第34話 第一部 静寂の価値
書き始めてみると、どんどん書きたいことが出てきてしまうので、今回から、1話を数話で構成することにしました。
鳥のさえずりと、石造りの壁を伝って届く街の遠い喧騒。
それが、ルーシーの意識をゆっくりと浮上させた。
すぐに身体を起こす必要はなかった。
耳に届くのは、自分の呼吸音と、布団がわずかに擦れる音だけ。
誰かのいびきも、廊下を走る足音も、朝の鐘に慌てて跳ね起きる気配もない。
(……ああ、そうか)
半分眠ったまま、視線を天井に向ける。
(ここ、私の家なんだ)
理解が追いついた瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
ギルド寮ではよくあった、隣室の物音に意識を引き戻されることもない。
「起きろ」「急げ」と言われているわけでもない。
自分の時間が、自分だけのものとして流れている。
布団の中で、ゆっくりと脚を伸ばす。
背中に刺さる板の硬さがないだけで、ここまで違うのかと少し驚いた。
目覚めが柔らかい。身体が拒否しない。
上体を起こし、部屋を見回す。
広くはないが、必要なものは揃っている。
壁際に積まれた装備、簡素な机と椅子、小さな棚。
そして、自分専用の水場。
顔を洗うために立ち上がり、手桶で水を汲む。
順番待ちも、他人の視線もない。
冷たい水が頬を打ち、眠気が一気に引いていく。
(……生活って、こんなに静かだったっけ)
思わず、そんなことを考えた。
石造りの炉に火を熾し、鉄鍋をかける。
昨日のうちに買い揃えた干し肉と根菜を刻み、鍋へ放り込む。
こちらのナイフは、日本で使っていた包丁とは感触がまるで違う。
刃を滑らせるというより、重さで押し切る感覚に近い。
立ち上る湯気と匂いを感じながら、ルーシーは自分の手を見た。
この手は、この世界に来てからも「力負け」だけはしていない。
切れない、持てない、扱えない。
そういう感覚とは、今のところ無縁だった。
だが――
この手がこれから扱うのは、食材を刻む道具ではない。
命を奪い、奪われるための鉄の塊だ。
朝食を済ませると、自然と視線が部屋の隅に向いた。
新しく揃えた装備一式。
まずは防具。
鋼鉄板入りの強化レザーアーマーを身に纏う。
脛当ても含めると、それなりの重量が全身にかかる。
普通なら、歩くだけで息が上がる重さだ。
だが、かつてトレーニングで身体を追い込んでいた感覚からすれば、まだ許容範囲だった。
重いが、不快ではない。
「守られている」という実感の方が強い。
次に、剣。
武器屋で選んだ、肉厚で重心の偏った片手剣。
鞘から引き抜くと、鈍く重い鋼の光が視界に入る。
片手で構えると、剣先に引っ張られる感覚がはっきりと分かった。
手首にかかる負荷が、通常の剣とは違う。
「……ふーっ」
一度息を吐き、室内で慎重に剣を振る。
不用意に振り抜こうとすると、遠心力が腕を外側へ引っ張った。
剣先の重みがそのまま身体に返ってきて、足元がわずかに揺らぐ。
(これ、踏ん張らないと……)
スタンスを広げ、重心を落とす。
腰の回転を意識し、剣を走らせ、目標の位置で止める。
ブンッ、と空気を叩く音。
だが、止めた瞬間に「ズレ」が生じた。
想定よりも強い衝撃が腕を襲う。
自分の感覚では抑えたつもりの力が、実際には過剰に出ていた。
一昨日、魔獣の腱を断ち切った時と同じ感触。
制御しきれない出力。
「……痛っ。何これ、今の……?」
手が負けたわけではない。
だが、感覚と現実の差に、小さな戸惑いが残る。
(当てるだけなら簡単。でも……)
当てて、終わりではない。
止める。外す。戻す。
それができなければ、剣はただの危険物だ。
ルーシーは剣を鞘に納め、背負った。
新居の扉を閉め、鍵をかける。
カチャリ、という音が、妙に心地よかった。
歩き出すと、背中の剣が腰に当たり、防具の金属板が擦れる音がする。
まだ、この重さは「自分の一部」にはなっていない。
それでも――
一歩一歩の足取りは、見習いだった昨日までよりも、確実に地面を捉えていた。
静かな朝。
静かな生活。
そして、これから始まるDランクとしての日常。
ルーシーは、活気に満ち始めたギルドへと向かって歩き出した。




