神官は如何にして戦友を相手に奮戦したか
闘技場のパパはちょっと違う。
王都エリニシアは古都である故に、様々な施設が古くから存在する。膨大な数の観客を収容できる巨大な円形闘技場もその一つである。
この巨大なすり鉢状の円形闘技場は大王が民衆の慰撫と、敵兵や邪教徒への処刑の為に建設された。建設から千年以上の年月が経過しても、魔法によって保護された大闘技場は修繕や改良をされて益々その威容と荘厳さを増していた。
その大闘技場に満員の観客は闘士達の戦いに声援や罵声を上げて声を張り上げている。鳴り物や楽器を持ってる者も少なくなく、会場は熱狂の渦が広がっていた。
その観覧席の最前列にある天幕の中。王族と関係者に割り当てられた観覧席の最前列にはエリニシディア国王レックス・ミトランド・エリニシディア三世とその妻である王妃マルヴィナが座っている。そしてマルヴィナの斜め後ろには、前回の徒手格闘の部門の王者の妻、アレクシス・ブラディネス男爵夫人が居心地悪そうに座っていた。
国王の側に侍るのは甲冑に身を包み、槍と大盾を構えた近衛騎士はローランド・ザフナードである。彼は兜こそ被っていないものの、ほぼ完全装備の出で立ちで国王を警護している。天幕の周りにも完全武装の近衛騎士が並んでおり、警護は万全であった。
闘技場の真ん中では打撃系の闘士と組技系の闘士が激しい戦いを繰り広げている。強引に組みに行った闘士が、打撃系の闘士から激しい拳の連打を浴びせられる。咄嗟に両手を眼前に上げて防御をするも、何度か拳を食らった後では防御が間に合わない。顔の前に固めた両手の外側から、円を描くように入ってきた拳に鋭く顎を撃ち抜かれる。その一打で意識を飛ばされた組技系の闘士は力なく闘技場の地面に崩れ落ちた。
「勝負あり!」
「………」
国王であるレックスの表情は無表情で、真剣に勝負を見ている様で実のところはその顔には憂いが滲んでいる。マルヴィナは数日前から夫の様子がおかしい、何か心配事を抱えている…そう見ていた。だが夫が言わないのであれば、それは言うべきことではないのだ。そう信じたマルヴィナは夫に何も問いかけなかった。
勝ち名乗りをする闘士が退場すると、司会の紹介と共に屈強な闘士が登場し、相手の闘士も同じ様に紹介されて登場する。そして睨み合いが始まった。
「アリィ。次の戦いはどちらが勝つと思います?」
マルヴィナがアレクシスに話しかけると、アレクシスは二人の闘士を見ておずおずと口を開く。
「うーん…金髪の闘士は大きいけど、なんか雑な感じ。黒髪の闘士の方はどっしりと安定しているから…黒髪?」
「そうですか」
アレクシスの返答を聞いてマルヴィナが持っていた豪奢な白い扇子を右に傾けた。すると後ろに待機していた年嵩の侍女が耳飾りに手を当ててボソボソと喋る。侍女の言葉は魔法により賭場で待機している、同じ耳飾りを付けた従者の男に伝わる。賭場では魔法の水晶による映像投射でリアルタイムに闘技場の後景が映し出されていた。無論、エリニシディア王国ではこういった賭博は非合法であるが、根絶する事は難しい為に、大小それぞれの賭場が王国各地に存在していた。更にはこの賭場はいわゆる上流階級御用達の賭場であり、あろう事か胴元は大公爵でもある宰相の手の者である。故に衛兵は近寄る事すらない王国で一番安全な賭場となっていた。
従者の男は素早い動きで黒髪の男に賭けると、直後に審判による試合開始の合図が響いた。
「始めぃ!」
大柄な金髪の男は雄叫びと共に駆け出して、黒髪の男に襲いかかる。振り下ろされた拳を黒髪の男は右の手で受け止めると同時に、左手で相手の腰に手を回して組み付く。金髪の男が引き剥がそうと手を伸ばすが、その前に黒髪の男が組み付いた儘、するりと体を回して金髪の男の背に回り込んだ。
「あっ」
アレクシスの口から声が漏れると同時に、背に回っていた黒髪の男は金髪の男を持ち上げて、瞬発力のある反り投げを決めた。不意打ちの投げで地面に後頭部を強打した金髪の男は、四肢を力なく投げ出したまま痙攣しており、起き上がる事が気配がない。
「勝負あり!」
堅実ながらも美しい、後ろ反り投げでの決着であった。黒髪の男が天に拳を突き上げて勝利を勝ち取った事を誇示した。
「今度もアリィの言う通りでしたわ!」
王妃は可憐な顔を喜びで一杯にして扇子を握りしめて喜ぶ。一方、賭場は穴馬の勝利に怒号と絶叫の嵐が吹き荒れた。そんな中でも従者の男は淡々と賭金を受け取って次の試合の連絡に備える。
「………」
型通りの拍手で勝者を称えるレックスは、王妃が小遣いを賭博で増やしている事を知る由もない。どこか憂いのある顔で勝負を見続けている。
闘技場では東洋系の顔をした痩せこけた男が、上背のある拳闘士の懐にするりと入り込み、下からかち上げた肘で顎を撃ち抜く。顎を完璧な拍子で撃ち抜かれた拳闘士は、そのまま地面に崩れ落ちて動かなくなった。
