第二話:『午前の講義は夢心地、お昼休みはホットドッグと共に』
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一限の「近代文学概論」は、すでに出欠確認が終わっていた。
教壇では、化石のような老教授が夏目漱石の『こころ』について、微睡を誘うような低い声で講釈を垂れている。
私は教室の後ろの扉から、忍び足で中に入った。
「シィカ、こっちこっち」
小声で呼んでくれたのは、友人のサリナだ。彼女は私のために、一番後ろの席の端っこを確保してくれていた。
「おはよ。……シィカ、あんた昨日帰ってないでしょ。髪、変な癖ついてるよ」
「おはよう。……ちょっとね。資料の整理が長引いちゃって」
私は標準語で、優等生のような言い訳を口にする。
実際、資料(河野先輩)の整理(解釈)に一晩かかったのは嘘ではない。
机に突っ伏すと、木の天板がひんやりとして気持ちよかった。教授の声が遠くの子守唄のように聞こえ、私はそのまま意識を飛ばしそうになる。
(……漱石は『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』って書いたけど、睡眠欲に負けるのは何て言うのかな。知らんけど)
結局、講義の内容は一行もノートに記されることなく、終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「お昼どうする? 食堂混むよね」
サリナに聞かれたけれど、私は軽く首を振った。
「ごめん、ちょっと図書館に寄りたいから、適当に済ませるよ」
「相変わらず熱心だねぇ。じゃあ、また三限で」
サリナを見送ったあと、私は購買で適当なパンと飲み物を買い、キャンパスの隅にある「文学部の森」と呼ばれるベンチが並ぶ一角へ向かった。
そこは、昼時でもあまり人が寄り付かない、静かな場所だ。
「……遅いよ、シィカ」
ベンチに座っていたのは、同じゼミの直人だった。
彼は河野先輩のようなインテリ気質ではなく、休日は草野球に興じているような、少し日に焼けた、健康的な雰囲気の男子学生だ。
「ごめん、講義が長引いちゃって。……それ、食べてるのホットドッグ?」
私は彼の隣に腰掛け、彼が手に持っている購買のホットドッグを指差した。
「ああ、これ? 結構美味いよ。一口食べる?」
「ううん、私はこっちでいい。……でも、直人くんの『ホットドッグ』、もっと美味しそうな気がする」
私はわざと、彼の視線を下へと誘導するように、少しだけ首を傾げて覗き込んだ。
直人の顔が、一瞬で耳まで赤くなるのが分かった。彼はスポーツマンらしく、反応が素直で面白い。
「おい、ここ、誰か来るかも……」
「誰も来ないよ。ここは私の『お気に入りのページ』だから」
私は彼が持っていたパンを横に置かせると、ベンチの下、彼が履いているジーンズの膨らみに手を伸ばした。
ジッパーを降ろす小さな音が、静かな森に響く。
「……あ、シィカ、ちょ、まっ……」
顔を赤くして狼狽える彼を尻目に、私は「それ」を丁寧に、大切に外へと連れ出した。
朝の河野先輩が「繊細な古典」だとしたら、直人のそれは「出来立ての、瑞々しい現代文学」といった趣がある。
「いただきます」
私は標準語で礼儀正しく告げると、ゆっくりと頭を下げた。
口の中に広がる、独特の熱。
それは購買のパンとは比べものにならないほど、生命力に溢れた味がした。
舌の上で転がし、丹念に味わう。
直人の指が私の髪に食い込み、彼の短い吐息が頭上で何度も繰り返された。
「……っ、シィカ、それ、やばい……!」
彼の反応を楽しみながら、私はさらに深く、その「ホットドッグ」の芯までを堪能する。
都会の真ん中にある大学の、そのまた片隅で、私たちは今、間違いなく世界の中心にいた。
「……ふぅ。ごちそうさまでした」
数分後、私は口元を指先で拭い、満足げに微笑んだ。
直人は力なくベンチに背を預け、放心したように空を見上げている。
「……あんた、ほんと……何ていうか、自由すぎ」
「そう? 私はただ、お腹が空いてただけだよ。……あ、三限、代筆お願いしていい?」
私は彼の太ももを軽くポンと叩き、立ち上がる。
直人は顔を覆いながらも、「……しゃあないな」と、私のお決まりのフレーズを真似して小さく答えた。
私は彼を置いたまま、軽やかな足取りで午後の講義へと向かう。
お昼休みという名の「短編エッセイ」は、これで完結。
午後の日差しは、午前中よりも少しだけ優しく感じられた。
次にめくるページには、どんな言葉が並んでいるのだろう。
私は少しだけ空腹を満たした満足感と共に、キャンパスの雑踏の中へと消えていった。




