26.日々の消光
あれからまたしばらく時間が経った。
いつの間にか雨が続く季節になり窓の外に広がる雲は重く、気分もなんとなく気だるげになる。
オスカー様との婚約を正式に破棄して以来、私を取り巻く環境は大きく変わった。
まず一番大きな変化と言えば、私が家を出て今は校外にある小さな家に居を構えていること。小さい、と言っても私とアニーが二人で暮らすのなら十分事足りる広さ、でそれなりにこの家を気に入っている。
貴族としてお家が取り潰しになるかもしれない行動を取ったのだから、家から追い出されるだけで済んだことに感謝すべき、かもね。
お父様は私を廃嫡したかったみたいだけど、どういうわけかお母様がこの家とアニーを付けてくれた。
お母様なりに何か思うところがあったのかもしれないわね。私にはその心中を推し量るなんて出来ないわ。だってもう何年もまともに親子らしい会話をしていないんですもの。
別にそれを責めるつもりもないし、何もあの人だけが原因でもない。それに今となってはどうだっていいわ。全部が全部、意味のないものというわけではなかったもの。
まぁとにかく。そんな感じでお父様とは不仲になり、アニーと一緒に気ままな二人暮らしを始めた。
私はオスカー様に婚約を破棄してもらおうとして、実際にそれは成功したのよ。でもそれはつまり。わが家がデュランド伯爵家であるための後ろ盾を失くす行動だったわけで。お父様がお怒りになるのも無理ないわね。
確かに家を追い出されるかもと考えてはいたわ。でも正直どこかでそうならない未来を期待していた部分もあったのよ。だからいざ本当にそうなると少し寂しく感じるところもあるけれど……でもこれで良かったのだと思う。
とはいえ家を出るというのは、些か下品な話になるけれどお金がかかるもの。私が持ち出せた個人の資産なんてそんなに多くはないし、ドレスや装飾品を売ればいくらか足しにはなるけれど、それにだって限りはある。
アニーは自分が外に働きに出ると言っているけど、そういうわけにもいかないでしょう?
そうなると私が何かしらでお金を工面する必要が出てくるわけで。やっぱり何かしら事業でも始めた方がいいのかしら? それとも投資? どれもダメね、全くの専門外なんだもの。
一応マナーや教養程度の知識はあるし家庭教師の様なものなら出来なくもないけれど、今をときめく没落令嬢を好き好んで雇う家があるのかしら? すぐに立ち行かなくなるわけではないのだし焦らずじっくり考えましょうか。
それにしても今日は一段と暗い空模様ね。窓ガラスの向こうはすっかり雨に濡れていつもとは違う雰囲気になっている。風がないだけ幾分かましかしら。
あぁ、幸いと言えば。オスカー様が色々と口添えしてくださったおかげで、デュランド伯爵という家名を返還するだけで済んだのは本当に有り難い話よね。家も取り潰しにならず、レミントン男爵を名乗ることも許された。
屋敷や土地も父が築いた財産だと認められ、取り上げられるずに済んだ。個人的に家を出た私はともかくとして、お父様とお母様はそのまま住み続けていられる。社交界では、色々と噂されているみたいね。
こうして色々考えてみると、状況や環境は変わったけど私が出来たことってやっぱり少ないわね。
確かに、オスカー様との婚約破棄を実現したのは私にとって十分大きな結果だと思うわ。でもそれに付随するあれやこれやは、私がしたことではない。全部オスカー様が好意で手を尽くしてくれただけ。結局のところ、私の力じゃない。
この家に住んでいるのだって、散々話を聞かなかった私を教会へ送ろうとしたお父様をお母様が止めてくれたおかげだし。
今まで必死で築いてきたモノを台無しにされそうになり、そういう言葉が出たのはわかっている。でもお父様に「教会に行け」と言われたのは、流石にちょっと堪えたわ。
堪えたけど、それでよかったかもしれない。贅沢をする質ではないし教会で神に従事し清貧に暮らす、というのが出来ないわけではないわ。まぁ、性に合わないのは確かね。
でも、お母様がお父様を止めてくださったのはちょっと意外だったわね。社交界に精を出しておられたから、お父様よりもずっと私の噂を耳にしていたはずなのに。
お母様が何を見て何を聞いてきたのかはわからない。でも私のために……いいえ。私のためではなかったのかもしれないけれど、それでも声をかけてくれたのは嬉しかった。
だから、いつか。もしもの話よ? もし機会に恵まれたら、今度はちゃんとお母様に、きちんとお礼を言わなくては。家を出る時は本当に慌ただしくて、ちゃんとお声もかけられなかったんだもの。
大粒の雨が窓を叩く。
雨音に交じって微かに馬の嘶きが聞こえた。
今日来るとは言っていたけど、わざわざこんな雨の中来なくてもいいのに。窓の外に停まった馬車を確認して自室のある二階から降りる。丁度最後の一段を下りたところで呼び鈴が鳴らされた。
それなりに築年数があるせいか、呼び鈴の音が少し濁っている。別に鳴らないわけじゃないからと、取り換えは後回しにしたままにしてしまっているせいね。
最初は家を訪ねてくる人なんてそうないだろうと思っていたのに、意外と人の出入りがあって、やっぱり取り換えておいた方が良かったなんて今更後悔した。
