持ち物21 友情
太陽はいま、中天にかかっていた。
10月にしては張り切りすぎの、真夏を思わせる直射日光。
この高原でも気温30度近くをキープして、がら空きの背中にのしかかっている。
下からは、そのぎらついた光を刃のようにひらめかせての、大きな池。
口をあけて、深く、黒く、ぬらりと獲物を待ちかまえている。
いま、しがみつくようにして立つ大岩の両脇には、植えこまれたいばらのしげみがあちこちに。
まがまがしいとげを振りかざして、無数の腕を広げている。
吹き上げられる風が、乙乎の頭をかすめていった。
すりきれてほつれた細長いはちまきが、ばたばたとあおられていく。
だが、乙乎の顔中を流れ落ちる汗はまったく引くそぶりもなかった。
「くっ……!」
乙乎は、目の前の光景をきょろきょろと見まわしていた。
見渡す限りのバナナの皮――
完全に包囲されている。
いや、包囲どころではない。
乙乎が手足を置いている部分以外はほとんどすべて、バナナの皮におおいつくされているのだ。
ほとんどといっても、皮のないところはいばらのとげやするどくとがった岩の先なんかがあって、そもそも手をつくことができない。
皮にくくりつけられた糸が目に飛びこむ。
乙乎は最初、この糸を魚取り用の網か、バドミントンのネットのようなものかと思っていた。
しかし実際には、糸は1本ずつばらけていて、その途中途中に皮が等間隔で取りつけられていた。
いつかテレビで見た、ワカサギ釣りのしかけ針のような感じだ。
皮の、糸に直接触れている部分は、ビニールのような特殊なうすい膜でコーティング補強してある。
糸自体も、乙乎の持ってきたたこ糸のようなやわなものなどではない。
登山に使うほそいロープのような、とても軽くて強そうな合成繊維のよりあわせたものだった。
そして、その糸の束は、乙乎からはなれるにしたがって収束し、ただひとつのこぶしの中にあやつられていた。
ミカドの右こぶしだ。
ミカドは、5本の指に糸のついた輪をはめてそれを高々と掲げ、岩に背中をもたれかけて優雅に座りこんだ。
足を組んで、あいた手で水筒のコップをワイングラスのようにゆらしながら、麦茶をすすっている。
そして、思いっきり冷たい目を乙乎に投げかけた。
「フッ、もはや動けまい……? バナナの皮の威力は、貴様も知ってのことだろうからなぁ……?」
下から見上げる角度で、乙乎は視線を突き返した。
たしかに、このトラップは危険だ。
動揺もしている。
だが、あのいままで見たこともない邪悪な表情に屈する心は、持ち物にははいっていない。
「お前にとって、バナナの皮なんてただのゴミだと思ってたんだがな?」
乙乎はその場から動かず、不敵な笑みで応対した。
正直なところ、動かないのではなく動けないのだが、まだそのくらいの余裕はあった。
「なかなかいいできばえじゃないか。がんばってコツコツ作ったのか?」
「学級委員長として、貴様にはひとつ言っておかなければならないことがある」
ミカドは乙乎の挑発を無視して、ニヤニヤと話題を変えた。
「いや、きょうは残念だったなぁ? せっかくのいい天気、こんなに素晴らしい遠足日和なのに、ひとり療養しなければならないというのが」
乙乎のまゆがピクリと寄った。
「貴様のチームメイトではあるが、いちおう同じクラスではあるからな。――これは、ボクからの見舞いだ」
そう言って、ミカドは右手の糸をふさっとゆらした。
乙乎の周りの皮がそれにしたがってずるずると動き、包囲をさらにちぢめた。
「バナナの皮の千羽鶴、といったところか。あの友親に伝えておくがいいさ……!」
「……ミカドっ!」
乙乎がさけんで、身を乗り出そうとした瞬間、足元の皮が1枚、ピクリと跳ねた。
ミカドが指をまげて、皮を動かしたのだ。
皮は乙乎のくつにふれるや、くるっと裏返った。
内側の白い部分が、真上からの太陽光を反射してカッと光り輝く。
その純白の閃光が、乙乎のあごの下を照らし出したと思ったとき――
「ぐわああああーっ!」
乙乎は天空高く打ち上げられていた。
勢いこんで飛びかかろうとした力をそのまま、バナナの皮に受け流され、強烈にすべらされたわけだ。
乙乎も前に使った皮のトラップ。
その技を相手も、同じ練度をもって食わらせてきた。
「ぐふっ!」
まっさかさまに落とされて顔面から岩肌に打ちつける乙乎。
そのはずみで、前に立っていたところよりも下にずり落ちることになった。
なんとか手をのばしてしがみつき、池に呑みこまれることだけは防いだ。
クレーターのようにへこんだ斜面からボコッと顔を起こし、必死の形相で再度上を見上げる。
バナナの皮は、まだそこにあった。
よほど頑丈に作られているのか、糸がほつれかけたり皮がちぎれかけたりはしていない。
まだ再使用はできそうだ。
つまり、もう一度いどめばもう一度跳ね返される……!
