第三十三話
ヴィクトル様の前から去った後、私はたまたまお会いしたフィリップ様に気分が優れないことを伝え、少し早いが夜会を辞させていただきたいと願い出た。
「大丈夫? 俺が部屋まで送ろうか?」
フィリップ様にたいそう心配されてしまったけど、丁重にお断りさせていただいた。体調が悪いわけじゃなく精神的に疲れ切ってしまっただけだったし、主催者のご子息で今宵の主役であるクリスティーネ様の兄殿下が夜会の席を外すなど許されないはずだ。
自室に戻った私はさっさとドレスを脱いで楽な服装に着替え、そのままベッドに突っ伏した。
今日、たった一日で積み上がってしまったいろいろな情報と問題に、頭が痛い。
情報については自分の中で消化していくとして。問題の方は、どう処理しようかしら。
私は大きな溜め息をついた。
短い時間で酷使され、未だぶすぶすと燻る頭を叱咤してもう一度整理して考えてみる。そしてふと、問題については、すべてクリスティーネ様が嫁がれた後に私がどうするのか、を決めた時点で解消されるということに気が付いた。水を被ったみたいに、急に頭が冷える。
私が、今後どうしたいか考えるのを先延ばしにしていたせいじゃん!
激しい自己嫌悪に、また溜め息が出た。溜め息をつくと幸せが逃げるって言うけど、出ちゃうんだから仕方ない。
私はのそのそと立ち上がると、書き物机に腰掛けた。
今日は本当にいろいろあった。けど、そのおかげで、わかったことがある。
自分がこれから──クリスティーネ様が嫁がれた後──どうしたいのか。
いや、本当はどうしたいかなんて、とっくにわかってた。ただ、自分の中で踏ん切りがつかなかっただけだ。常識だとか柵だとか慣例だとか、いろいろと理由を付けて。
どうしたいかがハッキリしたんだから、後はそれを実現するために何をすべきか考えて、行動すればいい。叶うかどうかはわからないけど、「こうしたい」という思いがあるなら、まずは動いてみよう。
私はペンを手に取ると、両親に宛てて手紙を書き始めた。
* * *
それから数日後、クリスティーネ様とともに、私は城の厨房にいた。クリスティーネ様のご希望で、焼き菓子を作りに来たのだ。
厨房に王女様がお入りになることなんて一般的にはないんだろうけど、クリスティーネ様の場合、お菓子作りを趣味としていることもあって、月に一度ないし二度は厨房を使わせてもらっている。十二を超えたあたりから作られているから、なかなかの腕前だ。
とは言っても、ここ最近はいろいろとあって来れていなかったんだけど。そういえば、クリスティーネ様が成人されてからは、初めてかもしれない。
そんなこんなで、料理長さんも慣れたものだ。厨房には既に、小麦粉やバター、牛乳に果実やナッツ類といった、今日クリスティーネ様が使うであろう食材や、ボウルに泡だて器にめん棒といった調理用具が用意されていた。もちろん数日前に、この日、この時間帯で、クリスティーネ様が厨房を使いたがっているとはお願いしておいてはあるんだけど。
今日は、クッキーとマドレーヌを作るらしい。
それにしても、今日は食材がいつもよりも随分と多い気がする。いつもは自分でお茶の時間に少し摘まんだり、兄殿下や国王夫妻と一緒に食べたいからと作られるんだけど。その人数にアルフレド様が増えた程度じゃ食べ切れない量があるような気がしないでもない。
私は、クリスティーネ様の言いつけ通りに、何を作りたいか、どのくらいの量を作りたいか、の書かれたメモを料理長さんに渡しただけだ。メモとは言え、封がされていたので中身はもちろん読んでいない。ただ、目の前にある材料はかなりの量があると断言できた。
え、本当にこれ全部使うの? いったい何人分?
密かに疑問を抱く私を尻目に、クリスティーネ様がにこにこと笑顔で料理長さんにお礼を仰った。
「料理長さん、いつもわたくしの我が儘にお付き合いくださって、ありがとうございます」
「いえいえ。我が儘なんてとんでもございません。クリスティーネ様は大変筋がよろしいですから、わたしとしてもお手伝いのし甲斐があります」
料理長さんが、クリスティーネ様用のエプロンを差し出してくれる。私はパリッと糊の効いた真っ白いそれを受け取って、手早くクリスティーネ様に着せた。
「想像していたよりも、たくさんありますわね」
クリスティーネ様が材料を見てくすりと笑う。
「そうですね。メモに『城で働く者皆に行き渡るくらいの量を作りたい』と書かれていたのを読んだときは驚きました」
何ですと? 城で働く者皆に宛てて作る? いったい何人いるのよ!
