知っている草原
俺が一匹倒すのに五分かかったスライムを、通りすがりの老婆は、くしゃみ一つで三匹まとめて吹き飛ばした。
「あら、ごめんなさいね。今日は花粉がひどくて」
老婆は鼻をすすった。
青い塊は三匹とも草原の彼方へ消えていた。
白い髪を後ろで束ねた老婆は、両腕に洗濯物の詰まった籠を抱えている。武器も防具もない。どこからどう見ても、川へ洗濯に来ただけだった。
俺は〈旅人の剣〉を握ったまま、その背中を見送った。
足元では、初めて倒した一匹が淡い光になって消えていく。
胸の奥で小さな音が鳴り、視界の端へ半透明の文字が現れた。
《レベルが2に上がりました》
「よし」
思わず拳を握った。
三枝透、二十六歳。異世界生活初日。
職業はなし。所持金もなし。装備品は、目を覚ましたときから腰に下がっていた剣が一本。
そして、現在のレベルは2だった。
少し前。
気がついたとき、俺は草原の真ん中に立っていた。
どうやって来たのかは分からない。
直前まで何をしていたのか思い出そうとすると、頭の奥へ白い霧がかかる。少なくとも、休日に一人で登山をしていたわけではない。会社帰りの革靴で草原を歩く趣味もなかった。
最初は夢だと思った。
だが、足首へ絡みつく草は濡れていた。風が吹けば土と花の匂いがした。靴の中へ小石が入り、歩くたびに踵が痛んだ。
何より、目の前の景色を知っていた。
南へ緩やかに下る草原。その先で二股に分かれる川。西に一本だけ立つ白い木。北の稜線には、途中で折れた角のような岩が突き出している。
何度も見た場所だった。
王道の剣と魔法、とは少し違う。
職業を何度も変えて成長率を調整し、魔物ごとの出現時刻を調べ、装備品の組み合わせで能力値を一つずつ詰めていく。そんな妙に細かいところへ力の入ったゲームの開始地点だ。
「ステータス」
半信半疑で口にすると、目の前へ半透明の板が現れた。
三枝透。
二十六歳。
レベル1。
ほかにも体力や筋力、魔力を示す数字が並んでいたが、どれも見慣れた初期値だった。名前と年齢だけは俺自身。それ以外は、新しく作ったばかりの登場人物と同じである。
装備欄には、さらに見慣れた名前があった。
《装備:〈旅人の剣〉 攻撃力+1》
腰を見ると、革の鞘に収まった剣が下がっている。ゲームで新しく人物を作ると、自動的に装備している最弱の武器だった。
鞘から少し抜いて刃へ指を当ててみたが、押した程度では皮膚も切れない。頼りないが、この剣は開始地点の魔物を相手にするには十分だった。
普通なら絶望する場面なのかもしれない。
俺は笑った。
レベル1なら、伸びしろしかない。
どこで魔物が出るか知っている。
どの時間帯なら安全か知っている。
どの職業をどの順番で経験すれば、能力値を無駄なく伸ばせるかも知っている。
強い武器はない。頼れる仲間もいない。
だが、この世界について何も知らないわけではなかった。
知識ならある。
それはレベルにも所持品にも表示されない、俺だけのもう一つの初期装備だった。
まず目指したのは、西の白い木だった。
その根元から北西へ百二十歩。草に隠れた窪地には、昼間だけ活動を止める《眠り粘体》が出現する。
ゲームを普通に進めるなら、剣で数匹倒してから町へ向かう場所だ。
眠っている個体を一匹ずつ起こし、跳躍の予兆に合わせて弱点を叩けば、レベル1でも無理なく倒せる。
低レベル攻略では有名な狩場だった。
地形は記憶どおりだった。
窪地の底に、半透明の青い塊が四匹。陽光を浴びながら、呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。
俺は音を立てないよう近づき、腰から剣を抜いた。
最初の一撃は、申し訳ないほど簡単に入った。
