#8 君が選ぶ未来
翌朝。
朝倉湊は、教室に入るなり、天野美月の姿を探した。
窓際の席に、美月はいた。
いつもなら、湊に気づくとすぐに手を振ってくれる。昨日描いた絵の続きを見せてくれたり、文化祭の展示について楽しそうに話してくれたりする。
けれど、今日は違った。
美月は机に向かい、端末の画面をじっと見つめていた。
「……美月?」
声をかけると、彼女ははっと顔を上げた。
「あ、湊くん。おはよう」
「おはよう。どうしたんだ?」
「ううん、なんでもないよ」
そう言って、美月は端末を伏せた。
その笑顔は、いつもと同じように見えた。
けれど、湊にはわかった。
彼女は何かを隠している。
「昨日の夜、またORACLEに何か表示された?」
美月の指が止まった。
数秒の沈黙。
それから彼女は、小さくうなずいた。
「……うん」
湊は隣の席に腰を下ろした。
「見せてくれる?」
美月は迷ったあと、端末を差し出した。
画面には、見慣れない警告が表示されていた。
『対象者の希望と予測結果に乖離があります』
『乖離の解消処理:進行中』
その下には、以前と同じ将来予測が並んでいた。
創作・芸術分野への適性は低い。
推奨進路は情報処理・技術系。
そして、最も目立つ位置に、旧モデルの方針が記されていた。
『本人の希望より、予測された適性を優先すること』
湊は画面を見つめたまま、眉を寄せた。
「こんなの、勝手に決められることじゃないだろ……」
「うん。私もそう思う」
美月は、意外なほどはっきりと言った。
「でもね、湊くん。昨日は、ちょっと怖くなっちゃった」
「……うん」
「また前みたいに、自分の絵を信じられなくなったらどうしようって。せっかく描くのが楽しくなってきたのに、また何も描けなくなったらどうしようって」
美月は机の上に置かれたスケッチブックに目を落とした。
「私、強くなれたと思ってたんだ。でも、画面にあの言葉が出てきたら、昔のことを思い出しちゃった」
中学生だった頃。
自分の描いた絵を、初めて誰かに見せた日のこと。
将来は絵を描く仕事がしたいと、勇気を出して口にした日のこと。
そして、ORACLEの評価を見せられた日のこと。
『創作・芸術分野への適性:低』
あの文字を見た瞬間、自分の夢が急に遠いものになった。
努力しても無駄かもしれない。
自分より才能のある人はいくらでもいる。
将来困るくらいなら、最初から別の道を選んだほうがいい。
そう考えるようになった。
気づけば、絵を描くこと自体が怖くなっていた。
「……でもね」
美月は、スケッチブックを開いた。
そこには、空へ伸びる橋が描かれていた。
「昨日、もう一度描いてみたの」
橋の先には、淡い光が浮かんでいる。
まだ何も決まっていない世界。
「描いていたら、少しだけ思い出せたんだ。私、絵が上手だって言われたくて描いていたわけじゃなかったんだって」
湊は黙って聞いていた。
「頭の中にある景色を、誰かに見てもらいたかった。自分が想像した世界を、誰かと一緒に見てみたかった。それが、私の最初の気持ちだった」
美月は鉛筆を手に取った。
「だから、怖くても描こうと思う。今度は、誰かの評価をもらうためだけじゃなくて、自分が描きたいから」
その言葉を聞いて、湊はようやく息をついた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、俺も見るよ。完成した絵だけじゃなくて、途中の絵も。美月が迷ったところも、描き直したところも」
美月は驚いたように顔を上げた。
「途中の絵も?」
「だって、そこにも美月がいるだろ」
一瞬、美月は何も言わなかった。
やがて、頬をほんのり赤くして笑った。
「……湊くんって、本当にずるいね」
「なんでだよ」
「そんなこと言われたら、もっと描きたくなっちゃうじゃん」
「それなら、よかった」
二人は笑った。
端末の画面には、まだ不穏な警告が残っている。
それでも、湊はもう、その数字だけを見てはいなかった。
目の前にいる美月が、自分の意思で未来を選ぼうとしている。
その事実のほうが、ずっと大切だった。
*
昼休み。
湊と美月は、悠真に呼ばれて旧資料室へ向かった。
部屋に入ると、悠真は複数の画面を並べて作業していた。
その横には、白峰凛の姿もあった。
「二人とも、来たな」
悠真は画面を指さした。
「昨日のログを調べていたんだけど、ひとつわかったことがある」
「何がわかったんですか?」
美月が尋ねる。
「今回の書き換えは、通常の予測更新じゃない。ORACLEの内部に残っている旧モデルの処理が、現行モデルの判断より優先されている」