「わぁ!アリィの見る目は本当に確かですわね!」
今度もアレクシスの予想通りの結果になって、小遣いを増やしたマルヴィナは大喜びである。アレクシスの剣術はそれなりに以上であり、戦士を見る目も十分以上の力量がある。
「まぁうん…これぐらいの差があるなら予想は立てられるよ」
一回戦の闘士達はそれぞれの力量差がかなり開いていた為に、アレクシスは一回戦の勝敗を全て的中させていた。
「うふふっ♪アリィってば素晴らしいですわ」
「あぁ、うん。ありがとう?」
一回戦の八試合だけで小遣いを三十倍以上に増やしていたマルヴィナは頬を綻ばせる。組み合わせの闘技者達の力量が一件伯仲した実力に見えるが、本質的には力量差が離れているのも宰相の仕込みである。賭場は荒れたほうが儲かるからだ。そんな事を露ほども知らないアレクシスは何をそんなに褒められているのか良く分かっていないままに曖昧にお礼を返す。
一回戦の全八試合が終わって休憩時間に入り、観客達は席から一旦離れる者も多い。休憩時間になっても熱狂の覚めやらぬ闘技場の特別観覧席に、とんがり帽子と扇情的な衣装に身を包んだ若い女が現れる。レックスの戦友の一人であり、現在は宮廷魔術師のミランディアである。
「あぁ…一回戦が終わってたのね…」
朝が弱いミランディアは丁寧に化粧を施した顔に藪睨みの目を浮かべて現状を把握する。
「ミドラスは?呼ばれて来たんだけど?」
観覧席の空席に優雅に座ると足を組みながら、当然の様に侍女にお茶を頼むミランディア。当初、彼女はこの闘技大会には来る気が無かったが、ミドラスに依頼をされてこの場に来る事にしたのである。ミドラスは仔細は言わなかったが、ぜひとも来て欲しいとの事であった。
「もうすぐ…来るよ」
レックスが真顔でミランディアの疑問に答える。その表情は何かを堪えているかの様にも見える。
「そう…」
レックスの表情を見たミランディアは何かがあると察しはしたが、それ以上を問う事はしなかった。レックスとミドラスで協議したのであれば、おそらくはそれが正しい。二人が何も言わないという事は言う必要がないという事である。その程度にはミランディアは二人の判断を信頼していた。
闘技場の専用席の音楽隊、美と芸術を司る神に仕える神官達による荘厳なる楽曲が奏でられ、戦いの始まりを告げる。
「突然ですがこれより一回戦の追加試合、第九試合を開催いたします!」
歌姫でもあり歌唱神の神官でもある司会の美女が、よく通る美声を張り上げると、会場からざわめきが聞こえ始める。予定に無い試合が告知されたからである。
「前回の優勝者という事で二回戦からのシード戦でプログラムが組まれておりましたが、急遽一回戦の追加試合としてこの戦いが組まれる事が決定いたしました!」
司会がさっと入場門に手を向けると、音楽隊が勇壮な登場曲を奏で始める。
「赤竜の門より出たるは!前回闘技大会の徒手格闘の部門…王者!ブラッド・ブラディネス!」
赤竜の意匠が彫られた門から大柄な戦士が出てくると、観客から歓声があがる。
短く刈り上げられた髪、頬に斜めに走る戦傷、筋肉が隆起し強大に発達した見事な体躯は、数々の戦傷に彩られており、暴力と肉体美が複雑に融合し美々しい程に彼に似合っていた。その威容は見るものに歴戦の戦士である事と同時に、獰猛な肉食獣の様な印象を与える。英雄的な体躯に布の腰巻だけを纏ったブラッドは、ゆっくりと闘技場の中央に歩いていく。
「前回では見事な王者の振る舞いで、対戦者の全ての技と力を受け止めて!跳ね返し叩きのめしました!今回もその圧倒的な実力に陰りがあろうはずもありません!今回もその力量を見せつけてくれる事を期待しましょう!」
司会が声を張り上げると観客がそれに呼応して、闘技場が歓声に包まれる。歓声を上げる者の中には黄色い声を上げる女性達もちらほらいる。
「凄い人気ですわね」
「うん…そうみたい…だ…ね」
ブラッドに黄色い声援を送る女性達の声を、引きつった笑顔で受け止めるアレクシス。
「ブラッドがヒゲモジャの時は見向きもしなかったくせに…」
アレクシスが小さく不満を漏らす。
前回の優勝時は髪の毛ぼうぼうの髭もじゃもじゃで、極めて無骨で荒々しい蛮族の闘士が、挑戦してきた闘士を全員散々に叩きのめして、勝ち進んだ形である。美男子の顔も容赦なくぶん殴るブラッドは女性受けがあからさまに悪かったのである。だが身嗜みを整えたブラッドは傍目には凛々しい戦士と映る様になった。アレクシスはそれが少々…いやかなり気に入らないのである。
「ブラディネス婦人、手を振ってあげたら?」
怒りで顔を引き攣らせるアレクシスに後ろからミランディアが声をかけた。宮廷魔術師ミランディアは気遣いの出来る淑女であった。
「そうですね…」
指摘されて恥ずかしそうにブラッドに向かって手を振るアレクシス。すると直ぐにブラッドと視線が合う。ブラッドは視線を真っ直ぐにアレクシスに向けたまま、力強く拳を高く掲げる。その仕草に観客からも歓声があがる。