鈍い刃が青い身体へ沈み、遅れて、ぱん、と弾き返される。手首に軽い痺れが残ったが、痛いというほどではない。
眠り粘体が目を覚ました。
青い身体を平たく潰し、力を溜める。
ゲームで何度も見た跳躍の予兆だった。
俺が横へ一歩退くと、粘体はさっきまで足のあった場所へ飛び込んだ。速くはない。予兆を知っていれば、運動不足の会社員でも十分に避けられる。
着地した瞬間、身体の中央へ黒っぽい核が浮かび上がる。
そこを剣で叩いた。
一撃。
粘体が跳ねる。
もう一度かわし、二撃目。
三度目に核を叩くと、青い身体が形を保てなくなった。
初めて見る実物の動きと、剣を振る感覚を確かめながら戦っても、五分ほどだった。途中で一度、避ける方向を間違えて足首へぶつかられたが、少しよろめいただけで済んだ。
初心者用の魔物は、現実になっても初心者用だった。
格好のいい戦いではない。
だが、この剣でも無理なく勝てる。知識があれば、さらに安全に倒せる。
俺の方法は正しかった。
その確信を得た直後に、老婆がくしゃみをしたのである。
三匹は、光になって消えたわけではない。
遠くの草むらで一匹が青い身体を起こし、何事もなかったように這い始めている。倒されたのではなく、純粋な力であそこまで飛ばされたらしい。
スライムが見た目ほど重くない可能性はある。
だが、俺はたったいま、剣の一撃を弾き返されている。風に舞う綿毛のような相手ではない。
くしゃみに見せかけた魔法か。
装備品の効果か。
それとも、この老婆自身の能力か。
分からない。
ただ一つ、スライムの行動と強さはゲームの記憶に一致していた。
スライムは知っている。
未知なのは、この老婆だ。
なら、先に疑うべきなのは「あの老婆は戦う力のない村人だ」という俺の認識だった。
ゲームに登場した町や村の住民は、調べても全員レベル1だった。戦闘へ参加せず、攻撃の対象にもならない。だから俺は、表示された数字をそのまま能力だと思っていた。
だが、あれがゲーム上必要のない能力を省略した仮の数字だったとしても、プレイヤーには見分けがつかない。
一人を見ただけで、世界全体の規則が変わったとは決められない。
まず疑うべきは、見た目と職業を隠して暮らす高レベルの元冒険者。次に、ゲームでは数値を省略されていた特殊な住民。
元冒険者なら戦い方を教わえる。どちらの場合でも、この土地の事情を聞く価値はある。
どちらにしても、このまま帰してはいけない。
我に返ると、老婆は川沿いの道を歩き始めていた。
「待ってください」
呼び止めると、老婆は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? どこか怪我をした?」
「いえ。さっきから見ていたんですか」
「川へ来る途中からね。ずいぶん慎重に相手をしているから、何かの調査かと思って」
どうやら遊んでいたとは思われていないらしい。
老婆は洗濯籠の隙間から小さな水筒を取り出し、俺へ差し出した。
「若いのに熱心ね。少し休みなさい」
「ありがとうございます」
冷たい水が喉へ染みた。
くしゃみでスライムを吹き飛ばす人物から手渡された物だが、飲んでも体力が全回復したり、特殊な能力が付いたりはしなかった。ただの水だった。
「失礼ですが、以前は冒険者だったんですか」
「私が?」
老婆は目を丸くしてから、楽しそうに笑った。
「仕立て屋よ。いまは娘夫婦に店を任せているけれど」
元勇者でも、伝説の武闘家でもなかった。
仕立て屋だった。
「では、さっきのスライムは」
「畑に入ると苗を傷めるから、そのときは外へ払うわね。ここにいる分には、放っておけばいいんじゃないかしら」
俺が初戦で五分かけて倒した相手は、駆除すべき害獣にすら数えられていなかった。
仕立て屋という現在の職業は分かった。