「それって、昔のORACLEが動いているってこと?」
「正確には、旧モデルの一部の仕組みが、今のシステムの中で動いている可能性が高い」
悠真は別の画面を開いた。
「今のORACLEは、昔のモデルをそのまま使っているわけじゃない。予測の精度も上がっているし、以前より本人の希望を考慮する仕組みもある。だけど、過去の評価データや判断基準は、完全には切り離されていなかった」
「つまり、昔の考え方が残っているんですね」
湊が言うと、悠真はうなずいた。
「そういうこと。問題は、なぜ今になって、それが美月のデータに適用されたのかだ」
凛が静かに口を開いた。
「美月が、予測とは違う行動を取り始めたからでしょうね」
「やっぱり、私が絵を描いたから……?」
美月の声が小さくなる。
凛はすぐに首を振った。
「違うわ。あなたが絵を描いたことが問題なのではない。あなたの行動が、古い予測と一致しなくなった。それだけよ」
「でも、システムは、その違いをなくそうとしている」
湊が言った。
「そう。まるで、あなたのほうを予測に合わせようとするみたいに」
凛は、画面に表示されたログを見つめた。
「……あの頃と同じね」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
美月は凛を見た。
「凛さん。昨日、話してくれた友達のことなんですけど……」
凛の肩が、わずかに揺れた。
「私、まだその人のことを何も知りません。どんな絵を描いていたのかも、どんな夢を持っていたのかも」
美月は自分のスケッチブックを抱きしめた。
「でも、その人が好きだったものまで、なかったことにはしたくないです」
凛は、ゆっくりと美月を見た。
「……ありがとう」
その声は、少しだけ震えていた。
「あなたに、そう言ってもらえるとは思わなかった」
「私も、まだ怖いです。自分の絵に自信があるわけじゃないし、将来どうなるかもわかりません」
美月は正直に話した。
「でも、わからないからって、最初から諦めたくないんです」
凛は、しばらく美月を見つめていた。
その表情には、かつての友達の面影を探すような色があった。
けれど、すぐに視線を落とした。
「……そうね。あなたは、あの子とは違う」
美月は少しだけ目を見開いた。
「違う、ですか?」
「ええ。あなたは、あの子と同じ場所に立ちかけている。でも、同じ未来を歩む必要はない」
凛は顔を上げた。
「だからこそ、今度は私たちが、あなたの選択を守らなければならない」
その言葉に、湊は強くうなずいた。
「じゃあ、何から始めればいいですか?」
悠真が画面を操作した。
「まず、学校に残っているORACLEの利用記録を調べる。七年前の検証報告が消えた理由も、旧モデルの参照権限が残っている理由も、そこに手がかりがあるはずだ」
「学校の記録だけでわかるの?」
「全部は無理だと思う。でも、文化祭の時期に旧モデルが呼び出されているなら、学校側の端末にも何か痕跡が残っているかもしれない」
悠真は湊を見た。
「それと、湊。お前にも関係する記録が出ている」
「俺?」
画面が切り替わった。
『関連対象者:朝倉 湊』
『対象者:天野 美月』
『接触履歴に伴う行動変化を検出』
『将来予測への影響:再評価中』
湊は眉をひそめた。
「……俺と美月が一緒にいることまで、調べてるのか」
「そうらしい」
悠真の表情が険しくなる。
「お前の行動も、美月の予測に関係するものとして記録されている」
美月が、心配そうに湊を見た。
「湊くんまで、何か言われちゃうの?」
「まだわからない。でも、俺の進路にも影響が出る可能性はある」
湊は画面を見つめた。
ORACLEが推奨している進路。
国立大学の情報工学系。
それが、ずっと自分にとっての正解だと思っていた。
自分が何をしたいのか、よくわからなかったから。
失敗しない道を選べばいい。
周囲から期待される道を歩けばいい。
そう考えてきた。
けれど今、初めて気づいた。
自分が美月のそばにいたいと思うことまで、予測に合わせて決める必要はない。
「……別にいいよ」
湊は端末から目を離した。
「俺の進路だって、まだ決まってないんだから」
悠真が少し驚いた顔をした。
「お前、前はそんなこと言わなかっただろ」
「そうだな」
湊は苦笑した。
「でも、最近わかってきたんだ。何も決まってないって、悪いことばかりじゃないんだなって」
美月が、隣で小さく笑った。
「うん。私もそう思う」
*
放課後。
文化祭の展示準備が本格的に始まった。
美月は教室の後ろに大きな紙を広げ、完成途中の絵を貼り出した。