「あはは…恥ずかしいね、これ」
「深い夫婦の愛を感じますわ!」
照れるアレクシスと扇子を握って盛り上がるマルヴィナ。その様子を見ていたミランディアは興味深げに恥じらうアレクシスと闘技場のブラッドを交互に見やって小さく口を開く。
「変わったわね…アイツ」
女宮廷魔術師は小さくつぶやきながら、彫刻が施された豪奢な椅子の手摺の上で、赤い色が丁寧に塗られた麗しい指先を、手摺に軽く打ち付ける。興味、苛立ち、称賛、後悔、その動作に様々な感情が含まれている事を知っているのは本人だけ…いや本人も自覚が無いのかも知れない。
「聖騎士の門より出たるは!我らが『救国王』に付き従った英雄にして、戦の神の大神官!」
「えっ」
ミランディアの目が驚愕に見開かれる。司会の呼びかけで誰が出てくるかは、この会場の多く者が推測は付いただろう。だが、本当に彼が出てくる事を信じられなかった者は多い。ミランディアも冗談か、聞き間違いかと思ってしまう程に。
「宮廷神官ミドラス!」
門から出てきたミドラスは、ブラッドより高い身長と全身にみっしりと付いた野太く分厚い筋肉を持つ体躯を顕にしていた。ゆったりとしたいつもの神官服の下には、巨木の様な屈強極まる戦士の肉体が隠されていたのである。その戦士の肉体を持った大神官は悠然と歩みを進めながら闘技場の中央に向かう。
「知ってたのね?それで万が一の際に魔法に対する備えとして私を呼んだのね?」
「あぁ…そうだ」
レックスの回答に渋面になるミランディア。ミドラスと種類は違うものの、魔法攻撃への防御や解呪の力量はミドラスに引けを取らない。その為にミドラスはいつもは闘技大会などに来ないミランディアを呼びつけていた。必ず来て欲しいと強く念を押されたので約束してしまったのだ。ミランディアは動揺をしていない近衛騎士の様子を目ざとく見つけて彼に矛先を向ける。
「ローランドも知ってたのね?なんで止めなかったの?」
「国王陛下と宮廷神官の決めたことに、一介の近衛騎士が口を出す事なんざ出来る訳ねぇだろ」
友人にして英雄としての仲間でもあり、更には側近中の側近たる近衛騎士ローランドの素っ気ない回答。ミランディアは顔を歪ませながら、先程よりも大きな音を立てて椅子の手摺に指を打ち付ける。
「後で覚えてなさい」
心底トサカにキている時の仕草をしながらミランディアは口を閉じた。その様子にレックスとローランドは緊張を強くする。
夫の緊張の表情と憤懣遣る方無い様子のミランディアを見てマルヴィナがレックスに問いかけた。
「ミランディア様は何故お怒りになられてますの?」
「そうだな…。立派な猟犬を黄金の大獅子の檻に入れるとどうなると思う?」
「そんなの猟犬が食べられてしまいますわ」
猟犬は狩りを補佐する役目の家畜である、本分は狩猟であって戦いではない。確かに獲物を追い立てる足も、仕留める牙もある。だが黄金の大獅子に殺し合いで勝てるはずがない。ミドラスとブラッドでは、同じ戦場、同じ相手と戦闘していたとしても、戦う場所と役割が全く異なる。猟犬と大獅子を比べる事が無意味であると同じ様に、最前線で奮闘する戦士と後方で味方を防護する神官を、戦いで比べる事自体が無意味である
「そう…今がそんな状況なんだ。ミドラスはこの国で屈指の神官だけど、戦士ではないんだ。確かに戦う能力は他の神々の神官よりは遥かに卓越しているけどね…」
「では…無謀な事を止めなかった事をミランディア様はお怒りだと?」
マルヴィナが視線を向けると、ミランディアは肩を竦めてそれに応える。
「だが…ミドラスも負ける気はねぇみたいだぞ」
女二人の会話に割り込むローランドの声は、どこか期待する様にはずんだ声色だった。三人が闘技場の中央に歩みを進めるミドラスの顔を見る。
その顔には挑戦者としての闘志、戦神の神官としての誇り、そして勝利への渇望が満ち溢れんばかりであり、決して敗北を受け入れる者の顔ではなかった。
「あんな顔をしているミドラスは珍しい…しかも仲間相手にあんな顔をしているのは見たことがない」
「ブラッドとの戦いに勝機を見出した…どんな戦略なのかしら」
「ミドラスが戦う姿は初めて見るからな、何が飛び出すやら楽しみだ」
三者三様の言葉だったが、三人に共通しているのはひょっとするのではないかという期待が含まれていた事だった。
「アリィはブラディネス卿と戦った事があったはず…どんな感じでしたの?」
「あれは戦ったとは言えないけど…あえて表現するとしたら『二本の戦斧を持った死神』…そんな感じかな?」
アレクシスがブラッドと戦った決闘では、終始ブラッドの猛攻に耐えるだけの一方的な戦いだった。そんな必死の防御も数秒と持たずに叩き伏せられた、その時の暴威を思い出してアレクシスは最愛の夫を表現する。
「実に的確な表現だね」
