#9 君を遠ざける数字
朝の教室に、いつもと変わらない電子音が響いていた。
生徒たちは登校すると、机に置かれた端末でORACLEの通知を確認する。
今日の学習効率。
授業中の集中力予測。
進路に関する新しい推奨事項。
そして、ときには、友人との相性や将来の人間関係まで。
誰もが当たり前のように画面を眺め、その結果を一日の始まりに受け入れていた。
朝倉湊も、以前はその一人だった。
予測が高ければ安心する。
低ければ、自分の努力が足りないのだと思う。
数字が示す道から外れなければ、大きな失敗をせずに済む。
そう信じていた。
けれど、今は違う。
机の上に置いた端末には、昨日と同じ通知が残っていた。
『特定人物との接触が、将来予測の安定性に影響しています』
『対象者:天野美月』
『推奨行動:接触頻度の低減』
湊は画面を閉じた。
「……しつこいな」
「お、朝からORACLEと喧嘩か?」
隣から声をかけてきたのは、久瀬悠真だった。
「喧嘩じゃない。ただ、何度も同じことを言われてるだけだ」
「それを喧嘩って言うんじゃないのか?」
「違うだろ」
いつもの調子で返すと、悠真は小さく笑った。
しかし、湊の端末を見ると、すぐに表情を引き締めた。
「まだ出てるのか、その通知」
「ああ。昨日から消えない」
「俺のほうでも調べてみたけど、お前への通知は通常の進路予測とは別の処理から送られてる」
「別の処理?」
「旧モデルの関連記録を参照したあとに、追加されてるんだ。つまり、美月のデータを書き換えた処理と、何らかのつながりがある」
湊は眉を寄せた。
「俺と美月が一緒にいることまで、昔のモデルに関係してるってことか?」
「その可能性はある。ただ、まだ断定はできない」
悠真は声を落とした。
「それと、もう一つ気になることがある」
「何だ?」
「お前、美月と接触する頻度を減らした場合の予測結果って、確認したか?」
「いや」
「一度だけ、見てみてくれないか」
湊は少し迷った。
本当は、もう数字に振り回されたくなかった。
それでも、今回の異常が何を意味しているのか、知っておく必要はある。
湊は端末を操作した。
『将来予測シミュレーション』
『対象者:朝倉 湊』
『条件:天野美月との接触頻度を低減』
画面が切り替わる。
『推奨進路との整合性:上昇』
『学習効率予測:改善』
『将来予測の安定性:回復傾向』
湊は黙って画面を見つめた。
数字だけを見れば、悪い結果ではない。
美月と距離を置けば、勉強に集中できる。
自分の進路も安定する。
これまで信じてきた価値観に従うなら、選ぶべきなのは明らかだった。
けれど、その下に表示された一文が、湊の目を止めた。
『情緒的満足度:低下の可能性』
その文字を見た瞬間、湊は思い出した。
美月と一緒に文化祭の準備をしたこと。
屋上で、自分の気持ちを正直に話したこと。
彼女が初めて絵を見せてくれたときの、少し恥ずかしそうな笑顔。
どれも、ORACLEの推奨する道からは外れているのかもしれない。
それでも、湊にとっては大切な時間だった。
「……悠真」
「ん?」
「これ、俺が美月と距離を置いたら、全部よくなるってことなのか?」
悠真はすぐには答えなかった。
「予測上は、そうなるんだろうな。でも、あくまでシミュレーションだ。実際にお前がどう感じるかまで、完全に計算できるわけじゃない」
「だったら、意味ないな」
「お前、ずいぶん言うようになったな」
悠真は苦笑した。
「前のお前なら、たぶん数字を見て悩み続けてたぞ」
「……そうかもな」
湊は端末を伏せた。
「でも、今はわかる気がする。正しいって言われた道を選んでも、自分が納得できなかったら意味がない」
悠真は、静かにうなずいた。
「なら、もう答えは出てるんじゃないか?」
湊は教室の窓際を見た。
そこには、美月の姿があった。
彼女はスケッチブックを開き、何かを楽しそうに描いている。
その横顔を見たとき、湊は自分の気持ちを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
そして、席を立った。
「俺は、俺が選ぶよ」
*
昼休み。
美月は、屋上へ続く階段の踊り場にいた。
人の少ない場所で、スケッチブックを広げている。