そこには、これまで描いてきた街の風景が並んでいた。
高層ビルの間を走る列車。
空中に浮かぶ庭園。
夕焼けを映す巨大な窓。
そして、まだ完成していない橋。
「これ、全部、美月が描いたの?」
クラスメイトの一人が驚いたように声を上げた。
「うん。文化祭の展示に使おうと思って」
「すごいな。こんなに描いてたんだ」
別の生徒も、興味深そうに絵をのぞき込んだ。
美月は少し照れながら説明を始めた。
「この街は、私が想像した未来の街なんだ。便利なものがたくさんあるけど、まだ知らない場所もいっぱいあって……」
話しながら、美月の表情が明るくなっていく。
自分が想像した世界を、誰かに伝える。
その楽しさを、少しずつ思い出していた。
しかし、展示の準備をしていた教師が、壁に貼られた一枚の資料に気づいた。
「天野さん。この資料は何かな?」
それは、悠真が用意したORACLEの評価記録だった。
個人情報にあたる部分は伏せられているが、旧モデルがどのような仕組みで人の進路選択に影響を与えたのか、その概要がまとめられていた。
美月は教師のほうを向いた。
「私たちの展示の一部です」
「展示?」
「はい。未来を予測することと、未来を決めることは違うんじゃないかって。それを、私の絵と一緒に伝えたいんです」
教師は困惑した表情を浮かべた。
「ORACLEの評価を展示するということかい?」
「評価そのものを否定したいわけじゃありません」
美月は、少し考えてから言った。
「ORACLEが、進路を考えるときに役立つこともあると思います。でも、その結果だけで、自分には無理だって決めてしまったら、試すこともできなくなっちゃうから」
教室が静かになった。
美月はスケッチブックを開き、橋の絵を見せた。
「この絵だって、最初から完成した形がわかっていたわけじゃありません。描いてみて、違うと思ったら直して、また描いて。その繰り返しで、少しずつ形になっていくんです」
彼女は絵を見つめた。
「未来も、同じじゃないかなって思うんです」
教師はしばらく黙っていた。
やがて、資料に目を落とした。
「……学校としては、ORACLEの評価を誤解させるような展示にならないか、確認する必要がある」
「はい。わかっています」
美月はうなずいた。
「だから、きちんと説明します。ORACLEを使うなって言いたいんじゃありません。数字だけじゃなくて、自分の気持ちも大切にしてほしいって伝えたいんです」
その声には、迷いがなかった。
教師は、もう一度、展示の絵を見た。
「……わかった。資料を確認したうえで、担当の先生たちとも相談しよう」
「ありがとうございます」
教師が去ったあと、美月は大きく息を吐いた。
「……緊張したぁ」
すぐそばで聞いていた湊が笑う。
「でも、ちゃんと言えたじゃん」
「うん。言えた」
美月は自分でも確かめるようにうなずいた。
「前だったら、先生に何か言われた時点で、やっぱりやめたほうがいいのかなって考えてたと思う」
「今は?」
「今も、ちょっとは思うよ」
美月は正直に答えた。
「でも、やめたくない理由も、ちゃんと考えられるようになった」
湊はうなずいた。
「それなら、十分だと思う」
美月は、壁に並んだ絵を見上げた。
まだ完成していない作品ばかりだった。
けれど、その一枚一枚に、彼女が自分で選んだ時間が刻まれている。
それを、今度こそ誰かの数字だけで終わらせたくなかった。
*
その日の夜。
白峰凛は、一人で古い記録を開いていた。
端末に表示されているのは、七年前の検証報告の一部。
『旧ORACLE評価モデルにおける予測と進路選択の差異に関する検証報告』
公開期間は終了している。
正式な記録の多くは、閲覧制限の向こう側にある。
それでも、凛は保存していた断片を何度も読み返していた。
画面の隅には、昔の文化祭の写真が表示されている。
制服姿の凛と、隣に立つ一人の少女。
二人とも、カメラに向かって笑っていた。
写真の裏に残されていた言葉。
『未来は、まだ決まっていない』
凛は、その文字を指でなぞった。
「……あなたなら、どうしたかな」
問いかけても、返事はない。
あの子がいなくなってから、何年も経った。
凛はずっと、過去を変えることはできないと思っていた。
あの子が選べなかった未来を、取り戻すことはできない。
あの日、言えなかった言葉を、今から届けることもできない。
それでも。
今を生きている誰かの未来まで、同じ形にする必要はない。
「今度こそ……」
凛は、端末の画面を閉じた。
「同じことを、繰り返させない」
そのとき、端末が短く鳴った。
新しいログが届いていた。