ひたいに痛みを覚えた。
はちまきのおかげで切ったりはしていないが、無視できるものではない。
本当なら受け身はとれたはずだが、乙乎はそれをしなかった。
むしろ逆だ。
乙乎は手足を守るために、落下のダメージを顔面で受けたのだ。
手足をケガしては、それ以上のぼれなくなる。
つまり乙乎の闘志はまだ、燃えつきてはいない。
くだけた岩の破片を顔にはりつかせ、ミカドに向かってもう一度さけぶ。
「なぜだ!? ……お前はそこまでの才能をもっていながら、なぜ――」
破片がはがれた。
ちいさな岩のかけらは乙乎の目の横をとおって、涙のようにこぼれ落ちた。
「人を踏み台にするんだ!?」
ミカドはゆったりとした姿勢と凶悪な笑みをくずさないまま、フンっと鼻を鳴らした。
「貴様がいけないんだよ、乙乎。貴様がはじめからボクの前に立っていなければ、誰も苦しむことはなかった……」
このゴール間近の一騎打ち。
乙乎がスタート直後に感じた疑念を晴らすために、いま投げかけた問い。
しかし乙乎はまだ、ミカドが自分の策謀のためにブサコをも利用したのか、とまではきいていない。
だが返ってきたその答え。
ミカドはそれに肯定をにおわせた。
いや、それだけではない。
ミカドの使った『誰も』という言葉。
これは複数の人間を利用したことを意味している。
そして今回、特に苦しんだものは二人いる。
体調をくずしたブサコと、友親。
それにくわえて、いま乙乎が受けたバナナの皮の一撃。
さらにはじゅうたんのように目の前に広がる、ミカドがたとえた千羽鶴のようでもある、その形状。
乙乎のいだいていた疑念はすべてつながった。
「その皮の操作術……ちょっとの練習で身に着けられるものじゃあない。ここに来るまでの陣形にしてもそうだ! ミカド……お前は誰よりも努力できるやつだ。がんばることの大切さを、知っているやつだ。
……けど……! それでオレ一人に勝つために、関係のないクラスメイトを犠牲にして、いいわけがないっ!」
乙乎が手を伸ばすと、そこに皮が1枚にじり寄ってきた。
逆さにふせられていた皮が、花ひらくように白い光をのぞかせる。
とたん、電流を浴びたように乙乎の手がはじかれすべった。
ふたたび体勢をくずして、乙乎は大きくのけぞった。
「くっ……!」
「フン……そこまで気づいていたなら教えてやろう」
彼らのあいだに、口に出した言葉は足りていない。
だが、ここで二人、言外にいわんとしていることをくみ取って会話を進めていた。
「ボクはこれまで、貴様のことが気にいらなかった。目にかたきにしていたわけだ。それをきょう、この場で、貴様が人生でもっとも楽しみにしている遠足の舞台で、貴様を打ちのめして葬り去ることができるのを、心待ちにしていたのだ……!
