64. 山脈の北側
「……西に行こう」
動くか、留まるか。
わずかな時間迷った後に琢郎が選んだのは、今すぐ西に動いてそこから奴らに会わないよう大回りで棲家へ戻るというものだった。
冒険者たちが踏み入ってきたのがここだけならまだいいが、もし棲家のある山の方にも別の冒険者が入り込んでいたら。
棲家が発見されるかもしれない。その時は、リリィも見つけられるだろう。彼女が保護されて、町へ連れ帰られるようなことにでもなれば。
そこに思い至ってしまうと、もうじっとしてなどいられなかった。
唯一幸いだったことは、西というのはさっき琢郎が通ってきた道を戻る方向だったことだ。
地形もわかっているし、そこを縄張りにしていた魔物もすでに始末してある。引き返す琢郎の速さはかなりのものだった。
「ここら辺からでいいか」
食材探索のスタート地点まで戻ると、次に進路を北に変える。
ここまで、他の人間の姿や気配はなかった。さっきの奴らがどこかで西に向きを変えていたとしても、この近くまで来るにはまだ時間があるはずだ。
山の斜面を上り、山頂近くの樹が少なくなった場所まで戻って来た。棲家からの行きはこの障害物が少ない辺りを加速して来たが、帰りに同じコースを通るとまたさっきの奴らとすれ違う危険がある。
琢郎は足を止めることなく、山頂を越えてさらに北へ向かった。
トラオンやテルマの町の北を東西に広がる山脈の向こう側は、人跡未踏の魔物の世界だ。冒険者たちもそこまでは進出して来ないだろう。
もっとも、そこは琢郎にとっても未知の領域だ。あまり深く踏み入っては、森も鬱蒼と茂っているだけに迷い込んでしまいかねない。
「ギリギリ、ここまでだったら大丈夫だろう。 ……<風加速>」
ゆえに、山を越えたすぐの場所。境界の向こう側と言うよりも、ほぼ境界線上。山の斜面をすぐ右側に置いて、琢郎は棲家のある東に向かって進む。
これなら、迷うこともないし、こちら側に生息する未知の魔物との接触も避けられる。そういう算段だったが、甘かった。
「……うわッ!」
突然、前方にあった岩が動いた。
驚き慌てた琢郎が、加速の風のベクトルを逆にして急停止させる。その結果、
ブォンッ
巨大な岩の塊が、鼻先を掠めんばかりの近さを凄まじい勢いで通り過ぎた。
いや。岩の塊などではない。腕……ハサミか?
目の前にいたのは、甲殻を茶色い岩のように擬態させた巨大なサソリもといザリガニ? 形状はそっちに近いが、サイズが2メートルを超えている。おそらく初めて見る魔物だろう。
「<風刃>!」
さらに退いて距離をとりつつ、琢郎は魔物を倒すべく魔法を放つ。
「……は? ウソだろ?」
だが、甲殻が岩に似ているのは見た目だけではなかったらしい。薄く削れたような跡をつけただけで、風の刃は敵の身体を斬り裂くことはできなかった。
「……ならッ! <地槍>!」
この手の敵は、普段は隠れて攻撃できない腹側に柔らかい弱点があるのが相場だ。今度は下からの石の槍で突き上げた。
そう。串刺しにした、ではなく、突き上げた。
表の甲殻よりは柔らかいという見立て自体は間違っておらず、裏返った時に腹に凹みができているのが見て取れたが、<地槍>でも貫くことまではできなかった。
一度はひっくり返った巨大ザリガニだったが、大きなハサミを用いてすぐに身を起こしてしまう。
大きなダメージは与えられずとも、怒りを買うには十分だったようだ。起き上がったザリガニはハサミを振り上げ、琢郎に襲いかかってくる。
「ス、<石壁>!」
攻撃魔法がたて続けに通じなかったことによる動揺は、小さなものではなかった。だが、身を守ることなら。
魔力を注いで、過去最大級の厚みと高さを持つ石の壁を築き上げる。現時点で一度にできる限界まで魔力を注ぎ込んだ結果、普段の倍以上の壁となっていた。
ガツッ!
ハサミが激しく壁を叩くが、さすがにこの厚さの壁を破ることはできなかったようだ。
「<石壁>! <石壁>! <石壁>!!」
正面は壁に塞がれていても、少し横にずれれば壁のないところからまだ迫ることはできる。横から抜けられてしまう前に、琢郎は同じ規模の壁を連続して生み出し、ザリガニの四方を壁で囲んだ。
一度では無理でも、何度か攻撃されればこの壁も破られてしまう可能性はある。それでも、とりあえず今のところは敵の動きを封じることに成功した。
「……よし!」
ザリガニを封じ込めた琢郎は、その次に――逃げ出した。
無理に倒そうとする必要など、どこにもない。今の琢郎の目的は、急ぎ棲家へ戻ることだ。
ザリガニが追うことができない内に、琢郎は再加速して壁の横を通り過ぎる。
その後も何度か見知らぬ魔物に接近しそうになったが、すでにその危険性を認識している琢郎は戦闘に陥る前に徹底してそれを避けた。
ひたすらに東に進み、右手がトラオン側の山に変わると斜面を上がって見知った場所へ急ぐ。
「あ。おかえりなさい。いい場所は見つかりましたか?」
どうにか棲家にまで辿り着くと、幸いそこには何も変わった様子はなく、リリィが微笑んで出迎えの言葉をかけてくれる。
「……ふうぅぅ~~」
無事帰り着けたことと、棲家やリリィに何もなかったこと。
2つの安堵に琢郎は、「ただいま」と返すことも忘れて大きく息を吐いたのだった。
久しぶりの強敵出現。
無理に戦わないで逃げるところも、前(巣襲撃時)と同じです。