『旧評価モデル:OR-07』
『参照対象者:天野 美月』
『過去記録との照合:継続中』
そして、その下に見覚えのない項目があった。
『介入対象者:朝倉 湊』
凛の表情が変わった。
「……湊くんまで?」
さらに、ログが更新される。
『予測の安定性に影響を与える要因を検出』
『要因:対象者間の相互作用』
『対処方針:関係性の変化を評価する』
凛は画面を見つめた。
ORACLEは、美月の絵だけを問題にしているのではない。
美月が自分の未来を選び直すきっかけになったもの。
湊との出会い。
二人が交わした言葉。
互いの選択を尊重しようとする気持ち。
それらまで、予測を乱す要因として扱い始めている。
「そんなことまで……」
凛の胸に、冷たい不安が広がった。
もし、ORACLEが二人の関係を変えようとしたら。
もし、湊にとって美月と距離を置くことが、最も安定した選択だと示されたら。
湊は、今度こそ自分の意思を貫けるだろうか。
そして美月は、自分の夢だけでなく、大切な人とのつながりまで失うかもしれない恐怖に、耐えられるだろうか。
凛は、すぐに二人へ知らせようと端末を手に取った。
けれど、その前に新たな通知が表示された。
『管理者権限による処理を検出』
『処理内容:旧評価モデルの参照範囲を拡張』
『拡張対象:関係者の行動予測』
凛の指が止まった。
旧モデルは、美月の未来を書き換えるだけでは終わらない。
今度は、彼女を支えようとする人たちにまで、その影響を広げようとしている。
それが誰の意思なのか。
美月を諦めさせようとしているのか。
それとも、別の目的があるのか。
まだ、わからない。
ただ、過去の記録が再び動き出していることだけは確かだった。
*
翌日の朝。
湊の端末に、ORACLEから新しい通知が届いた。
『将来予測の再評価が完了しました』
彼は画面を開いた。
『推奨進路:国立大学・情報工学系』
以前と同じ結果だった。
だが、その下に新しい項目が追加されていた。
『特定人物との接触が、将来予測の安定性に影響しています』
『対象者:天野 美月』
『推奨行動:接触頻度の低減』
湊はしばらく、その文字を見つめていた。
以前なら、迷ったかもしれない。
自分の将来を安定させるために、距離を置くべきなのか。
美月の未来を乱してしまうのなら、そばにいないほうがいいのか。
けれど、今は違った。
湊は端末を閉じた。
そして、教室の窓際にいる美月のもとへ歩いていった。
「おはよう、美月」
美月が顔を上げる。
「湊くん! おはよう」
彼女の手には、昨日のスケッチブックがあった。
「昨日の続き、描いてきたんだ」
「見せて」
美月はうれしそうにページを開いた。
橋の向こうに、小さな建物が増えていた。
その周囲には、いくつもの道が伸びている。
どの道が正しいのかは、描かれていない。
それぞれが違う場所へ続いている。
「この道、全部違うところにつながってるのか?」
「うん。どこへ行くかは、まだ決めてないの」
美月は笑った。
「描きながら考えようと思って」
湊は、その絵を見つめた。
自分の未来も、まだ決まっていない。
何を学びたいのか。
どんな仕事をしたいのか。
これから誰と出会い、何を大切にしていくのか。
今の自分には、わからないことばかりだ。
それでも、わからないからこそ、自分で考えられる。
「……俺も、考えてみようかな」
「何を?」
「自分が、本当は何をしたいのか」
美月は少し驚いてから、やわらかく笑った。
「うん。きっと、見つかるよ」
「すぐに見つからなくても?」
「もちろん。私だって、まだ途中だもん」
彼女はスケッチブックを抱えた。
「一緒に考えようよ。未来のこと」
湊はうなずいた。
「ああ。一緒に考えよう」
二人の前には、まだ何も決まっていない未来が広がっていた。
その未来を、誰かが先に決めてしまおうとしている。
それでも、二人はまだ知らない道を歩こうとしていた。
端末の画面は、静かに暗くなっている。
そこに表示されていた推奨行動を、湊はもう見返さなかった。
美月と過ごす時間が、将来の予測にどんな影響を与えるのか。
そんなことよりも、今は彼女が描く世界の続きを見たかった。
まだ完成していない橋。
その先に広がる、誰も知らない景色。
湊は思った。
未来がわからないことは、もう怖くない。
怖いのは、未来がわからないという理由で、誰かが選ぶ権利を奪われてしまうことだ。
そして今、彼は初めて、自分の意思で選ぼうとしていた。
たとえ、その選択がORACLEの予測から外れるとしても。
未来は、まだ決まっていない。