「流石はブラディネス卿の奥方だ、よく見てる。アイツはそんな理不尽なのさ」
「その死神に首輪を付けてくれたブラディネス夫人には感謝しか無いわね」
「そ、それはどうも…。あ、ブラッドがんばれー」
闘技場の中央で向かい合う二人。
「ミドラス…お前と戦えるとは思っていなかった。思いも寄らない幸運とはこのことか」
「………」
笑顔で朗らかにミドラスに語りかけるブラッドとは対照的に、ミドラスは真剣な表情を崩さない。まるでブラッドを敵の様に見つめて視線を逸らさない。その闘志を受けてブラッドも表情を引き締める。
闘技場の中央で睨み合う二人を見て司会が声を張り上げる。
「この特別な追加試合に解説役として近衛騎士団長のサリックス卿をお迎えしております!」
「徒手格闘技は専門外ですが、近衛騎士団でも格闘技は修めております。微力ながらこの試合の解説を務めさせて頂きます」
豊かな髭の苦み走った壮年の紳士が、若い歌唱神の神官でもある司会の隣で自己紹介をする。彼こそが近衛騎士団長であるユイス・サリックスその人である。ローランドはこのサリックスに格闘戦で勝った事がない。彼は剣術のみならず格闘戦でも猛者であり、解説には適役と言えた。
「サリックス卿はこの戦いをどう見ま……おぉっと!!ミドラス選手!何やら右手を天に突き上げている!」
右手を真っ直ぐ上げて天に向けて指を揃えて掌を相手に見せる…そんな独特のポーズを取ったミドラスは真っ直ぐにブラッドを見つめた。
「あれは…槍の印。確かに二人とも戦神の使徒と、戦神を信仰する者ですが、まさか闘技大会で見る事になるとは思いませんでした」
サリックスが右手で豊かな髭を抑えて驚愕する。
「槍の印とは何でしょうか!」
「戦神を信仰する者達で決闘をする際に使われるサインです。戦神の武器である槍を模しておりまして『命を賭して槍を交えたい』そういう意図のサインです。そして、一切の禁じ手なし、例え相手を死に至らしめる行為であろうとも解禁される…何でもありの合意の為のサインでもあります。ですが…」
「ですが?」
「相手が受けなければ成立しないのです。ですが今回の相手はブラディネス卿となれば……予想通りですね」
サリックスの視線の先にはミドラスのスピアーサインを見て、自らも右手を槍の穂先の形にして天に突き上げるブラッドがいた。その様子にサリックスは苦笑しながら言及する。
「なんてことだぁーーー!!!この闘技大会で何でもありが成立してしまったぁー!!!」
司会の声に合わせて、観客からも興奮の大歓声があがる。一方観覧席のレックスは眉目秀麗な容貌を歪ませて、顔に右手を当てて呻いていた。
「やられた……」
「どうせ、この戦いを止める事はしないと約束させられたんでしょ」
焦燥の声を上げるレックスを氷の声で追撃するミランディア。
「まさかここまでするとは思わなかったんだ…」
「どういう事ですの?」
「つまりはですね…この戦いは本気も本気。お互いがド本気の殺し合いになった。そういう事ですよ」
ローランドがため息をしながら肩を竦めた後にゆっくりと腕組みをする。しっかりと組まれた両手の鉄甲が擦れあって金属音を立てる。自らの介入を戒める様な、苛立ちすら見える仕草をする彼の瞳は、闘技場の二人を食い入る様に見つめている。
「そう…ですか」
闘技場の二人に目を戻したその時、マルヴィナに電流が走る。
(ここでどちらかに一点張りすると…)
負ければ今日一日を使って、種銭から築き上げてきた資産が水の泡と消え、勝てば王族のへそくりとしても大き過ぎる金額が手元に残る。どちらにしても夫にして国王でもあるレックスにバレれば怒られる事は必定である。
(勝てばレックス様のお手伝いが出来るぐらいの金額が残りますわね。ですが…その上でおそらく見咎められてお叱りを受ける。負ければこれまでの勝利が全て水の泡と消えた上で、きついお叱りを受ける…)
ここに来てマルヴィナが血が迸り始めた。マルヴィナの父である宰相は、王族としては傍流の血筋の穴馬に一点張りの大博打を打つような生粋の博徒である。さらにはそんな無謀な賭けに勝ちつづけて国を安寧に導いた。加えて非合法な上流階級向けの賭場の胴元の元締めでもある。その末娘であるマルヴィナもまた同じ様に分の悪い掛けに惹かれる血が流れている。
「ふふ…ふふふ…」
妖精の姫君ともいうべき美麗極まる顔を扇子で隠しながら、ぷくっと膨らんだ鼻の穴で荒々しく呼吸を整えた後に、ゆっくりと扇子を傾けて動かした。その角度と動きの意図する所に、後ろに仕えていた侍女はビクリと肩を震わせた。それからややあって耳飾りに触って賭場の従者の指示を出した。
(あぁ…レックス様に叱られちゃう…わたくし叱られてしまいますわ…)
扇子で真っ赤になった顔と荒い呼吸を隠しながら、王妃の椅子の上で震えるマルヴィナは達してはイケない領域に近づきつつあった。そんなマルヴィナを他所にアレクシスが不安げに、闘技場の中央の夫の様子を見つめ続ける。
