~序~
町で一番大きな神社のお祭りに、私は友人と訪れていた。
父も母も、夜遊びということで、あまりいい顔をしてなかったけど、
年に一度ということで半ば強引に了承をもらうことができた。
友人に手を引っ張られながら、屋台に囲まれた参道を歩く。
薄水色の浴衣に身を包んだ友人が、リンゴ飴を頬張りながら、嬉しそうに話しかけてくる。
私はどこか上の空でそれに答えながら、ぼーっと辺りを見回していた。
この場にいる全ての人が、終わりの近づく夏を謳歌するように浮かれ騒いでいるようだ。
遅くまで鳴いている蝉のように、彼らは夜を彷徨い歩む。
……せっかくだし、私も楽しまなきゃ。
お気に入りの浴衣は濃紺で、つつましく一輪の赤い花が描かれている。
その花を眺めて気合を入れて、お祭りを楽しもうと顔を上げた。
「……あれ?」
気が付くと、私はひとりになっていた。
大きな参道には屋台が出ていて、提灯が辺りを照らしている。
今までと全く変わらない風景なのに、一緒に来た友人はおろか、屋台の人さえどこにも見当たらない。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、笛の音だけがどこか遠い場所から聞こえていた。
(そんなはずない……さっきまで私は友人に袖をつかまれていたし、人波だってあんなに……)
ありえない現実に途方にくれながらも、どこか懐かしさを感じさせる笛の奏者を探してみようと、境内に向かって歩き始めた。
かっぽかっぽと、下駄がどこか間の抜けた音を響き渡らせる。
お祭りという騒がしさを連想させる行事の中、人だけがいない。
石畳の参道は、寂しくも不気味だったが、笛と下駄の音がその印象をすぐに払拭してしまった。
私の下駄が境内に続く階段の前に差し掛かった頃には、笛の音が近くに聞こえていた。
数十段の階段の先にある鳥居は、提灯に照らされて朱く濡れていて、それをくぐった先に笛の主が私を待っているような気がした。
すでに混乱も恐怖も感じなくなった私は、熱に浮かされたように無心で階段を上った。
からんからん、と下駄が鳴くと、私の目に冷たい鳥居が近づいてくる。
最後の数段を残したところで、低い視点から境内が見えた。
薄暗くてよく見えないけど、鳥居と本殿の間に誰か立っている。
あの人が笛を吹いているのだろうか。
いつのまにか抱いていた恋焦がれるように甘苦しい気持ちで、私は鳥居をくぐった。
屋台のない境内での光源は、本殿の内部についている薄橙色の照明だけだった。
笛の音に身を任せながら、その人に近づくと、闇になれた目と薄い明かりで彼の姿が見えてきた。
本殿から少し離れているため色まではよくわからなかったけど、暗色の甚平を身に着けているようだ。
露出している腕と、脛の部分が妙に白い。
まるで薄い光を吸収して、発光しているように暗闇に浮き出ているかのようだった。
近づくことに抵抗を感じながらも、一歩進むと、身体よりも白いお面に気づいた。
発光することのないそれは、薄闇に紛れた光をかろうじて反射することで、自分は白い色だということを告げているようだった。
(……きつね?)
耳の付いた白い面に、墨を走らせたような模様。
暗くてよくわからなかったけど、黄色の目に見つめられているような気がした。
なおも続く演奏のさなか、私たちは見つめ合っていた。
高低さまざまな音域と、震える声のような旋律に、私は完全に蕩けていた。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
本当の前後不覚……。
夢見るような心地で、私は彼と彼の演奏に身を委ねていた。
心に何かが触れると、涙が一粒零れ落ちた。
やがてそれは頬をしとしとと濡らした。
きっと小さく囀るような、深く嘆くような声音に心を動かされたのだろう。
ふと気がつくと、音が聞こえなくなっていた。
すでに演奏は終わっていたのだ。
名残惜しく思っていると、その狐は少年の声で「待っていた」と私に告げた。
透き通るような声は、印象を残さないほどすんなりと心に入り込む。
私と同じくらいの背丈の彼は、もしかしたら私より年下なのかもしれない。
疑問をもって然るべき事柄が、全てどうでもよくなったような、熱に浮かされたような笑顔で私は応えた。
「私も、あなたを待っていたのかしら」
私はゆっくりと彼に近づいた。
狐は何かを確認するように軽く頷くと、その面を上げた。
……彼の顔は、想像していたように私よりも幼い少年に見えた。
けれども……。
(なんだろう、この違和感)
少年の出す雰囲気と、彼の容貌はかけ離れていて、とても私より年下の人間には見えなかった。
やがて彼とすぐ近くの距離まで到達すると、彼が手を差し出した。
彼が優しく、口許を綻ばせると、私も安心して彼に手を伸ばす。
彼の手は暖かで、しっとりとした感触が私を包んだ。
「あなたは……誰だったかしら?」
私の言葉に少年は薄く微笑む。
神社の奥、山から吹いてきた風が、少年の瞳光を軽く揺らした。
「僕は……月音」
「つき……おと……」
彼の名を繰り返し呼んでみたけれど、それは私の知らない響きだった。
(どこかで会ったことのあるように思ったんだけど……違ったのかな)
思案していると、彼が軽く私の手を引っ張った。
彼が私の知らない世界へ連れて行こうとしているような気がして……
「どこへ、行くの……?」と、少し怖くなり聞いてしまった。
少年は黙ったまま、少し悲しそうに笑うと、「ずっと待っていたんだ……」と小さく呟いた。
悲しい、鈴が鳴るような声に私はそれ以上何も言えず、彼の手に引かれるまま、山の中に入っていく。
煌々と輝く月と、悲しそうに笑う少年に、私の頭は何も考えられなくなっていた。
暗闇の中、私の浴衣に咲いた花が一輪、仄かに揺れていた。