窓から差し込む光が、紙の上に柔らかい影を落としていた。
描いているのは、文化祭に展示する予定の絵だった。
橋の向こうに広がる街。
そこには、まだ細かな建物も、人の姿も描かれていない。
けれど、美月の中では少しずつ景色が形になり始めていた。
「……ここに、何を描こうかな」
小さくつぶやいたとき、階段を上る足音が聞こえた。
「美月」
振り返ると、湊が立っていた。
「湊くん!」
美月は笑顔になったが、すぐに何かを思い出したように表情を曇らせた。
「……あのね、湊くん」
「ん?」
「最近、ORACLEから通知が来てるんだよね?」
湊は少し驚いた。
「どうしてわかった?」
「私の端末にも、関連する通知が表示されてたから」
美月はスケッチブックを閉じた。
「湊くんとの接触が、将来予測に影響しているって」
湊は黙ってうなずいた。
「……ごめんね」
美月が、ぽつりと言った。
「え?」
「私と一緒にいるせいで、湊くんの未来まで変になっちゃったんじゃないかなって」
湊は思わず眉をひそめた。
「美月、それは違う」
「でも、私のデータが書き換えられてから、湊くんにも変な通知が来るようになったんでしょ?」
「それはそうだけど、美月のせいじゃない」
「だけど……」
「俺が美月と一緒にいたいと思ったんだ」
美月の言葉が止まった。
湊自身も、口にしてから少し驚いた。
けれど、取り消そうとは思わなかった。
「誰かに命令されたわけでも、ORACLEに勧められたわけでもない。俺が、自分でそうしたいと思ったんだ」
美月は、じっと湊を見つめていた。
「だから、俺の選択まで美月が背負わなくていい」
「……でも、湊くんの将来が」
「俺の将来は、俺が考えるよ」
湊は少し笑った。
「今までずっと、ORACLEが示した道を歩けば間違いないと思ってた。でも、それだけじゃ、自分が何をしたいのか、いつまでたってもわからない気がするんだ」
「湊くん……」
「美月と話してると、知らなかったことを考えるようになった。自分が何を好きなのかとか、どんなことをしてみたいのかとか。そういうのって、俺にとっては大事な変化なんだと思う」
美月は目を伏せた。
その表情には、安心と戸惑いが入り混じっていた。
「……私、湊くんに迷惑をかけたくない」
「うん。わかってる」
「湊くんには、湊くんの未来があるから」
「そうだな」
湊は、窓の外を見た。
「だからこそ、自分で決めたいんだよ。美月と距離を置くことも、そばにいることも。誰かに決められたからじゃなくて、俺がどうしたいのかで選びたい」
美月はしばらく黙っていた。
やがて、そっと顔を上げた。
「……私も、そう思う」
彼女の声は、小さかった。
「私も、自分で選びたい。絵を描くことも、これから何をするかも。誰かに大丈夫だって言われたからじゃなくて、自分で考えて決めたい」
「うん」
「でも、まだ怖いよ」
美月は正直に言った。
「また、前みたいに自信がなくなるかもしれない。途中で諦めたくなるかもしれない」
「そのときは、また考えればいい」
「……え?」
「迷ったら、迷ったときに考えればいいだろ。今から全部決めておく必要なんてないんだから」
美月は、少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうだね」
彼女はスケッチブックを開いた。
「じゃあ、今日はこの先に何を描くか、一緒に考えてくれる?」
「もちろん」
二人は並んで、紙の上の街を見つめた。
「この橋の向こうには、何があると思う?」
美月が尋ねる。
湊は少し考えた。
「……学校とか?」
「えー、せっかく未来の街なのに?」
「いや、学校だって未来の街にあるだろ」
「それはそうだけど!」
美月が笑い、湊もつられて笑った。
しばらく二人で意見を出し合ったあと、美月は橋の向こうに、小さな広場を描き加えた。
そこには、さまざまな方向へ伸びる道がある。
「この道は?」
湊が尋ねると、美月は鉛筆を動かしながら答えた。
「それぞれ、違う場所につながってるの」
「全部、違う場所?」
「うん。どこへ行くかは、歩きながら決めればいいかなって」
湊はその絵を見つめた。
「……いいな、それ」
美月はうれしそうに笑った。
「でしょ?」