ゆっくりとドアの前まで進み、リビングの方から顔を出したアニーに断りを入れて扉の向こうにいるであろう人物を迎え入れる。
「やぁどうも」
「ええ、いらっしゃい」
いくら馬車で来たはいえ、乗り降りの際に少し肩を雨に濡らした顔だけは誰よりも整っている元婚約者殿がそこにいた。
「アニー、タオルをお持ちして」
「すまないね」
アニーから受け取った白いタオルで彼が衣服に付いた雨を払うのを見届けてリビングへ案内する。と、言ってもすぐそこなんだけど。
応接室もなければ、書架やサンルームもない。家の中の全てに手が届く程度の、二人で住むには十分すぎる家屋。
彼をこの家に通すのは初めてだ。物珍しいのかさほど広くもないリビングに視線を巡らせている。室内を眺めていたオスカー様が私を見て笑った。
「なんだかいいね。秘密基地みたいだ」
子供みたいな感想に思わず私も笑ってしまう。確かに彼の言う通り、ここは私の秘密の場所なのかもしれない。ここにはお父様もお母様もいないから面倒な淑女らしい振る舞いをしなくても怒られないし、夜更かしだって出来てしまう。
ソファーを勧めれば彼は素直に腰掛ける。タオルを片付けたアニーがティーセットを乗せたトレーを持ってリビングに入って来た。彼女が注ぐ紅茶の香りがさほど広くないリビングに広がる。
テーブルに置かれたカップの一つをオスカー様の前に置く。紅茶を一口飲んだあと、オスカー様は小さく息を吐いた。そんな些細な仕草さえ絵になるのだもの、顔がいいって随分お得よね。
私も自分の前に置かれた紅茶を飲む。アニーの入れてくれる紅茶はいつも美味しい。もちろん屋敷にいた頃よりもずっと茶葉のグレードは落ちてしまっているけど、それでもよ。
「それで、この暮らしはどう? 慣れてきた?」
「それなりに楽しんでいるわ。不自由なこともあるけど、それも全部自分で決められるのよ」
「それは良かった」
私の言葉に納得した様子でオスカー様が笑う。
オスカー様との婚約の解消が決まってからも何度か話をする機会があった。お互いに気を遣うこともなくなってなんだかずっと話しやすくなった気がする。
もっと早くこうなれたらと思わなくもない。でもやっぱり婚約者のままではこういう風にはなれなかっただろうとわかっていた。
本当はもっと終わった関係を引きずると思ったのに、そんなこともなくて。
今だって彼の近況報告という名の兄弟に対する愚痴を聞かされている。仲は悪くないようだけど、やはりオスカー様なりに思うところがあるらしい。何より王宮にいる他の人には聞かせられないと、彼自身も思っているのでしょう。
いくらかそうして話してから、彼が真っ直ぐに私を見ていった。
「頼みたいことがあるんだよ」
雨足が強くなってきたのか、窓を打つ雨音が大きくなっている。今日、わざわざ雨の中来たのはそういう理由らしい。
「僕が携わっている福祉事業を手伝ってくれないか?」
「福祉、ですか?」
「そう。国営のね」
聞けば内容は、よくある貴族の嗜みの一つだった。教会の孤児たちに読み書きを教える人手を探しているらしい。彼ら彼女らの生活支援と、社会へ出るための支援、と言ったところだろう。
教会と言われて思い出すのは多分もう会うことはないだろうあの人。マリアベルと会ったのもその一環だったのか、それとも彼女に出会って以来、そういうものにも目を向けるようになったのか。今となっては掘り返すつもりもないし気にするだけ無駄。
「報酬はもちろん支払う」
ある意味願ったりなお誘いね。
今後どんどん見入りが必要になってくるだろうし、幸い詰め込んだ知識だけはある。収入を得る手段として家庭教師なんかも考えていたし断る理由もない。
「そう言うことなら、まぁ受けましょう」
「助かるよ」
会話はひと段落したものとして少し冷めた紅茶に口を付ける。
雨のせいもあって少しだけ肌寒い。窓の外は相変わらずの雨模様でどこかぼんやりとした印象を受ける。ふと視線を感じて顔を上げればオスカー様と目が合った。
「今度、この前君が気に入ったと言っていた茶葉を持って来よう」
「楽しみにしているわ」
傍から見たら私たちの関係は妙なものに見えるんでしょうね、別れた後の方が仲が良いんだもの。私だって変に思っているわ。
でも私がオスカー様向けるのは恋情ではない。ただ、親愛かと聞かれると少し違うような気もする。少なくとももう、彼に恋愛感情なんて持ち合わせていない。じゃあ何かと問われると言葉に詰まるけど。
雨の音を聞きながら取り留めのない会話を続ける。あの頃には二人でこんな風に話をするなんて考えられなかった。
中身がない話、という点においては相手を見ていなかったあの頃と同じだけどお互いに向けている感情だけは全く別の物になってしまった。
何度も彼に会いに行った応接室よりもずっと小さいリビングに紅茶の香りが漂う。こういう穏やかな時間は嫌いじゃない。
コツコツと、時計の秒針が囁いている。雨は、まだ止まない。
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