第1話 普通の選択
初投稿です。楽しんでいただければ幸いです。
横断歩道の白線は、思っていたよりもくっきりと見えていた。
櫻井瑠依は、信号が青に変わった瞬間に歩き出したわけではない。
一拍、間を置いた。
それは、長年の癖だった。
右。
左。
もう一度、右。
流れている車の速度。
減速の仕方。
ハンドルの角度。
停止線の位置と、前の車との距離。
横断歩道に立つ人の数。
歩き出すタイミング。
足並み。
(……問題ない)
判断は一瞬だった。
走る必要はない。
止まる理由もない。
“普通に歩けば成立する”。
それが、瑠依の基準だった。
急いでいるわけではない。
だが、遅れてもいない。
会社を出て、いつも通りの帰り道。
スマートフォンは鞄の中。
イヤホンもしていない。
街の音が、そのまま耳に入ってくる。
エンジン音。
タイヤがアスファルトを噛む音。
遠くで鳴るクラクション。
意識して聞いているわけではない。
身体が勝手に拾って、処理しているだけだ。
横断歩道の中央に差し掛かった、その瞬間。
――違和感。
右斜め後方。
一台目の車が止まった、その“影”。
瑠依の視界の端に、速度の合わない動きが滑り込む。
(……来る)
判断と同時に、身体が動いた。
半歩、踏み替える。
肩を切り、重心を前に流す。
真正面から避けない。
当たりを殺す動き。
これまで、何度もやってきた。
日常でも、そうでない場面でも。
経験上、これで足りる。
――はずだった。
次の瞬間、衝撃が来た。
鈍い音。
視界が、横に引き伸ばされる。
身体が浮いた感覚は、なかった。
ただ、地面が遠ざかる。
(……あ、間に合わなかったか)
感情は湧かなかった。
後悔も、恐怖も。
ただ、事実の確認だけが頭をよぎる。
二台目。
死角。
歩行者の流れに、わずかに押された。
判断は間違っていない。
無謀でもない。
それでも、外乱は入る。
最適解を選び続けても、
事故は起きる。
地面が近づく。
音が、遠のく。
(……連絡、必要だったな)
だが、もう身体は動かない。
意識が、静かに沈んでいった。
◇
感覚が、戻る。
だが、どこから戻ってきたのかは分からない。
上下の感覚が曖昧で、
身体がどこにあるのかも、はっきりしない。
それでも、不思議と不安はなかった。
「……死んだ、のかな」
声は、出た。
『その理解で、大きくは違わない』
返事は、直接頭に響いた。
声、と呼ぶには感情が薄い。
だが、無機質でもない。
瑠依は、周囲を見回そうとして、やめた。
見回す意味がないと、直感で分かったからだ。
「あなたは?」
『説明の仕方が難しい存在だ』
「……神、みたいな?」
『そう呼ばれることもある』
否定はしない。
だが、肯定もしない。
瑠依は深く考えるのをやめた。
今は、それより確認すべきことがある。
「さっきの判断、間違いでしたか」
『どう思う』
問い返し。
瑠依は、少しだけ考えた。
横断歩道。
車の流れ。
回避行動。
「……いいえ」
即答だった。
「成立していました。
私の選択も、動きも。
ただ、想定外が入っただけです」
『ほう』
声に、わずかな興味が混じる。
『後悔は?』
「ありません」
感情を抑えているわけではない。
本当に、なかった。
『多くの者は、それを“失敗”と呼ぶ』
「失敗は、次に繋げられる時に使う言葉です」
瑠依は淡々と言った。
「今回は、終わった。それだけです」
短い沈黙。
『……ならば、選択肢を示そう』
『このまま、ここで終わる』
『あるいは、別の場所で生きる』
「条件は?」
『元の世界には戻れない』
「それだけ?」
『それだけだ』
保証はない。
説明もない。
だが、嘘も感じなかった。
瑠依は、少しだけ考えた。
やり直しではない。
夢を追う話でもない。
ただ、生きるか、終わるか。
「……行きます」
答えは、早かった。
『理由は』
「生きていた方が、判断できます」
それだけだ。
『よろしい』
◇
冷たい感触が、背中に伝わった。
湿った土の匂い。
空気が、少し冷たい。
(……生きてるな)
そう判断したところで、
櫻井瑠依の意識は、完全に浮上する前に途切れた。