「ブラッド…大丈夫だよね?」
闘技場の中央では二人の闘士が向かい合い、ミドラスの方から口を開いた。
「ブラッド…貴方なら受けてくれると思っていました」
「この挑戦にどんな意図があるかは分からん。だがミドラス…お前は軽々しくこの様な真似をする男ではない。ならば受けて立つのが戦士の礼儀だ」
「ありがとうございます」
やや表情を柔らかくしたミドラスが感謝を述べる。
「礼には及ばん。俺もお前と全力で戦える事が嬉しくて堪らん!」
ブラッドもそれに快く返事をした。
そうやって闘技場の中央で語り合う二人のもとへ、近づいてくる戦神の神官服に身を包んだ大柄な人物がいた。細かく波打った赤い髪を肩まで伸ばし、顔には年輪の如く深い皺が刻まれた老年の女である。神官服から僅かに出た手と足は重厚な鍛錬を伺える太さを備えており、その体の大きさも屈強な戦士に見紛う程の厚さを備えている。
彼女こそがエリニシディア王国、戦神の大神殿の最高位神官の『竜拳』マーサである。彼女は『竜拳』の二つ名に相応しい太く分厚い両手を広げて語りかけ始める。
「戦いはけっして無くならない。夜に語り明かした二人が、翌朝に殴り合うように。白昼に殺し合った二人が、月夜の褥で愛し合うように。戦いは人類が存続する限りけっして無くならない」
ある者にとっては正論、ある者にとっては暴論ともとれる様な極端な演説、或いは戦神の司祭による有り難い説法は、よく響く迫力のある美声と威風堂々たる威容によって観衆の心を掴んでいく。
「逆の意見もあるだろう。人類は愛しあう生物…結構。人類は紡ぎあう生物…結構。人類は許しあう生物…大いに結構!」
反論意見も当然である事を承知してる事、そしてそれも確かな異論である事すら認めていく。
「だが私は声を大にして言いたい!人類は戦う生き物だと!人類は殺し合う生き物だと!そして私はそれを心から尊ぶ!戦の神の神官として!一人の戦士として!人類が戦い!殺し合う事を心から尊崇する!戦いが強き事を称賛する!」
美声が響き渡り、観衆からは同意の声や称賛の声が大きくなっていく。半裸の男共が肉体言語を使って殴り合う、決してお上品ではない闘技大会、加えて明日の本番の前座であろう大会に金を払って来るような観衆である。賛同する唱和はどんどん大きくなっていく。
「なぜなら闘争が人間の魂から失われた事は!過去に一日たりとも無く!これからも一日たりとも無いからだ!」
その一言に会場が怒号に似た賛同に包まれる。
「あのババァ…ぽっと出で完全に場を支配しやがった」
知己の神官で、幾度も蘇生の世話になった事もあるマーサの登場。ローランドが呻くようにつぶやき、レックスが顔から表情を消した。こうなれば国王の威厳を持っても止められるか分からない。止めたとしても観衆からも、ミドラスとブラッド、そしてマーサからの反感を買うことは必死である。もはや完全に退路は断たれた。
「そして今日この良き日に!二人の友誼深き戦士がお互いの全てを使って殺し合う!なんと尊き事か!なんと素晴らしき事か!戦神の恩寵あれ!神々の御照覧あれ!」
その掛け声と共に、真っ昼間だというのに会場全体の雰囲気が明るくなり、天から光が降り注ぐように相対する二人を照らし出す。マーサは惜しげもなく最高位の信仰呪文を使用し、戦の神もその願いに応えて神威を顕現させていた。もはや神々すらこの戦いに介入する事は困難であった。
「この場に居合わせる幸運を得た人々よ!その目に焼き付けるが良い!二人の戦士の死闘を!この二人の戦いを末代まで語り継ぐがいい!」
観衆の多くが拳を突き立てて、その声に応じる。会場は満ち溢れんばかりの怒号と歓喜の声に包まれ、観客の興奮は危ういほどに高まってしまった。
「最後に…戦士達よ!お前達がどんな死に様になったとしても、たとえ双方が完膚なきまでに砕け散り、命が粉々になったとしても、私が全身全霊を賭して必ず冥府の底から引きずり戻してくれる!次の大いなる戦いの為に!」
『竜拳』マーサは戦士の二人と観客に彼らがどんな状態であろうとも、蘇らせる事を約束する。
「故に!全ての力!全ての技!全ての魂を振り絞り!存分に殺し合え!準備は良いか!!!」
マーサは目を見開き、自らの歓喜と興奮を乗せて二人の戦士に準備を問うた。
「応とも!」
ブラッドがいつになく興奮した口調で応じて、基本的な拳闘の構えで準備をする。
「出来ています」
ミドラスもまた静かに、そして確かな闘志が込められた口調で応じて、腰を低くして投げを主体とする構えで準備を終えた。
「戦の神の名の下に!全ての力を解禁せよ!!始めぇえええええいぃ!!!」
もはや絶叫となった最高位神官の号令と共に、エリニシディア最強の戦士であるブラッドと、その戦友であるミドラス大神官の戦いが始まった。
「おおぉ!」
(奇襲ッ!)
