎると、掴む。掴むと、踏ん張る。踏ん張ると、固まる。
(置け)
昨日言われた言葉を思い出し、足裏の「掴み」を減らす。
掴みを減らすと、不安定になる。不安定になると、また掴みたくなる。
それを我慢して、ただ置いて返す。
二往復目。
心拍は上がるが、苦しくはない。むしろ身体が温まってきて、動きが前に出たがる。
前に出ると速くなる。速くなると気持ちいい。気持ちいいと追う。
(上げるな)
速度を上げたい衝動を、息で押さえる。
吐いて、止めて、吸う。止める。
走りながら呼吸を型にするのは難しい。難しいが、できないわけではない。
できる、という感覚がまた危ない。
三往復目。
速度を上げたくなる衝動が、はっきりと浮かぶ。
足幅が勝手に広がり、踏み込みが大きくなる。
大きくすると、距離が稼げる。稼げると、もっと稼ぎたくなる。
(……行ける)
行ける、という感覚が一番危ない。
行けると思った瞬間に、制御を放り投げる癖がある。
ルーシーは速度を変えずに戻り、止まった。
息は乱れていない。
胸は静かだ。脚もまだ余裕がある。
もう一本走れと言われても走れる。もっと速く走れと言われても、たぶんできる。
それでも、身体の内側がざわついている。
走ったせいで熱が上がった、という単純な話ではない。
「出せる」という余力が、内側から押してくる。
カルヴァンはその状態を見て、言った。
「剣を抜け」
ルーシーは背中から剣を下ろし、鞘を払う。
重さは変わらない。だが、さっきより軽く感じた。
軽く感じる時ほど、扱いを誤る。
軽いから速く振れる。速く振れるから気持ちいい。気持ちいいから追う。
追うと、熱が増える気がする。増えた気がすると、さらに追う。
「回数は三十」
カルヴァンは淡々と言う。
「条件は同じだ。
追うな。固めるな。止めるな」
止めるな、が最後に来る。
呼吸も、動きも、判断も。途中で逃げるな、という意味も含んでいる。
ルーシーは構えた。
肩の力を抜く。抜きすぎると前に倒れるので、腹で支える。
足裏は掴まない。置く。置いて返す。
息を吐きながら、一振り目。
一。
刃の線は真っ直ぐだ。速度も適切。
二。
三。
最初の数振りは問題ない。
だが、身体は走った直後だ。余力がある。余力があると、動きは勝手に「前へ」行く。
四で、踏み込みが半歩伸びた。
伸びた分、刃の終わりが前に流れる。
流れは気持ちいい。流れると、力を使っていない気がする。
(……今の)
考えた瞬間に、次の動作が遅れる。遅れると、取り返したくなる。取り返したくなると、速さが出る。
速さが出ると、また追う。
「追うな」
カルヴァンの声。
ルーシーは息を吐いた。
吐きながら、剣を振る。振り切る。
止めない。止めると固まる。固まると、熱が弾ける。
五。
六。
呼吸は保てている。
だが、振るたびに「もう少し速く」「もう少し強く」という衝動が湧く。
衝動は疲労ではない。余力だ。
七で、肩が前に出そうになる。
肩が出ると、腕で振り始める。腕で振ると、力で押し切れる。力で押し切れると、制御が要らなくなる。要らなくなると、全部が崩れる。
(腕でやるな)
自分に言い、腹で支える。
腹で支えると、振りが遅くなる。遅さが気持ち悪い。気持ち悪いと速さを欲しがる。
欲しがること自体が追いだ。
八。
九。
背中の内側が、じんわりと温かい。
汗とは違う。熱が、薄く広がっている。
面になる前の気配だ。
(来てる……)
気づいた瞬間、意識が寄る。
寄った瞬間に、熱が少し強くなる気がする。
「追うな」
すぐに声が飛ぶ。
ルーシーは吐いた。
吐きながら、速度を落とす。落とすのが悔しい。悔しさは燃料になる。燃料は追いを呼ぶ。
(燃やすな)
十。
十一。
数を数えると、残りが意識に上がる。残りが意識に上がると、終わりへ近道を探す。
