のぞむものと、のぞむもの。
ふと、物音に気が付いた私は、書類から顔を上げた。
私、女王エレノアの執務室は基本的に無音だ。いや、実際には小さな物音はする。それでも私が集中できるよう、静けさが保たれていることが殆どだ。仕える秘書官たちも、侍女も、もちろん護衛たちも落ち着いた様子で、静かに自分の仕事をしている。私もその静けさの中、いつものように書類を確認していた。内容は生誕祭前から抱えている難民のこと、それに生誕祭の裏で起きた新職人街襲撃事件の後始末などが主だ。部屋の静けさとは裏腹に、私の心の中はひどく感情の嵐が荒れ狂っていた。
「……?」
私のほんの小さな仕草を受けて、侍女のローラが、すっと動いた。
執務室の外へ行き確認すると、さして間も置かず戻ってくる。
「一の聖騎士がいらっしゃいました」
「そういえば、もうそんな時間ね」
呼びつけていたのだった、と、壁の大きな柱時計を確認する。
この、時を正確に刻む、精巧に作られたからくりは王国内にも数えるほどしかない希少品だ。王城内にもここと謁見の間、そして魔導宮にしかない。それ以外だと、王都では神殿に大掛かりなものが一つある。王都の人々は神殿の時計を見て司祭見習いたちが鳴らす鐘の音を頼りに、日々の生活を営んでいる。
私は一度目を伏せ、重い気持ちを吐息と共にひっそりと吐き出してから、立ち上がる。
一の聖騎士、リチェのことは好きだ。普段ならば会うのは楽しみで、私にとっての癒しの時間だと言っても過言ではない。でも、今は……。
「人払いをお願い」
私の書類仕事を手伝っていた秘書たちに、しばらく席を空けるように伝える。優秀な部下たちは、さっと行動に移し、室内にはローラと護衛の一人だけが残った。どちらも私のプライベートも知る、最も信頼のおける者だ。
歴代のグラーシア王国の王が使い続けた、古く大きい執務机。その片隅に置かれた小さなポートレートに一度視線をやる。額縁に立てかけてあった小さな栞に目を細め、ポートレートごとそれを伏せた。意識して口の端を上げ、眉根を広げる。女王として社交場に出る時の笑みを浮かべる。部屋の真ん中まで歩み出る。王として、功労者を迎えるために。
「通して」
護衛が扉を開けた。約束していた時間ぴったりに、きっちりと聖騎士の騎士服を纏った、女性聖騎士が現れる。凛々しく、勇ましい。それでいて美しい。非常に整った容姿を持つ、現一の聖騎士。戦う者としても優秀だが、内面の凛とした強さがにじみ出ているような、そんな姿。
「一の聖騎士。よく参った」
ローラに促されて私の前へときた聖騎士に、私はゆっくりと言う。
女王然とした態度を保ち、どう見えるかをしっかり意識した微笑みを浮かべ、さぁ、こちらに、と差し招く。それを見た彼女は、立ち止まった。その目が私を見つめる。一瞬にして、傷ついたような、怒っているような、そんな色に変化した瞳を、私は感情をのせない瞳で見つめ返す。
「この度はご苦労だった。礼を言う」
私は、体の芯にあるほんの僅かの震えを抑え込んで、念を押すように言葉を重ねる。ただ、それ以上彼女の真直ぐな瞳を受け止めきれなくて、さりげなさを装って歩き出す。執務机の向こうへと戻ろう。まるで己を守る城壁のような机の向こうなら、耐えられるかもしれない。
「エレノア……っ!!」
ばちり、と乾いた音が響いた。
遅れて熱が来る。頬を張られたのだと認識したのは、更に数秒経ってからだった。私の肩を、まだ距離があったはずの彼女が掴んでいた。逆の片手が叩いたそのままのところで止まっている。真直ぐな目がこちらを見ている。慌てた護衛が聖騎士を取り押さえようと走ってきた。それを私は片手だけで止める。