それによって、ボクはさらなる高みに行ける! 貴様は人の先をゆくものかもしれんが、ボクは人の上に立つものだからな……!」
乙乎がもう一度、のこった左手を伸ばす。
伸ばした先はバナナの皮の支配領域ではない。
だが、皮のないところは、ほかの障害物がある。
そこはとがった岩場だった。
落ちそうになる身体をぐっとこらえて、乙乎は顔だけを起こした。
強烈な直射日光に叩きつけられながら、ミカドをにらみすえる目だけははなさない。
「仲間を見捨てて、なんの意味があるんだ!? いっしょにつかんだ勝利でなくて、なんの価値があるんだ!?」
手のひらに岩が食いこむ。
すべることはない。
刃物のようにとがった岩をしっかりとつかんで、皮膚がきれるのもかまわず身体をささえ続けているのだ。
乙乎は確信していた。
ミカドがいま繰り出している、最大の秘術の正体。
恐らくミカドは、最初バナナの皮を、乙乎と同じように1枚か2枚ずつくらい、少量を持ちこむつもりだったのだろう。
足止めには、本来それでも効果があるからだ。
だがきのう、遠足前日、ミカドは友親のてるてる坊主作戦を知った。
あの、千羽鶴をも超える人形の大軍。
そこから発想を得たのだ。
とはいえ、いいアイディアが思いついたからといって、ただちに実現可能なわけではない。
それに、あの皮の細工。
乙乎は糸の縛りかたやハサミの太刀筋でも予測はついていたが、それよりも補強に使った材料の特殊性ではっきりとわかった。
≪ミカドは、大量のバナナの皮を、大人に作らせた≫!
ミカドは、大企業をいくつもたばねる財閥の息子だ。
実際に金銭で雇って徹夜の突貫作業をさせるのは可能だろう。
それはべつに禁止されていない。
自身の持てる力をすべて、財力や交渉力もふくめていかんなく発揮し、ここまでの作品を用意した手腕。
それをけっして否定することはできない。
だが……
乙乎はまた、同じようなことをくり返しつぶやいた。
「お前は……そんな力がありながら、なぜ……」
『友親を救ってくれなかったんだ?』
……それは、乙乎の口からはどうしても言えなかった。
虫のいいことだとわかっていたからだ。
友親を救えなかったのは乙乎も同じ。
ただ、乙乎には先ほど自分で言った、『仲間を犠牲にした』という負い目があった。
仲間たちは、絶対にそうは思わないし言わない。
それはわかっている。
だけど、乙乎はどうしても、きょうの大岩を3人で立ちたかった。
「なにやらごにょごにょ言っているが、暑さでまいってきたか? その下で水浴びでもすれば、ラクになれるぞ。……それとも、この千羽鶴ともうすこし遊ぶか? 貴様のあの、バカな仲間のようにな……!」
「……なんだと?」
乙乎の足元の石が、ひとつはずれて池に落下した。
思ったよりも大きく上がった水しぶきが、背中のあたりまで届いた。
「おおかた、貴様を先に進ませるために、自らを犠牲にしたんだろうよ。だが……この皮の軍勢が、いまやすべてを物語っている! 貴様も見たはずだ、友親の家の前にあった、無惨なゴミの山を……! 友親はきょうの天気をよくするために必死こいたつもりだろうが、その実、ボクにこの最終兵器のアイディアをあたえ、ボクを上に押し上げてくれたにすぎないのだ!」
乙乎の瞳がわなないた。
「そして貴様はここで、壊れた操り人形のようにみじめに落ちてゆくのだ……! いやぁ同情するぞ、まれに見るほどのバカな仲間が足を引っ張ってくれたばかりになぁっ!」
左の手に力がこもった。
するどい岩は、さらに手のひらに食いこむ。
