第十五話
身動ぎしていたクリスティーネ様の動きがようやく止まり、恐る恐る窺うようにアルフレド様へと視線を向ける。アルフレド様はクリスティーネ様だけにキラキラオーラ全開の笑顔を注ぎつつ言った。
「『アルフ』」
「え? あの」
「僕の愛称だよ。クリス、呼んでみて?」
戸惑うクリスティーネ様にゆっくりと頷くことで促す。
しばしの沈黙の後、小さな掠れるような声でクリスティーネ様がアルフレド様の愛称を口にした。
「アルフ、さま……」
クリスティーネ様が言ったが、アルフレド様は僅かに首を横に振られた。
「『様』は要らない。ただアルフと」
「アル…フ……」
アルフレド様が顔を眩しい程に綻ばせる。空色の瞳がクリスティーネ様の目を捕らえた。
「もう一回」
「アルフ……」
「そう」
「アルフ」
「うん、もう一回」
「アルフ……?」
「もう一回呼んで? クリス」
「アル、フ?」
「クリス。もう一回」
「アルフ、あ、あの……」
「ねぇ、クリス、もう一回」
「あ、アルフ……」
クリスティーネ様はいつの間にか離されていた手で胸を抑え、半分涙目で懇願するようにアルフレド様を見上げる。
アルフレド様の名を呼ぶ度に熟れて行ったクリスティーネ様の頬は、今や髪に飾られた薔薇に負けない程の紅色に染まっていた。
「ん? なぁに、クリス」
アルフレド様が満足そうに目を細めて返事をすると、クリスティーネ様は唇を引き結び、頬を膨らませた。
「──っ! アルフ、ひどいですわ! わたくしに呼ばせておいて!」
「クリス、真っ赤。可愛い」
アルフレド様がクリスティーネ様の頬を両手ですっぽりと包んだ。
うわー……。二人で何度も名前呼び合うとかほんとマジでどんだけバカップルなのリア充爆発しろ。
「何か言いましたか? りあ…じゅう? とか聞こえましたが」
隣からヴィクトル様の訝しげな声が聞こえてきた。
おっと、ヤバいヤバい。二人だけの世界へトリップしているのを見せつけられたせいか、つい口に出てたみたいだわ。今回は呟き声程度だったみたいけど、気を付けなきゃ。
「失礼しました。気にしないでくださいませ。以前に読んだ本に書かれていた、呪文の一種ですわ」
「呪文? そのようなことを言われると逆にとても気になるのですが」
ヴィクトル様の眉間の皺が深くなる。私はにっこりと微笑んでみせた。
「大丈夫です、ご心配には及びませんわ。この呪文は、仲睦まじい男女に贈るものですし、だいたい本と言っても『魔導書』ではありませんので効力を持ちませんの。ただの言葉遊びのようなものですわ」
ヴィクトル様が目を眇めて私を窺ってくる。
完全に疑われてるわー。一応本当のことしか言ってないんだけど。以前に他の侍女から借りた小説の中で書かれてたのよね。物語の内容が今の私にピッタリで、つい口に出てたわ。
ヴィクトル様こそ、よくあの甘いピンクな二人を見ていて平気でいられるわよね。どれだけ強靱な精神を持ってるのかしら。
やがてヴィクトル様はふっと溜め息を付いた。
「……まぁ、そういうことにしておきましょう。
そろそろ私はアルフレドを連れて戻りますので、マリー、あなたはくれぐれもクリスティーネ様をお願いしますね」
「もちろんですわ。ヴィクトル様も、アルフレド様が勝手に出歩かないよう責任を持って護衛としてのお仕事をなさってくださいませ。
それと、何度も言っておりますように、名前の呼び捨てを許した記憶はございませんので」
私は両手を身体の前で揃えると丁寧に侍女の礼をとり、小首を傾げて微笑んでみせた。
ヴィクトル様の鋭い視線が不機嫌そうに鋭くなり、私に刺さる。若い見習いの侍女たちがヴィクトル様のことを「クールでかっこいい」って言ってたけど、コレのどこがいいの!?