「……リ、チェ」
「この、バカッ!! ちゃんと私の目を見なさいっ!!」
女王にかけるにしてはあまりにも不敬な言葉に、制止した護衛が動き出そうとするのを、私はもう一度手で押すような仕草をして止める。そうしている間にも、目の前にいた女聖騎士はその大きな目を潤ませ、そして、大粒の涙をこぼした。あまりにも綺麗なその雫に私は目を奪われた。
「……リチェ。でもっ」
「でも、じゃない……っ! だって、あなたは助けてって叫んでいたでしょっ!!」
彼女の温かな手が、私の頬に再び触れる。叩いてごめん、と、小さな絞り出すような声が謝った。囁くような音量で彼女は正確に韻を踏む。ふわりと光を纏わせた手で、たった今自分で張ったばかりの私の頬に治癒の魔法を施す。じんじんと痛んでいたところが優しい温かさに包まれ……。
女性にしては皮の固く柔らかさの少ない指先が、私の目元を拭った。
「……叩いてごめん。痛かったね。でも、私も、痛かった」
リチェが言う。何の飾りもない言葉。どこにも偽りのない、言葉。
私は、込み上げてきた何かを呑み込むように、小さく喘ぐ。
「……私の背中は、英雄リドルフィほど大きくはない。それでも、助けを求める者を見捨てたくはない。見逃したくはない。……それは、エレノア、あなただって例外でないの。私の大事な大事なエレノアを、どうして私が見限ると思うの?」
だからっ! とリチェは、その声に嗚咽が混ざるのを隠そうともせずに、続ける。
「だから、言ってよ……! いや、言わなくてもいい……。言えない時があるのも分かってる……! でもっ! 私の知ってるエレノアのままで、私を頼って……っ!!」
ひく、と、私の喉が鳴った。
その言葉に、全てがバレたのだと分かった。彼女をこの時代の英雄にするために、いくつも裏で手を引いていたことも、そのためにわざとキツい思いをさせたことも。そうするしかできなかった私の弱さも。罪悪感も。悲しみも。全て。彼女を失う可能性も否定できないまま、覚悟したつもりで覚悟なんてまったくできていなかったことも。
「リチェ……っ」
「エレノア。私はあなたを護るわ。聖女のいない世界の聖騎士として。……人々を救う者として、泥をかぶりながら女王という立場で聖女のように人々を護ろうとするあなたを」
有史以来初の女性聖騎士は、母親が我が子にするかのように優しく、包み込むように私を抱きしめた。
背の高い彼女の胸に顔をうずめる形になった私は、もう、取り繕えなかった。ひっく、と、何度も喉が鳴る。ぶわりとわいた涙が珠を結び、いくつもいくつも頬を流れ、私を抱くリチェの騎士服に吸い込まれて行く。
「リチェ……ごめん……ごめんなさい……っ」
「ううん。いいんだよ…… 分かってるから。……嫌いになんてならないよ。エレノア、大丈夫よ」
謝りながら私も騎士服の背中に手を回し、抱きしめる。頭の上で、ずっと鼻をすする音がする。リチェも泣いている。私も泣いている。
どちらも、まるで子どものようだった。そこに女王という立場も、聖騎士という立場もなかった。信じたくて、信じていいか分からなくて、でも、どうしても信じていたくて。傷つけると分かっていても試さずにいられなかった愚かな私と、それを許してくれた戦友。ただのエレノアと、リチェだった。
まるで、他愛のないことで喧嘩した子どもの仲直りのように、私たちは互いをきつく抱いて泣いた。
これにて第五章は閉幕です。
終盤書くのが本当にしんどかった第五章でした。
少しでもみなさんの胸に響くものがあったなら嬉しいです。
明日より最終章に入ります。
この先も最後まで見守って頂けると嬉しいです。