だが今日は数える。逃げないために数える。
十二で、足裏が地面を掴みすぎた。
踏ん張る癖が出る。
「置け」
カルヴァンの短い指示。
置く。
掴まず、ただ置いて、返す。
置くと、剣の振りが少しだけ不安定になる。不安定になると、身体が補正に走る。補正に走ると固まる。
固まると、追いが入る。
十三。
十四。
背中の熱が、面になりかける。
肩甲骨の内側に、薄い板のような感覚。
板があると、剣が滑る。滑ると、楽だ。楽だから、もっと滑らせたくなる。
(……違う)
楽だから選ぶと、追う。
十五で、あえて遅く振った。
遅さが、はっきりと身体に残る。
遅いのは不安だ。不安は力で誤魔化したくなる。
十六。
十七。
呼吸は乱れていない。
だが、止めたくなる瞬間が増える。
「一拍止めて整えたい」という欲が出る。欲は追いの入口だ。
「止めるな」
カルヴァンの声。
ルーシーは吐き、止めずに振る。
止めずに振ると、雑になりそうになる。雑になりそうになるのを、また息で押さえる。
十八。
十九。
残りが見え始めると、終わりを急ぐ癖が出る。
きれいに終わらせたい。気持ちよく終わらせたい。上手く終わらせたい。
その全部が追いだ。
二十で、背中の熱が強くなる。
面が広がり、前へ出たがる。
前へ出ると、剣が軽くなる。軽いと速く振りたくなる。
(……このまま)
何かをしたくなる。
理由のない確信が湧く。
「今ならできる」という感覚。行ける、というやつだ。
「追うな」
声が鋭い。
ルーシーは吐いた。
吐きながら、速度をさらに落とす。
速さを捨てると、悔しい。悔しさが燃料になる。燃料が熱を呼ぶ。
それでも、落とす。
落としたまま振る。
二十一。
二十二。
剣の重さが、戻ってくる。
重いのではない。余計な力を使っていないだけだ。
力で押し切らないから、線が戻る。
二十三。
二十四。
足は動く。
腕も動く。
ただ、制御の端が摩耗しているのが分かる。
体力はある。だから、いくらでも押し切れる。押し切れるのが危ない。
二十五で、息が一瞬止まりかけた。
呼吸を型にする「止める」と、息が止まる「止める」が混ざる。
「止めるな」
即座に声。
吐く。
止めない。
二十六。
二十七。
残り三。
ここで上げたら、全部が台無しになる。
だが、身体は「最後くらい上げろ」と言う。
言うだけならまだいい。勝手に上げ始めるのが怖い。
二十八。
遅いまま。
二十九。
同じ速度。
三十。
最後も変えない。
剣を振り終えても、ルーシーはその場に立っていた。
倒れない。息も乱れない。
ただ、背中の熱が、薄く残っている。残っていることが分かる。分かると触りたくなる。
「納めろ」
ルーシーは剣を鞘に戻す。
背負った瞬間、身体が楽になる。
楽になると、安心する。安心もまた、追いの入口だ。
呼吸を回す。
吸って、止めて、吐いて、止める。
「どうだ」
「……残ってます」
「それでいい」
カルヴァンは即答した。
「今日は、余力が敵だ。
倒れるための訓練じゃない。
制御が先に削れる、その感覚を覚えろ」
ルーシーは頷いた。
身体はまだ動く。
もう一本走れと言われても走れる。
だが、その「走れる」が今日の敵だった。
制御を守れた回数が、昨日より一つ多い。
増えたのは体力じゃない。守れた回数だ。
それだけで十分だ、と言えるようになるのが、今の修行だ。
ルーシーは剣の重みを確かめ、草地を後にした。
歩き出すと、足がまた勝手に前へ出たがる。
前へ出たがるのを、腹で吐いて抑える。
街へ戻る道は短い。短いから油断する。
油断すると追う。追うと熱が動く。
(追うな)
言葉を繰り返しながら、呼吸を回す。
吸って、止めて、吐いて、止める。
熱は残っている。
残っているのに、追わずに歩けている。
それが今日の成果だった。