「皆さんに今までのお礼がしたくて。今回で、わたくしがこうして厨房に立つのは最後かもしれませんから」
少し寂しげな表情で、そう仰ったクリスティーネ様に私は何も言えなくなってしまった。
確かに、仮にも王位継承権を持つ王子の妃となるクリスティーネ様が、ヴィカンデル王国のような大国で厨房に入らせてもらえるか、など、考えるまでもない気がする。シェルストレーム王国だから、こんな風に気軽に厨房で料理長さんと共にお菓子作りができるのだ。
「クリスティーネ様は本当にお優しいですね。たださすがに、わたしとクリスティーネ様、そしてマリーだけで城全員分は難しい。ですので、普段この厨房で働いている者たちにも手伝うよう言っておきました。クリスティーネ様、よろしいですか?」
「まぁ……。本当に、ありがとうございます」
料理長さんが、かなり出っ張った自らのお腹をドンと叩きながら言う。クリスティーネ様は嬉しそうに頷いた。
クリスティーネ様の返事を聞いていたのだろう。ぞろぞろと厨房へコックたちが十人ほど入ってくる。そして早速、各々で分担しつつ、お菓子作りに取り掛かり始めた。
* * *
はぁ。厨房のお仕事って体力勝負なのね……。
聞いてはいたけど、今日はそのことを身を以って知ったよ。料理長さんもコックさんたちも、すごいわ。毎日、お城の人たちの食事を用意してるだけある。
いったん動き始めると、たちまちの内にマドレーヌとクッキーが次々と出来上がって行った。私はただ、たくさんのマドレーヌやクッキーがどんどん積み上がって行くのを呆然と見ていただけだ。いや、小分け作業はしたけど。それくらいしか、できることがなくてね。料理はダンス以上に苦手なもので。
出来上がったお菓子は、騎士たちに頼んで城の皆に配っていただいた。クリスティーネ様が直々に作られたと聞けば、皆喜ぶだろう。
そんなわけで、今日一日の仕事を終える頃にはくたくただった。疲れ切って自室に戻ると、私はベッドに腰掛けてポケットから書簡を取り出した。本当は今すぐ眠っちゃいたいくらいだけど、これだけは読んでおきたい。
これは私の両親から届いた書簡だ。数日前に私が書いた手紙に対する返事。仕事中に受け取ったから、そのときはとりあえずポケットにしまっていたのだけど、ようやく開封できる。
便箋を開くと、見慣れたお父様の文字がびっしりと埋め尽くされていた。
──マリー、お前の好きになさい。お前がどこにいても、何をしていても、わたしたちはお前を心から愛しているよ──
「王城への出仕を辞したい」から始まって、結構なワガママを言ったのにも関わらず、返事には概ねそんなコトが書かれていた。許しをいただけたことに心から感謝する。思えば、小さい頃からずっと王城に出仕してたから、ほとんど親孝行もできてないのよね。落ち着いたら、ちゃんとお礼を言いに一度両親を訪ねよう。
私はもう一度両親からの手紙を読み返すと、折り目に沿って綺麗に畳んだ。
両親からの承諾は取った。後、伝えなきゃいけないのは誰だっけ、と頭の中で整理する。
エリオットには既に、私がどうしたいか伝えてある。昨日は城で勤務していると知っていたから、休憩時間にエリオットが執務をしている部屋を訪ねたのだ。
エリオットは私の様子に何かを感じ取ったのだろう。人払いをした上で「どうされました?」と尋ねてくれた。
二人っきりになった部屋で、私は今後どうしたいかをエリオット──ヤーロース侯爵家当主──に伝え、許可を求めた。
私はヤーロース侯爵家の人間だ。今後についての希望があっても、当主に「否」と言われれば諦めなければならない。私の選択によって影響を受けるのは、ヤーロース家になるから。貴族である以上、個人の意思よりも家の利益や存続が優先される。それが貴族としての常識であり、義務だから。
結果。エリオットは特に驚くことも訝しむこともなく、
「そうですか。承知しました」
とだけ言った。
「え、それだけ?」
まったくもって拍子抜けだ。きっと反対されるか別の提案をされるだろうと思っていたのに。でもエリオットは苦笑しただけだった。
「ええ。姉上はそうおっしゃるだろうと思っていましたから。今さら驚くなどあり得ませんよ。むしろ、決心がつくまで長過ぎませんか?」
「でも、自分では相当なワガママを言ってる自覚があるし、ヤーロース家にも迷惑かかるかもしれないもの。そりゃ躊躇するわよ」
「大丈夫ですよ」
エリオットはそう言うが、私の方は不安と申し訳なさを拭えない。エリオットが仕方がないなぁとばかりに溜め息をついた。
「そんな表情しなくても大丈夫ですから。いろいろと手は打ってありますし、姉上が思う以上に、私の味方は多いんです。言ったじゃないですか。『姉上が何を望もうとも、私が力添えします』と」
そう言って、エリオットは栗色の瞳を優しく細めたのだった。
さて、と。家族の了承は得たし、今度は家族以外の人たちに伝える番だ。
決心が鈍らない内に、侍女頭さんの元へ今後の希望を話しに行きますかね。この時間帯ならバックヤードにいるかな。
最近、クリスティーネ様の輿入れに同行させる職業侍女が決まらないって、四六時中頭を悩ませているから、そんなときに私の個人的な話をしに行くのはちょっと気が引けるけど。でも、クリスティーネ様が嫁がれる前に、了承をいただいておきたいから。
バックヤードにある侍女頭さん専用の小部屋の戸を叩く。許可を得て入室すると、私が想像していた通り、候補となっている侍女たちの履歴書や報告書に囲まれた侍女頭さんがいた。
「あなたが侯爵令嬢じゃなければ即断即決なのに。こんな悩まなくていいのに。眉間の皺が消えなくなったらあなたのせいよ、マリー」
と恨みがましく理不尽なことを言われながらも、私はクリスティーネ様の輿入れ後、自分がどうしたいかを侍女頭さんに告げた。
「本当にそれでいいの?」
って何回も聞かれたけど、私の決心は変わらない。最終的には了承して貰えた。
まぁそれから、私の初出仕から今までの思い出話が始まっちゃったんだよね。私が子供だった頃のミスを侍女頭さん(当時はまだ侍女頭じゃなかったけど)はよく覚えていて、私は赤くなったり青くなったりした。全部全部忘れて頂けると助かりますマジで本当に黒歴史なんで!