指に血がにじんできた。
乙乎は全身を持ち上げ、ようやく一歩だけ上に進んだ。
「……取り消せ……!」
「んん?」
「友親は、バカなんかじゃあない……! あいつは、いつだってオレを助けてくれた。……お前の言うとおりだ、あいつは、オレのために、自分の体を張って……! オレをここまでみちびいてくれたんだ! お前が自分のことばかり考えているあいだに、あいつは仲間のことを思って全力で戦ってくれた! あいつが……友親こそ、真の勇者だ!」
「フン」
ミカドが冷笑をうかべて指を鳴らすと、バナナの皮がふたたび這いより、乙乎のまわりを取り囲んだ。
乙乎は安定の悪い障害物ゾーンにわずかな足場を確保して、片腕だけでやっと身体を支えている。
「なにをやっているんだ、貴様は……? さっきから見ていれば、そんな危険なところにわざわざと……。この遠足のあと、作文を書かなければならないんだぞ? それなのに手を切ってケガしてしまっては、鉛筆を持つことすらできなくなるじゃあないか。そんなことも、わからないのか?」
「……」
乙乎はそれにはこたえない。
飛び出た岩やしげるいばらのすきまから、視線だけでミカドを突き刺している。
「そこまでして、この上にのぼりたいのか? ボロボロの身体で孤独にゴールしたとして、いったいなにを手にすることができるんだ?」
「お前には、わからんさ……!」
「そうか」
ミカドはそれだけ言うと、水筒のコップをしまいこんで、こぶしをたかくかかげた。
乙乎がそれに応じるように目を見ひらくのを満足げに冷たくながめてから、手のひらを上にしていたこぶしを――なにか、人が大切にしてたものを押しつぶすかのように――ぐしゃっと握りこんだ。
「では、落ちるがいい」
乙乎の周囲に配置していた皮が、一斉に飛びかかってきた。
乙乎には逃げ場がない。
圧倒的潤滑力から身を守るすべもない……
真昼の陽光が照り輝く。
灼熱の殺意を裏側からみなぎらせ、純白の牙がきらめいて、乙乎の全身を包みこんだ。
乙乎が上にのぼろうとする力をそのまま空中に転換させ、まるであの世への方向へとはじき飛ばす。
乙乎の左手は、ただ虚空を握りしめていた――
「ああ、そうそう。ひとつ言い忘れていた。貴様がさっきなにやらさけんでいたことだが……せめて、リクエストにこたえてやるよ」
宙を舞う乙乎の背中に、ミカドがはなしかけてきた。
真っ逆さまに吹き飛んでいる乙乎からは、その顔を見ることはできない。
だがそれは、まぎれもない憐憫と侮蔑をいっぱいにあふれさせた、ミカド渾身の悪魔の形相だった。
「たしかに貴様の言うとおりだ。もっともバカなのは、あの友親ではない……。その仲間の力を借りてここまで来ておきながら、無様にもボロボロの失敗をとげる貴様こそが、最高のバカなのだからなぁっ! ハーッハッハッハッハッ!」
大岩には高さがある。
乙乎が落ちているのは、その中ほどからだ。
下は池。
地面からは、もうすこし、数十センチくらいだが距離がある。
合わせてみると、3メートルくらいにはなる。
そこから落ちる時間は、まあ、あっというまだ。
だが――
「ありがとうよ……取り消してくれて」
その、わずかな時間。
ミカドの耳に、不思議な声がした。
はじめは、なんの音かと思ったくらいだ。
「お礼に、こっちも教えてやる――」
ミカドの過去最凶の冷笑は、そのかたちをたもったまま凍りついた。
「お前を倒すのは、オレじゃあない」
……なぜだ?
なぜ……
乙乎が無事にしゃべっているんだ!?