その瞬間、湊はふと思った。
自分はいつから、未来を間違えないための問題だと考えるようになったのだろう。
本当は、未来は問題の答えのように、最初から一つに決まっているものではないのかもしれない。
迷いながら選び、選んだあとで考え、必要なら進む道を変える。
その繰り返しが、自分の人生になっていくのだろう。
湊は、美月の横顔を見た。
そして、心の中で静かに決めた。
もう、数字だけを理由に彼女から離れたりはしない。
*
放課後。
久瀬悠真は、学校の管理端末から取得したログを整理していた。
白峰凛も隣で、古い記録と現行データを照合している。
「……やっぱり、同じだ」
悠真が画面を見つめたまま言った。
「美月の予測を再構成した処理と、湊への接触頻度低減の通知。どちらも、同じ管理系統を通ってる」
凛は顔を上げた。
「つまり、二人の関係を変えようとする処理も、旧モデルに関連している可能性があるのね」
「はい。しかも、普通の予測処理なら、本人が選択を変えれば、その結果をもとに再計算されるはずです。でも今回は違う」
悠真はログの一部を拡大した。
『対象者の行動変化を検出』
『旧評価モデルとの不一致』
『予測結果の安定化を優先』
「本来なら、予測と違う行動があれば、予測のほうを見直す必要がある。でも、ここでは行動を変えさせて、予測に一致させようとしている」
凛の表情が険しくなった。
「……あの頃と同じね」
「ただ、ひとつ違うところがあります」
悠真は別の記録を開いた。
「今回の処理には、特定の対象者を優先する条件があるんです」
画面に表示されたのは、短い一文だった。
『旧評価モデル対象者との行動傾向に類似性を検出した場合、過去評価を優先する』
凛は息をのんだ。
「過去の対象者……」
「はい。美月は、凛さんの友達と行動傾向が似ていると判断されている。だから旧モデルの評価が優先された可能性があります」
「そんな……」
凛は唇を噛んだ。
「でも、あの子と美月は別の人間よ。好きなものが似ていたとしても、同じ未来になるわけじゃない」
「俺もそう思います」
悠真はうなずいた。
「それに、この条件が誰によって設定されたのかもわからない。七年前のモデルに元からあったものなのか、あとから誰かが追加したのか……」
そのとき、画面に新しい通知が表示された。
『管理者権限による設定変更を検出』
悠真はすぐに画面を開いた。
「……今、更新された?」
ログには、新たな設定が記録されていた。
『予測と本人の希望が乖離した場合、予測の安定化を優先する』
『関連対象者への影響評価を開始』
凛は画面を見つめた。
「誰かが、まだ操作している……?」
「そう考えるしかありません」
悠真は端末を操作したが、管理者の情報にはアクセスできなかった。
『参照権限がありません』
「くそ……またか」
悠真は悔しそうに画面を閉じた。
凛は、静かに立ち上がった。
「悠真くん。これ以上、記録を調べるだけでは足りないかもしれない」
「どういうことですか?」
「学校の外にある、旧ORACLEの管理記録を探す必要がある。七年前の検証報告が、どうして公開期間の終了と同時に閲覧できなくなったのか。誰が旧モデルの記録を保管しているのか。それを確かめないと」
悠真は少し考え、うなずいた。
「わかりました。俺も調べます」
「ただし、無理はしないで」
凛は念を押した。
「旧モデルが何をしようとしているのか、まだわからない。相手がシステムだけなのか、それとも人間が関わっているのかもね」
悠真は画面を見た。
「……はい」
そのとき、彼の端末が短く鳴った。
新しいメッセージだった。
送信者は表示されていない。
本文は、たった一行。
『過去を掘り返すな。今度は、君たちの未来も失われる。』
悠真の表情が変わった。
凛も画面をのぞき込む。
「……これは」
「脅し、ですかね」
悠真はメッセージの詳細を開こうとした。
しかし、送信元の情報はすでに消えていた。
記録も残っていない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
凛は、画面の文字を見つめたままつぶやいた。
「……まだ、終わっていないのね」
七年前の出来事は、過去になったわけではなかった。
