ハニー25
ビルのエントランスでエレベーター待ちをしていると、下降してきたその箱の中からいつか見かけた外国人と鉢合わせた。達巳の会社関係の人だろうか。困った。
私は昔から英語が苦手だった。たまに言葉が変だと指摘されるから、日本語さえ危ういかもしれない。
どうぞ、と言葉をかけたいのに出てこないから、そそくさと端に寄って、ジェスチャーで先に降りていいですよ、というようなことをどうにか伝えた。
外国製だろう上品で滑らかな光沢のスーツに身を包む彼は、私を見下ろして目尻に笑いシワを刻む。それが見惚れるぐらいにかっこいいのに、不思議と気さくな印象を与えた。
「Danke schön」
な、なぬ!? ダンケシェーンとな!? …………ああ、わかった! ありがとうだ!
なんだ、ありがとうね、ありがとう…………うん、なるほどそれは理解した。
――だけど。
なんて返せばいいんだっけ?
「……えーと、You're welcome……?」
って、違う! そもそも英語じゃなかった!
彼がくす、と笑いながらエレベーターを降りる。いたたまれなくなって、私は結局日本語で答えた。
「ど、どどどうも」
ぐはっ、どもってしまった!
逃げるようにエレベーターへと乗り込むと、彼がまだくすくす笑っていて、閉じていく扉の隙間へとウインクをひとつよこした。
「お気遣い、ありがとう」
ぱたん、と扉が閉じて、がたがたと揺れながらエレベーターが上昇しはじめたところで、私は盛大に突っ込んだ。
「日本語しゃべれるんかーい!!」
そりゃあそうか。日本にビジネスで来ているのなら、日本語くらい話せるか。
よほどのことがないかぎり、私は日本語の通じない海外にはいかないからな、もうっ!
見知らぬ外国人にからかわれて少々憤慨していると、エレベーターが到着した。
朝っぱらからついてない。
ディン。というエレベーターも、今日は調子が悪いようだ。
うちの会社のフロアに降り立つと、ちょうど達巳と出くわし、階数を二、三度確認した。……合ってるな。
「ついに耄碌したか。あんたの会社はふたつ上だ」
「耄碌したの蜜の方じゃないのか? 俺は蜜んとこの社長と、釣り友達だ」
ふん、知ってるわ。たまに社長から新鮮な魚をもらうから。
「私はこれで」
脇を通り抜けるとき、達巳がどことなく浮かない顔をしている気がして、ふと足を止めて振り返った。
「……なにか、あった?」
見上げた達巳は、手を口元にあてて苦笑する。
「本当にお人好しだよな」
「そんなことないって。復縁以外なら相談に乗るけど?」
「それじゃあ無理だ」
嘘をつくな、嘘を。
「仕事でやらかした?」
さっきの外国人関係か?
図星だったのか、達巳が壁に背中を預けて深いため息をついた。
「訂正させてもらうと、仕事でやらかしたわけじゃない」
それならば、プライベートで?
……って、え!? ま、まさか! 私につれなくされて、ついにそちらの扉を開いてしまった、とか……?
「おまえ今、たぶんろくなこと考えてないだろう。絶対に、違うからな。……ただ、蜜が関係していると言えなくもない」
「私が?」
あのいたずら好きそうな、外国人さんと?
「おしゃべりなここの社長のせいで、蜜にフラれた理由がこのビル内に広がってるんだよ」
いやいや、自業自得じゃん!
「掃除のおばちゃんまで知ってるんだぞ? どうなってるんだよ」
「どうもこうも、自らの行いを反省しろってことでしょう」
これに懲りたら次は浮気なんかするなよ。一生結婚できないぞ?
「あーあ、心配して損した」
アメリアを揺らして達巳に背を向けると、
「また、心配してくれたんだ?」
期待を含んだその響きに、私は優しく、それでも残酷にこう告げた。
「友達だからね」
友達としてなら、悪いやつではないのだ。
それでもたとえシュンがいなかったとしても、私はよりを戻すことはなかった。
意思をきっぱりと伝えた私に、それでも達巳は首を縦にも横にもすることなく、エレベーターのボタンを押しながら言った。
「蜜はお人好しだから、まだ俺にも見込みがありそうだ」
その戯言に、私はため息ひとつ返して情け容赦なく背を向けた。