「――友親だっ!」
顔面から落下していると思っていた乙乎は、ミカドが高笑いをしているあいだに上体を起こしていた。
同時に、右手を腰にそえる。
乙乎が先ほどまで、片手で岩にしがみついていたのは、バランスをもどすことができなかったからではない。
あいたほうの手で、腰に取りつけたものをさぐりあてるためだった。
乙乎の右の手のひら。
もろく、ちっぽけな人形がのっている。
てるてる坊主だ。
乙乎はその首の部分を、しぼり上げるようにぎゅっと握りしめた。
友親のてるてる坊主は、表面をちり紙の外套でおおわれている。
非常に繊細で弱いつくりになっているので、その外套はあっさりとやぶれた。
当然だった。
だって、友親がわざとそう作ったのだから。
友親は、てるてる坊主を作ろうと決意した瞬間から、自分はここまで来ることができないと覚悟した。
だから、てるてる坊主を一つだけ、吊るすぶんとはべつによけておいた。
そして、一見普通のてるてる坊主と同じでしかないそれを、乙乎に託したのだ。
乙乎はそれを、後生大事に持ち運んできた。
感傷からではない。
荷物はできるかぎり軽く、速く――
作戦の根幹をなすその方針は絶対で、わずか十数グラムといえど余計なものは持っていけないはずだ。
しかも、腰に取りつけては走るときにひらひらと動いてしまう。
ジャマにしかならないはずだった。
だが、乙乎はそれをけっして手放そうとしなかった。
理由は簡単。
それが必要な道具だったからだ。
外套の中から飛び出したのは、一粒の玉だった。
表面になにか、こまかな白いものがついていて、それが太陽の光をやさしくキラキラと受け止めて、宝石のように散らした。
玉の飛んだ先には、乙乎の顔があった。
乙乎は大きく口をあけて、その玉をほおばった。
『お、オレの好きなヤツ売ってるぞ。ひさしぶりに見るなー。あんまりよそで置いてないんだよこれ。あとあと売り切れてもイヤだし買っとこ』
忘れもしない、9月20日15時12分。
買い物に出かけたときに友親がつぶやいた言葉だ。
ちょっと前に乙乎も好んでよく買っていた。
ボリュームがあって、食べごたえがある。
特に好きなのは、レモン味だ。
すっぱいのがいい。色もあざやかな黄色で気にいっていた。
炭酸の刺激が体内をマッサージして、吸収の早い糖分が全身を駆けめぐり――
疲れた身体に、元気が湧いてくる!
それはお菓子だ。
一粒の飴だ。
そして、乙乎の最後の策だ。
仲間との日々が、仲間の想いが、そしておやつのトレードが。
乙乎にあとすこしだけ、動くための力をくれる。
その策の名は――
≪追憶の絆≫!!
映像の逆回しのように、乙乎がふわりと飛び上がってくるのを、ミカドはあんぐりと口をあけたまま見ていることしかできなかった。
なにが起きているのかがわからなかった。
ボロ雑巾のように落ちて、黒くかがやく池に盛大な水しぶきをたてて消えていくはずの獲物が、いきなり復活し、軽快に岩の上を飛びわたってくるのだから。
乙乎は足元の一点にねらいをつけた。
その目は、眼下にひろがる皮の海を映して、あざやかなレモン色にキラキラと光を散らしていた。
「な……なにを……!?」
ミカドがうめいた。
乙乎はそれを、どこか遠い、もやのむこうの別世界のできごとであるような、超然とした表情で聞き流して、バナナの皮の上にふわりと舞い降りた。
「くっ!」
ミカドはあわてて皮をあやつった。
乙乎の突き出した足に踏まれた1枚の皮は、すかさず必殺のカウンター攻撃をくりだす――
乙乎は宙を飛んだ。
たしかに、皮は乙乎をとらえて空に打ち上げた。
だが、彼はその勢いに己の力を呼応させて同時に飛び上がっていた。
「……!?」
ミカドは顔をゆがめ、怪訝にいま使ったバナナの皮を見た。
一回の使用にしては、ありえないほど傷んでいる。
乙乎はもう一度、まったく同じところに降り立った。
降りる直前、乙乎は片方の膝を曲げていた。
その曲げた膝を打ちおろした。
呆然としたミカドの目には、けっしてとまらぬスピードだった。
一瞬のうちに、何回の蹴りをくりだしたかわからない。
乙乎がふたたび自分だけの意志であるかのように空を舞ったとき、さっきと同じ皮はいまにもちぎれそうなくらいにボロボロになっていた。
乙乎がまたたくまに何回も踏んだ皮を、一瞬だけおくれてミカドが発動させる。
すると、一回の使用に対して、大きく皮は消耗する。
乙乎はみたび降り立とうとする。
足を振り上げ、空中から最後の一撃をはなつために!