ただ、見えない場所に隠されていただけなのかもしれない。
そして今、その過去が再び、誰かの未来に触れようとしている。
*
夕暮れ。
湊と美月は、校門を出て並んで歩いていた。
文化祭の準備で遅くなったせいか、通学路にはいつもより人が少ない。
街路樹の葉が風に揺れ、夕日が道路に長い影を落としていた。
「今日は、いっぱい描けたね」
美月が言った。
「ああ。広場もできたし、橋の向こうが少しずつ街らしくなってきた」
「でも、まだまだ完成には遠いよ」
「いいんじゃないか。まだ文化祭まで時間はあるんだし」
美月はうなずいた。
「そうだね。焦らず描いていこうと思う」
少し歩いてから、彼女はふと足を止めた。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「もし、いつか私が絵を描くことをやめたくなったら……そのときも、話を聞いてくれる?」
湊は彼女を見た。
「もちろん」
「もし、ORACLEの予測が本当に当たっていて、私には絵の才能がなかったとしても?」
「それでも」
湊は迷わず答えた。
「美月が描きたいと思っているなら、俺はその気持ちを大事にしたい」
美月は少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
「ただし」
「ただし?」
「俺が何を言っても、最後に決めるのは美月だからな」
美月はきょとんとしたあと、笑い出した。
「なにそれ。そこまで言っておいて、最後は私に任せるの?」
「だって、そうだろ。俺が美月の未来を決めたら、ORACLEと同じになっちゃう」
その言葉に、美月は笑うのをやめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。そうだね」
二人は再び歩き始めた。
しばらくして、美月が口を開く。
「湊くんは、将来どんな人になりたい?」
突然の質問に、湊は少し考え込んだ。
「……まだ、わからない」
「そっか」
「前は、大学に行って、情報工学を勉強して、安定した仕事に就くんだろうなって思ってた。それが一番いい未来なんだって」
「今は?」
「今も、その道が悪いとは思ってない。でも、それだけが正解だとも思わなくなった」
湊は夕焼けを見上げた。
「何かを作る仕事もいいかもしれないし、誰かの役に立つことを考える仕事もいいかもしれない。まだ知らないことが多すぎるから、これから探していきたい」
美月はうれしそうに笑った。
「それ、すごくいいと思う」
「そうか?」
「うん。だって、湊くんが自分で考えた未来なんでしょ?」
湊は少し照れくさくなり、視線をそらした。
「……まあな」
美月は、そんな湊を見て笑った。
夕日が二人の影を長く伸ばしている。
この時間が、どんな未来につながっていくのかはわからない。
けれど、今はそれでよかった。
二人は、自分たちの足で歩いていた。
誰かが示した道ではなく、自分たちが選んだ道を。
その先に何があるのか、まだ知らないまま。
そして、その知らない未来を、少しだけ楽しみにしながら。
その夜。
湊の端末に、最後の通知が届いた。
『将来予測の安定性:低下』
『推奨行動からの逸脱を確認』
『対象者:朝倉 湊』
湊は画面を見た。
かつてなら、不安になっていたかもしれない。
自分は間違った方向へ進んでいるのではないか。
将来、後悔することになるのではないか。
けれど、今は違った。
湊は通知を閉じ、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
美月が描いた、橋の絵のコピーだった。
その端には、小さな光が描かれている。
まだ、何につながる光なのかはわからない。
湊は、その光を見つめてから、紙を机の上に置いた。
「……自分で決めるよ」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
未来は、予測するためだけにあるのではない。
誰かに決めてもらうためだけにあるのでもない。
自分で選び、歩いていくためにある。
たとえ、その先がまだ見えなくても。
その夜、湊は初めて、予測から外れることを恐れなかった。