「……あなたは本当に可愛くないですね」
「それはそれは。ヴィクトル様にご満足していただけるような可愛気のある応対ができず、大変失礼いたしました」
「そのように捻くれていると、いずれ恋人に捨てられますよ?」
「ご心配には及びませんわ」
「おや、惚気ですか」
「いえ、まさか。おりませんので」
「は?」
マヌケな声と共に、一瞬だけヴィクトル様が常に纏っている冷たい雰囲気が四散した。目を見開き、口が小さくぽかんと開いている。うーん、かなりレアな表情見せて貰ってる気がするわ。
「おりませんので」
もう一度言うと、確認するようにヴィクトル様から質問が飛んでくる。
「……貴女、未だ結婚してないんですよね?」
「ええ」
「確か、私と同じ年齢でs」
「それが何か?」
ヴィクトル様が言いかけた台詞を一刀両断する。その続きを一文字でも言ったら雑巾で磨いたティーカップでお茶飲ませてやるから。
私を凝視したまま動かないヴィクトル様と、にっこりと微笑みを貼り付けたままの私。
しばらくの間が空いた。
先に沈黙を破ったのは私だ。
「私に親しくしている殿方がいないと、何か不都合でも?」
「いえ」
ヴィクトル様は首を横に振ると、右手を顎に当て再び私の全身を無遠慮な視線で上から下まで眺めた。
「まぁ確かに、その身体じゃ男性を満足させられないかもしれませんね」
──ブッチン
「うっさいわ!」
コイツ、後でシメる。絶対シメる! それでもって雑巾で磨いたティーカップに雑巾の絞り汁でお茶煎れる!!
あーもー、取り繕う気すら失せた。失せたよ。淑女で侯爵令嬢な私、サヨウナラ。
不快感を露わにする私の目の前で、ヴィクトル様は何故か声を上げて笑い出した。
ちょっとアンタ、本当に失礼だから!!
魔法で吹っ飛ばしていいかな? いいよね? 騎士だったら鍛えてるだろうから、簡単には死なないよね!
私が呪を編むために両手に魔力を溜めようとしたとき、ヴィクトル様が笑い過ぎて出てきたらしい涙を指で拭い、呼吸を整えながら言った。
「なるほど。それが本性ですか? ──やはり貴女、面白過ぎます」
私は全っ然面白くないんですけど!
ヴィクトル様の遠慮のない笑い声に、アルフレド様とクリスティーネ様が振り向いた。
ヴィクトル様の存在に気付き、アルフレド様がクリスティーネ様の手を取って近づいて来る。それを認めた私は、頭を少し下げて二人を待つ姿勢を執る。さすがのヴィクトル様も笑いを納めて頭を下げた。
「ヴィクトル様? いつの間にいらしてましたの?」
クリスティーネ様がそう尋ねると、ヴィクトル様は私と話していたときとは全く違う、礼儀正しい優雅な所作で臣下の礼を執る。顔を上げたヴィクトル様は、普段と同じ、顔の筋肉をあまり使っていない表情に戻っていた。猫かぶってるのはどっちよ!?
「クリスティーネ様、ご機嫌麗しく。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。こちらに参りましたのはつい先程でございます」
クリスティーネ様の隣で、アルフレド様は驚いた様子もなくふんわりと微笑んでいる。きっとヴィクトル様がいらしたの、知ってたんだわ。
「ヴィクトルが声上げて笑っているの、久しぶりに見たよ」
アルフレド様の言葉にヴィクトル様の眉根がほんの僅かに寄った。
「そうでしたか?」
「自分で気付いてなかったんだね。何かいいことでもあった?」
「ええ、まぁ」
アルフレド様の質問に答えたヴィクトル様が私の方を見る。クリスティーネ様とアルフレド様も私を見た。
え? 何?
集中した視線に圧されて思わず後退りしそうになったとき、ヴィクトル様がにこりと笑った。
「貴女のことが気に入りましたよ、マリー」
な、なんだって──!?
ちょっと待って、今までのコミュニケーションのどこにそんな要素が?
固まる私の目の前で、会話がどんどん進んで行く。
「珍しいね。君が女性を気に入るだなんて初めて聞いたよ。女性の相手をすることすら厭うのに」
アルフレド様、今そんな情報要りません。追い討ちですか?
「まぁ……!」
クリスティーネ様、期待の眼差しでコッチ見ない。全然違いますから。ホントに。
あぁ、なんで私がこんな目に……サイアクだわ。