掛け声と同時にミドラスがブラッドに向かって駆け出した。最初は睨み合いから始まる…そう思っていたブラッドは完全に不意を突かれた形になった。ミドラスは頭を低くして、両手を両脇で構えて駆け寄る突進による諸手刈りでブラッドに襲いかかる。だがブラッドも長き戦闘で突進による諸手刈りの対処法も身についている。ブラッドは右拳を開いて突進してくるミドラスの目に親指を突き入れ、そのまま目の周りの骨を掴んで頭蓋骨を固定し、左手で肩か背中を抑えて梃子の原理でミドラスの頚椎をへし折る…そんな想定で待ち構える。
「恩寵あれ!」
ミドラスの目にブラッドの親指が吸い込まれる直前、ミドラスの口から簡略詠唱の言葉が放たれる。ミドラスの両手両足が鈍い鉛色の金属の様な色合いに変化すると同時に、ミドラスの身体全体が伸び上がる。足を刈るために開いていた右手が硬く握り絞められ、鋼鉄の拳となってブラッドの顎を下から斜め上に打ち抜いた。
「がっ!」
手足を金属の硬度に変化させ、魔法の攻撃力を付与する鋼鉄の拳の呪文。ミドラス程の術者となればその硬度は、魔法の鋼を凌駕する。そんな規格外の硬度を付与された渾身の右拳で、顎を打ち抜かれたブラッドは困惑と共に更なる追撃を受ける。ブラッドのカチ上げられた顎、その真下にある喉を狙ってミドラスの左の掌底が叩きつけられる。
(やられたっ!)
喉を掌で撃ち潰されたブラッドは自ら派手に吹っ飛ぶ事で打撃をいなし、受け身を取りながら、ミドラスの戦略に完全にしてやられた事を自覚する。
一段目は最初は睨み合いだろうという想定を覆され、二段目は体躯から見て投げ技主体の格闘技との想定を覆され、三段目にはここまでの巧妙な打撃技が可能な事を隠していた事実、最後に簡略詠唱による自己強化呪文の発動。最初から最後まで完全にブラッドの想定を超えていた。
「二人とも怖いことをしますね…」
解説席のサリックスが二人の攻防を見抜いて独りごちる。
「どういうことでしょうか!」
その独り言を聞き逃さずに格闘技は門外漢である司会がサリックに問いかける。
「ブラッド卿…ブラッド選手も、ミドラス選手も初手から殺し技で相対したという事です。ブラッド選手は目を狙って、首を折る形でした。ミドラス選手はフェイントからの喉の破壊。なんとも…まことに全ての力を解禁です」
容赦なく目突きからの首を折る判断と、容赦なく喉を潰して呼吸を止める一撃を見舞う二人にサリックスは戦慄を覚えながら言及する。
「この二人!最初から最高潮です!一瞬たりとも見逃せない!瞬き厳禁だぁーーー!!!」
(躱されましたか…ですが畳み掛ける!)
喉を潰した程度ではブラッドが仕留められるはずも無いが、呼吸困難にした上で持久戦に持ち込むことができれば勝ちが見えてくる。だが掌から伝わった感覚は軽く、受け身を取られた事は明白だった。完全に計略通りになったにも関わらず、ブラッドの超人的なまでの反射神経で成立しなかったのである。
「恩寵あれ!」
簡略詠唱により次なる自己強化呪文が発動。信仰の砦により、ミドラスの筋肉が膨張して張り詰めていく。全身に神威が満ち、ミドラスに暴力的なまでの膂力と反応速度が与えられる。ミドラスはその加速を活かして体勢を立て直したばかりのブラッドに襲いかかった。
「ダッシャ!!」
先程より速さと重さを増した渾身の右拳がブラッドの顔めがけて奔り、先程と同じ様にブラッドの顔面が撃ち抜かれるかと思われた瞬間。肉と肉がぶつかる激しい打突音と共にミドラスの体が派手に吹き飛ぶ。
「ごはっ!!」
ミドラスの拳がブラッドの顔面に突き刺さるよりも速く、ブラッドの蹴りがミドラスの鳩尾目掛けて奔っていたのである。自らの勢いとブラッドの剛力の蹴りが加えられた一撃は鳩尾から僅かにズレて左胸に突き刺って骨が折れる嫌な音を立てた。回転しながら地面に叩きつけられたミドラスは直ぐに体勢を立て直す。
(恩寵が無ければ終わっていた…)
骨折の痛みと戦慄でミドラスの全身から汗が吹き出る。ミドラスの速度がブラッドの想定を上回った故に、蹴りは鳩尾からズレて左胸に突き刺さったのである。これが鳩尾であったなら肋骨が犠牲になる事もなく、蹴りの威力が心臓を直撃して全てが終わっていただろう。
「くははっ!」
対するブラッドは笑っていた。完全に殺す気で使った技を二回とも完全に防がれた。それも他ならぬ古い戦友たるミドラスが防いだのである。どうしてそんな実力を隠していたか、どんな戦略を持って防いだのか、これからどんな力量を見せてくれるのか。そんな期待と喜びがブラッドの胸中に満ち、自然と顔は綻んで肉食獣の笑顔になる。
