~結~
……不安で押しつぶされそうになりながらも、私は足を踏み出す。
もう案内してくれる者はいない。
それでも、この先にあるものはわかっているような気がしていた。
炎が揺らめきながら、私の影を作る。
照らされた私の体は、想像以上に傷つき、汚れていて、浴衣に描かれている赤い花も、もう識別できなくなっていた。
けれど、そのことは私の心に陰を落とさない。
平らな道、草原の参道を抜けて、私はそこにたどり着く。
照らされた人影と、小さな祠。
長い道のりを隔てて、私はあなたにたどり着いた。
「つきおと……」
赤く照らされた面が、小さく縦に振られた。
ついさっきまで一緒にいたというのに、何年も隔てて邂逅するような気持ちになる。
「待っていたよ」
狐の面を被った彼が、私の名を紡ぎ出す。
私は吸い込まれるような気持ちで、彼の首筋を眺めている。
甚平から覗く白い肌に、私は言いようのない気持ちを抱いていた。
「月音!!」
絞り出すように声を上げ、私は彼のもとに走る。
「私も……ずっと待っていた」
彼の背中に腕を回し、私は喘ぐように声を出す。
ひんやりと冷たい彼の体の感触に、熱くなった私の頭が冷えていく。
涙を流しながら、私は彼を間近に見た。
優しく私を受け止めた手が、ゆっくりとその狐の面を持ち上げる。
そこに現れた顔に、私は言いようのない懐かしさを感じる。
綺麗に整えられた髪は、後ろで結える程度の長さで、濃紺の光を宿す少し丸みを帯びた瞳。
均衛の取れた鼻筋に、艶やかに輝いた唇。
知っているはずない……初めての懐かしさ。
その矛盾した感情が、渦となって激しく私を揺さぶる。
わけもわからず慟哭する私の頭を、彼の暖かい手が優しく撫でる。
甘い香りが、彼の首筋から昇っている。
恐怖も安堵もなく、その全てがただ懐かしい。
涙に濡れた視界の先で、私たちを取り巻く炎が、渦を巻いているような錯覚に陥る。
「彼らには感謝しなければいけないね」
月音が耳元で囁く。
凛とした彼の声が胸の内にスッと溶け込むようだ。
彼ら……シロたちのことだろうか。
月音の目線を追うと、そこには炎に照らされた彼らが居た。
けれど、それらは私の知っている姿ではない。
闇の中浮かび上がる真っ白な鳥居。
それは暗闇の中で不敵に笑っていた白いカラスを彷彿とさせる。
炎に照らされて黒々と光る狛犬。
闇の中疾駆するあの獣だろうか。
そして、小さな社を取り巻く黄金の注連縄。
金目の蛇の、滑らかな肢体を思い出す。
「彼らが君をここまで導いて来てくれた。そして、これからの君を守ってくれる」
月音の声が炎の燃える音に交って、私の心を燃やす。
パチパチと弾けて消える、なにかの欠片。
それは眠りの中にいるように安らかで、それでいて私の中に不安を掻き立てる。
何か取り返しのつかないことを忘れてしまう恐怖が、頭を占める。
それは私の常識の、最後の抵抗だったのかもしれない。
そんなものに用はない。私はそれを躊躇いなく捨てて、月音の腰に手を回す。
彼の胸に顔を埋めると、優しい手が私の髪を撫でた。
「ごめんね」
小さく彼の呟く声が聞こえる。
そっと顔を上げると、すぐ近いところに彼の唇が見える。
「どうして……?」
言い終わる前に彼の柔らかな口が、私の言葉を塞いだ。
身も心も満たされ、私の感覚が極限まで敏感になっているのがわかる。
纏いつく夏夜の空気、炎の熱、動物たちの気配、そして月音の悲しみ……。
月音は悲しんでいる。
この夜の終焉が近づいていた……。
再び私の目から、熱い涙が零れた。
やっと逢えたのに……、再会すら満足に果たせず、私たちは再び離れてしまうのだ。
知らない記憶が、つーと私の中に浮かび上がる。
それはもう数十年も前の記憶。
その時は私が出迎えて、彼を残した。
私たちは、それをもう何度も繰り返しているのだ。
彼に会うためだけに……この瞬間のためだけに私たちは生きていた。
それは山が生きていく上での必然であり、人が暮らしていくための必然でもあった。
……私たちは、山に宿る贄のようなものなのだ。
その柵から逃れることはできない。
こうして陰陽印のように交っては別れる運命。
「あぁ、そうね……そうだったわ……月音……」
私は彼の身体に寄りかかり、五感の全てで彼を感じようとする。
この一瞬を覚えて、私は永劫を生きる。
その果てで、私は再び彼を抱くことができるのだ。
「ありがとう」
彼の声が響く。
その唇を塞ぐように、私は彼に口づける。
永遠に彼の味を忘れないように……この夜を忘れ得ぬように。
彼の姿が月に溶けていく。
もう時が残されていないことがわかる。
愛しているわ、と囁いて私は彼をより一層強く抱く。
長い口づけが終わり、私は一人。
手には狐の面だけが残された。
「ねぇ……月の音が聞こえるわ。いつまでも、私たちは一緒ね」
月を見上げ泣きながら、私は喘ぐように微笑んだ。