だが、それだけで過去の戦闘経験まで否定はできない。
それでも、話を聞く価値は消えていない。
俺は水筒を返し、改めて老婆へ頭を下げた。
「お願いします。俺を弟子にしてください」
「仕立ての?」
「いえ、戦い方を」
老婆は少し考え、申し訳なさそうに首を横へ振った。
「私、生まれてからずっと仕立て屋だけど」
本人の経歴と、俺の仮説は一致しなかった。
だからといって、目の前で起きたことまで消えるわけではない。
「戦うことは教えられないわ。でも、町で困ったら川沿いの店へいらっしゃい。この辺りのことなら、少しは教えられるから」
「……ありがとうございます」
弟子入りには失敗した。
だが、見知らぬ町で頼れる相手が一人できたのなら、頭を下げた価値はあった。
少し離れた草むらから、新しい眠り粘体が顔を出した。
老婆は俺へ遠慮したのか、今度はくしゃみをこらえながら窪地を離れていく。洗濯物を満載した籠を片腕へまとめ、俺が苦労して下りた斜面を一歩で上がった。
やはり普通ではない。
ただし、それがこの老婆だけの特別なのか、この世界の普通なのかは、まだ分からない。
「町は、川沿いに進めば着きますか」
「ええ。日が暮れる前には着くわ。でも、疲れているなら無理をしないでね」
「大丈夫です。もう少しだけ、ここで調べたいことがあります」
体力はほとんど減っていない。
レベルが上がったことで、腕の重さも少しだけ消えている。
草むらには一匹。窪地の奥に二匹。先ほど飛ばされた三匹も、倒されたわけではない。時間が経てば戻ってくるかもしれない。
俺は地面へ三つの円を描き、出現地点と移動距離を確認した。
次は一分もかけない。
一匹目で攻撃の重さは分かった。音への反応も、実物の跳躍距離も、核が浮かぶ時間も確認できた。ゲームの知識へ、さっき得た経験を足せばいい。
今日中にレベル3。
明日には複数の出現地点を巡回し、三日後には最初の職業へ進む。
老婆一人の強さに驚いている場合ではなかった。
俺には、この世界の攻略法がある。
新しく現れたスライムへ向け、俺は剣を構えた。
今度は最初から、段差の上に立っていた。
粘体が身体を沈める。
横へ避ける。
着地と同時に浮かんだ核を、剣で三度叩く。
青い身体が光へ変わるまで、四十七秒だった。
「なるほど」
一匹目は五分。二匹目は四十七秒。
実物を知った俺の攻略法は、きちんと速くなっている。
「今度は早かったわね」
声に振り向くと、老婆が斜面の上で足を止めていた。
「慣れれば、これくらいは」
「そう。運動が苦手な私には、細かいことは分からないけれど」
聞き捨てならない言葉だった。
「運動が、苦手?」
「昔からねえ。走るのも遅いし、重い物も持てないの」
老婆はそう言いながら、洗濯物を満載した籠を片手で持ち直した。
俺が両腕で抱えても、腰を痛めそうな大きさだった。
「それじゃあ、気をつけて」
老婆は空いた手を振り、今度こそ川沿いの道を歩いていった。
自己申告では、生まれてからずっと仕立て屋で、運動も苦手。
観察した事実は、俺の剣でもほとんど動かせなかったスライムを、くしゃみで三匹まとめて飛ばしたこと。俺には持ち上げられそうにない籠を、片手で運んでいること。
言葉をそのまま信じるなら、この土地では彼女以上の身体能力が普通に存在する。
言葉を疑うなら、彼女には経歴を伏せる理由がある。
どちらを採るにしても、一人分の情報では足りなかった。
視線を川の先へ向ける。
老婆が教えてくれた町の屋根が、遠くに小さく見えていた。
町へ向かう川沿いには、ゲームで使った出現地点があと二つある。魔物の再出現を確かめながら進めば、そこで暮らす人間も観察できる。
次に調べるべきなのは、魔物ではない。
この土地の人間だった。