「ミドラス!」
歓喜のままに身近な友の名前を叫ぶブラッド、その友の知らない面にブラッドは興奮を隠さない。
「恩寵あれ!」
その猛獣の叫びに応じる様にミドラスが簡略詠唱肋骨の傷を治しながら再び突撃する。
ミドラスが振り上げた三度目の右拳…と見せかけた、右の中段蹴りはブラッドの腹部を守るように上げられた左膝で受け止められた。それと同時にブラッドの左膝は素早く下に落ちて、膝は跳躍する為の動きに変化する。直後、ブラッドの右の膝が下からミドラスの顎を撃ち抜く。飛び上がっての膝蹴りである。
「グハッ!」
顎を膝にかちあげられ、天を向いたミドラスの眉間に、飛び跳ねたブラッドの左肘が打ち下ろされる。だが間一髪、ミドラスの硬質化した鉄の右腕に阻まれた。
「ゼェッ!」
ミドラスの押し出すような拳がブラッドの胸に突き刺さり、ミドラスの剛力と二人の体重差、加えてブラッドの受け身により二人の距離が開いた。
「そんな膝蹴りと肘打ちの連係は初めて見ました。仲間に隠し事ですか?」
「戦斧を握った状態でも使える様に磨いていた…防がれるとは思っていなかったがな。それに隠し事はお互い様だろうが」
口の端から血を流して隠し事を非難するミドラスに、笑ってお互い様だと返すブラッド。二人はじりじりと間合いを詰めながら攻撃の機会を伺い始める。なにせお互いがド本気で殺しに来ているのが、腹が冷えるほどに理解したが故に、次の一手が致命傷に成りかねない。お互いにどこまでも必殺の一手を伺っていた。
「チッ……」
観覧席のローランドが舌打ちを漏らす。その顔には悔しさと興奮とが綯い交ぜになって現れている。
「………」
国王たるレックスも気がつけば二人の攻防に夢中になっている。国王と近衛騎士、その二人の本質にはどうしようもない程に戦士である事が息づいている。この様な戦いを魅せられてしまっては、熱くならない訳がない。
一方ミランディアと言えば鮮やかな赤に塗られた爪を豪奢な椅子の手摺に打ちつけ続けており、激怒の頂点であった。
(これだから筋肉馬鹿共は…あんなのに感化されるミドラスもミドラスよ)
この場合の筋肉馬鹿共とは、ブラッドを筆頭としてローランド、レックス、マーサであり、ミランディアがこの中にミドラスを入れるかどうかはこれからの対応次第であった。
「戦況はどちらが優勢ですの?」
頬を赤くしたマルヴィナがアレクシスに問いかける。
「うーん……互角の戦いに見えるけど…ブラッドがかなり優勢。ミドラス神官はギリギリかな?」
先手先手を全てミドラスが取っている様に見えるが、ブラッドはそれを全て受け止める、やり過ごしている。だがミドラスはブラッドの致命の手を辛うじて躱してる…アレクシスはそう見立てて率直に話した。またアレクシスの見立てはおおよそ正しかった。
「そうなんですのね…ふふふ」
扇子で顔を隠して恐怖と興奮に震える王妃を他所に、アレクシスは闘技場の上で肉食獣と化した夫を見つめ続ける。
(格好良い……)
可能ならば全身全霊で
「あの人は私の夫です!私の夫なんです!私が妻なんですーー!!!」とか
「きゃーーー!!頑張れーブラッドーーーー!!!!」などと
叫び出したい程に、アレクシスはブラッドの勇姿に心を奪われていた。貴族たる身で、更には招待されている観覧席からそんな真似が出来るはずもなく、アレクシスは夫の勇姿を見て体をもぞもぞさせながら、心をときめかせるしかなかった。
観覧席の人々も熱を帯びるなか闘技場の二人は技を繰り広げていく。
「恩寵あれ!」
何度目かの簡略詠唱と同時にミドラスの全身に光り輝く空気が纏わりつく。目に見えてミドラスの動きが軽快になり、小刻みで軽やかな歩法を踏みながらブラッドの周りを回り始めた。勝利への道という付与された者の機動性を高める信仰呪文の効果もあり、その動きは小柄で身軽な選手の様に流麗である。
その動きに翻弄されまいとブラッドは先手で封じようと手打ちの拳を持って止めようとする。
「シャッ!」
霞む程の速さで放った拳はミドラスを捕らえることなく空を切った。歩法の最中に大きくしゃがみ込んだミドラスは、しゃがんだ反動を利用して跳躍。空中で回転しながら、鋼鉄の強度になった右の足の踵をブラッドの頭を目掛けて打ち下ろす。ブラッドは残っていた右拳で辛うじてその踵を防ぐが、ミドラスの体重と付与魔法によって強化された一撃を止めきる事は出来ず、脳天に踵が叩きつけられる。更には空中で軽やかに身を捩ったミドラスに、左足で貫く様な追撃の蹴りを胸に打ち込まれた。
「がはっ!」
