壁
あの後、どうやって帰ったのか、花乃は全く覚えていなかった。
相川の言葉が胸に突き刺さったまま、那津と葉月の元へ帰り、ご飯を食べて帰ったはずだが、どんな顔をして戻ったのか、どんな会話をしたのか、本当に思い出せない。
そして今、自分の部屋の中で花乃は左手の薬指から指輪を外し、一枚の契約書と向き合っていた。
『濱咲先輩が好きです。』
あのまっすぐな相川の目に、花乃が口を出せることはない。花乃と那津は、この薄っぺらい紙一枚で繋がった関係でしかないのだから。
幸せを絵に描いたような結婚生活を送る葉月。
婚活に悩むものの、必死で正解を見つけようとする窪内。
そして、しがらみから逃げた花乃。
ーー大人になれば、悩みなんてどうにかなると思ってたなあ。
花乃は力なく笑った。
壁を越えるどころか、どんどん大きくなっていって、越えられなくなっていく。花乃はその壁を越えることを諦めてしまった。
けれど壁はいつだって立ちはだかる。
そして、前に進むためには、結局超えるしかないのだと思い知らされる。
「花乃。」
部屋のドアがノックされ、ゆっくりと扉が開く。花乃は慌てて契約書を後ろに隠した。
「準備できたか?葉月さん、見送りに行こうぜ。」
「うん。待ってて、すぐ準備終わるから。」
那津は花乃の左手をじっと見つめ、そして何も言わずに「わかった。すぐしろよ。」と言って扉を閉めた。
今日、葉月は地元へ帰る。
花乃は自分の頬を叩いて、気持ちを切り替えた。
ーーくよくよしてもしょうがない。
今はそう言い聞かせるしかないのだった。