「ミカドーっ!」
「き……貴様アアアア!」
乙乎の≪電光蹴脚≫をミカドは防ぐことができなかった。
やはり一瞬だけおくれてはなった皮はついにちぎれ、ずるりと岩から落ちていった。
遠足のルールだ。
『持ち主が最後に触った状態で地面についたゴミは、最優先で拾って片づけなくてはならない』。
糸をとおして、最後に触っていたのはミカド。
乙乎に反撃するために、自分の意志でそれを動かしたのもミカドだ。
だから、いま。皮を拾いに行かなくてはならないのもミカドだった。
「ぐわあああああっ! き……貴様なんぞに……! この……ボクがああああぁ!」
ミカドはジャケットとネクタイを振り乱して、同じように岩肌を転げ落ちていき――
盛大な水音としぶきを上げて、暗黒の口をあけた『いこいの湖』に呑みこまれた。
乙乎は、さんざん時間をかけてずるずると身体を引きずって岩をのぼり、よろりと頂上のほうを見上げた。
「た……倒した……が……」
これ以上、のぼることができない。
さっきの回復したぶんも、ついに尽きた。
乙乎は手だけを伸ばしたまま、がっくりと斜面に倒れこんだ。
「ここまでか……」
恐らくは、あまり時間もない。
頂上にたどりつくことなく、遠足が終わってしまう。
作文はどうなるのだろう。
せめてここまでがんばったことだけでも書くとして、それで字数は大丈夫なのか。
自分の望む結果がこんな形で出せなくなるからには、たぶん筆も進まないと思うが……
そんなとき。
ふと。
頭上から、ふわっと、なんだか暖かいものが落ちてきた気がした。
「――くん」
声をかけてきたものがあった。
「乙乎くん」
優しい声音だった。
疲労の底にある身体をいたわろうとするような、そんな柔らかい声だ。
声だけではなかった。
乙乎の伸ばしたままの手に、上からもう一つの手が差しのべられていた。
「乙乎くん!」
「……なんで、そんなところに、いるんだ?」
――十日町 音菜。
……いや、理由はやっぱり単純だ。
音菜はここまで走ってきたのだ。
それも、ブサコを送ってからすぐに。
下でミカドを引っぱり上げたソノタと同じだ。
後方から時間をかけて、地道に追ってきたわけだ。
ミカドを倒してから、ずいぶんと時間がたっていた。
音菜はそのあいだ、運動も大して得意ではないのに、がんばって走って、岩をのぼって、乙乎を助けてくれた。
やはり。
乙乎だけの力ではなかった。
この遠足、3人の力を合わせて手にいれた、傷だらけで黄昏の勝利だった。
「さ、いっしょにおべんと食べよ?」
「……ああ!」
乙乎は背中から、騎士がマントでも広げるようにレジャーシートを取り出した。
心地よい揺れと、ほてった全身を包んでくれる弱冷房のバスの中。
乙乎と音菜は、お腹いっぱいになって眠りこけていた。
その耳には聞こえるはずもないが、どこか前のほうから、やかましげな音がひびいた。
「ハックション!」
横に座るソノタが、いかつい顔をモアイ像のようにじっと黙らせて、両手の上にちり紙の箱を置いていた。
ちり紙をばさばさと取って、やかましげに鼻をかむ音が鳴る。
「ううー……乙乎め……! 今回は、貴様に勝ちをゆずってやる……だが! ボクもさらなる力をつけて、次こそは必ず貴様を倒し……ハックション!」
バスをゆすらんばかりのくしゃみがひたすら鳴りひびいていたが、後ろの二人は学校に着くまで起きなかった。
遠足大事典 -Ensoyclopedia-
これにて完結です。
ご愛読ありがとうございました!
・次回作・
クリスマスの前日はドキドキするもの。
期待と興奮、ちょっとの不安、
それにケーキと飾りつけ。
枕元には靴下おいて、
あしたが楽しみ、眠れない。
だが
『プレゼント』に限りがある場合
そこには仁義も慈悲もない――
与えられた猶予は1ヵ月。
入念な準備を積みライバルの陰謀を破り、
全力で『よい子』を演じて素敵なプレゼントを勝ち取れ!
ちなみに『悪い子』のプレゼントは学習ノートと宿題のおまけつきだ!
シリアスな笑いのデスゲーム。
それが新ジャンル・クリスマスサスペンス!!
次回作、「紅蓮の聖夜 -Crimson Christmas-」
――鋭意構想中。