胸への衝撃により肺から空気を漏らし、足を縺れさせて後ろに数歩下がってしまうブラッド。ミドラスはその隙を逃さず着地と同時に軽やかな歩法を使ってブラッドを追い立てる。
「ダッシャァ!」
未だ体勢を立て直していないブラッドに対して、踏み込みから顎を狙った右の鉤突きが襲いかかる。
ブラッドは崩れかけた体勢を使って、敢えて仰向けに倒れ込む事を選択し、素早く仰向けに倒れる。ブラッドの鼻先をミドラスの鉤突きが通り過ぎるのと同時に、左右の手を広げて地面を抑えるようにして己の体を支えながら、地面に倒れた姿勢から、鋭い前蹴りをミドラスの腹部に叩き込んだ。
「ぐっ!」
地面に転ぶブラッドと、前蹴りで飛ばされるミドラスの双方が、距離を離して地面に転がった。転んだ一人は野獣の様に転がりながら体勢を立て直し、一人は巨体を華麗に旋回させて跳躍して体勢を立て直した。
「なんと!なんと!なんとぉ!両雄は一歩も譲らない!殴り込めば殴り返し!蹴り込めば蹴り返す!これぞ魅せる格闘技の真骨頂だぁああーー!!!!」
「ブラッド選手はともかく…ミドラス選手が此処までの技で魅せるとは想像だにしませんでした」
司会と解説が勝手に言っているが、ブラッドとミドラスはド本気で殺し合いをしているだけである。お互いが致命の一撃を入れる隙を作る為に、必死になって削り合いをした結果として、偶然にも魅せる戦いが成立してしまっているに過ぎない。加えてマーサが使った最高位呪文の効果により、お互い引き立て合うように戦いが導かれていた。
「ブラッド…あなたは本当に足癖が悪い」
「ははっ…親父にも同じ事を言われたな」
ギラギラと興奮と恐怖で血走り光り輝く目でお互いを睨めつけながら二人は軽口を叩く。今、追い詰められているのはミドラスである。度重なる神聖呪文による自己強化は、ミドラス一人で準備出来る殆ど全ての付与呪文が既に使われている。現在のミドラスの膂力は並の巨人を超え、反射速度は猫科の猛獣を凌駕するだろう。攻撃への耐久性は古竜の鱗に匹敵する程になっている。
(ブラッド…貴方はどこまで強いのですか……)
それでも尚、ブラッドの猛攻に削られ、準備していた回復呪文を高速詠唱して現状なんとか延命を図っている。しかも相手のブラッドは強化したミドラスの猛攻を受けているのにも関わらず、その身体能力に陰りは微塵も感じられない。まるで巨大な山を相手にしている様で、殴ろうが蹴ろうがまるで効いている様には見えない。
(我々の敵は…ずっとこんな恐ろしいものを相手にしていたのですね)
ミドラスの口に苦笑が浮かぶ。自分が敵にこんな絶望的な戦いを強いていたのだと思うと『誰かに巡ったものは自分にも巡ってくる』そんな諺が正しいと確信してしまう。だが同じ様にどんな相手だろうと、勝機は必ずあると確信してもいる。
(ミドラス…なんたる男か)
ブラッドもまた戦慄の最中であった。
既に彼の肌感覚では成竜換算で約三頭ほどを屠る程には殴打している。だがミドラスは彼が殴りつける度に、傷を癒やし神聖呪文で自分を強化し、より強靭になって立ち上がり、より猛烈に殴り返してくる。防ぎ切ろうにも、ブラッドの知らない技を駆使して攻撃して来るために守り切ることも至難。加えてブラッドにはミドラスの呪文の残りがどれほどなのか、余力がどれほど残っているかも想像がつかない。更に強くなっていく可能性すら感じている。また悪い事にミドラスの猛攻で全身に打撲、筋肉断裂、亀裂骨折が発生しており、それら全てが悲鳴を上げて痛みと熱でブラッドを責め苛んでいる。そんな自分とは逆に眼の前の男は…圧倒的な神の威光という暴力を身に纏って、顔に凶悪な笑みを浮かべてギラギラと光る両の瞳でこちらを見つめている。ブラッドはミドラスが心の底から恐ろしく、心の底からの称賛を禁じ得ない。
(神の戦士とはお前のような男を言うのだろう…)
故にブラッドは奥の手を出す事に決める。
基本的な拳闘の構えからの変化は緩やかだった。顔の前に立てられていた両拳は開いて肩幅に揃えられ、拳が頭の高さと同じ位置に置かれた。やや狭かった足は両手と同じ様に肩幅に開かれる。膝は少し曲がり、頭もやや前傾姿勢になった。それだけの変化だった。
だが、心得のある者が見ればブラッドの背中と両腕が膨張して大きくなっている事に気づくだろう。さらに感性の鋭い者であれば、握られた両の拳に一対の戦斧を持って構えている様に映るかも知れない。無論、ブラッドの手の左右どちらにも戦斧は握られていはいない、そう見てしまうほどの完成度だった。
「ありゃ不味いな…ブラッドが本気になった」
ブラッドの構えを見たローランドが顔を顰めて呟いた。
頑張れお父さん。




