第75話 魔王らしくなってきたじゃねえか
時間は少し遡る。
「――冥府の門を開けてセドガニアを墜とす?」
スノウビィの言葉にムラマサは顔をしかめた。
「何のためにだ? まだ人類と戦争する時期じゃねえぞ」
「もちろん、吸血鬼さんを倒すためです」
「どうやってだ。冥府の門なんて開けたってなんもならねえだろ」
「本来はそうです。しかしこの塔には、冥府から呼び寄せた魂を一度魔力に変換する機構があります。それを用います」
「? つまり何をするって話だ?」
「もう、ムラマサさんも少しは教養をつけてください。つまり、この塔を使えば無尽蔵の魔力が使えるということです。個人では不可能な規模で黒魔法が行使できるのです」
いくらスノウビィが桁外れの魔力を持つ黒魔導士とはいえ、個人で実現可能な魔法には限界がある。
しかしこの塔を使って無限の魔力をバックアップに魔法を使えば、スキルの効力が許す限り無制限に黒魔法が使用可能になる。
スノウビィほどの黒魔導士が自身の限界をも超える魔法を使えるとなると……その規模は計り知れない。
「なんだ? セドガニアに隕石でも落とすつもりか?」
「それもいいかもしれませんが、それだと確実性が乏しいですね」
「まあ、向こうにグレイベアがいるなら、隕石程度じゃ心許ないな」
馬鹿げた話だが、グレイベアなら隕石が降ってきてもしれっと生き延びていそうな気がする。
「もっといい方法があります。召喚魔法で魔獣を召喚するのです」
「……? それこそ無謀だろ。グレイベアに勝てる魔獣なんて召喚できんのか?」
召喚魔法はその名の通り何らかの魔物を召喚する黒魔法だ。
魔人が行った場合は呼び出された魔物と無条件に血の盟約が結ばれ、召喚獣は魔獣として召喚される。
黒魔法の中でも難易度が非常に高く、また強力な魔物を召喚しようとすると相当な高レベルが必要になる。
魔人の中でも使いこなす者は稀で、かつ大量のスキルポイントが必要になるため、召喚魔法を極めるつもりならば他の道は諦める方が無難だとされている。
が、稀代の黒魔導士としての適性を供えたスノウビィは召喚魔法も嗜んでおり、そこらの召喚士よりも遥かに強大な魔獣を召喚可能ではある。
とはいえ、グレイベアを倒せる召喚魔獣となればS-90相当は欲しい。
そんな魔獣の召喚はスノウビィを以てしても不可能だ。
「お恥ずかしながら……わたくしが召喚できる召喚獣ですと、S-60程度が限度でしょう」
恥じ入るように頬を染めるスノウビィ。
ちなみに、S-60相当の魔獣を召喚するというのは一流の召喚士の仕事だ。
とはいえ、一流程度の召喚士が真似られる程度の技術という時点で、スノウビィが扱う魔法としては粗末ではあるのだが。
召喚はスノウビィの専門ではない。あくまで『嗜む』程度しか習得していないのだ。
「じゃあ無理じゃねえか。グレイベアどころかブラッディ・リーチも倒せねえよ」
「ええ。ですから、たくさん召喚します」
「――あー……そういうことか。魔力が無限にあるんだったか」
それならば話は変わってくる。
ムラマサにもようやくスノウビィの言いたいことが分かってきた。
「たくさんってどれくらいだ。二、三〇〇体じゃグレイベアは倒せねえぞ」
「ムラマサさん。ですから、無限です」
「んー…………なるほど」
初めはスノウビィがまた馬鹿なことを言い出したと思ったムラマサではあったが、どうやら本気で作戦を考えているらしい。
そういうことであればムラマサも真剣に話に付き合うことにした。
「どうやってブラッディ・リーチの居場所を突き止める。お前でも具体的な座標までは分からないんだろ?」
「呼び出した召喚獣に、それぞれ探知魔法と同等の効果を付与します」
「え、すげえ。そんなことできんのか?」
「可能です。召喚獣として極めてシンプルな呼び出し方をします。肉の身体ではなく、魔力体として呼び出します。『獣の形をしたファイアー・ボール』と言えば分かりやすいでしょうか。体があっても、その本質は魔法的な存在なのです」
「あーなるほど」
「と言ってもその召喚獣が追跡するのは私が感じ取っている血の盟約の気配になりますから、発見するまではこちらからこの塔で操作してあげる必要があります。それぞれがビーコンの役割をし、セドガニア周辺を広範囲に渡って探索します。この方法であれば、一体でも吸血鬼さんの盟約の気配を察知すれば、あとは自動的に襲ってくれます」
「じゃあ飛行型の方がいいな」
「ドラゴンにいたしましょう!}
目を輝かせてスノウビィが提案した。
「お前ほんとドラゴン好きだな」
「だってかっこいいじゃありませんかドラゴン! 私ドラゴンさん大好きです!」
スノウビィのドラゴン好きは今に始まった話ではない。
移動用の魔獣を召喚するときなども、いつもドラゴンを呼び出すほどだ。
「まあいいや。とにかく、ドラゴンを大量に召喚して、そいつらにブラッディ・リーチを殺させるわけだな」
「はい、その通りです」
ムラマサも方法は理解した。
いくらドラゴンといえども、S-60程度では何百体でかかってもグレイベアに返り討ちに遭うだろう。
が、それが無限となればいつかは押し切られるしかない。
しかも狙うのはあくまでもブラッディ・リーチだ。最悪グレイベアは倒し切れなくてもいい。そういう前提ならば、可能性はそれなりにあると見立てていいだろう。
細かい制約や魔法的な理論はムラマサにはさっぱりだが、少なくともスノウビィが可能だと言っている以上可能なのだろう。
だが問題は他にもいくつかある。
「この前も言ったが、人類との戦争はまだ早いぞ。その引き金になるようなことはできねえ」
ムラマサ的には別に今すぐ人類と全面戦争が始まっても構わないが、魔族の総意として、今はまだ人類に攻め込む段階ではないと判断されている。
その筆頭はカルマディエだ。彼女はこの件に関して特に慎重な姿勢を見せている。
二年前の大戦で大損害を被った人類ではあるが、魔族もまた相当な消耗を強いられた。
ムラマサ以外の四天王は全て倒され、血の盟約の呪いによって魔族の総数自体が大きく減少した。
そのケースをあらかじめ想定し準備していなければ、それこそ魔族の半数以上が死滅していた可能性すらあった。
結果的には魔族優勢のまま戦争は決着したが、魔族内の混乱は未だに続いている。
そんな状態で起こった、四代目魔王の突然の引退。
四代目魔王、フルーレはその圧倒的な力以上に、絶大なカリスマを持った魔王だった。
彼女だからこそ戦後の混乱も最小限に収まり、魔族はその勢力を衰えさせずにすんでいた。
しかしフルーレなき今、その後釜となったスノウビィに、今のところそれほどのカリスマはない。
もともと誰も知らなかった無名の魔人だ。
四天王選定の際の強権濫用も、スノウビィに超絶な力があったからこそまかり通ったようなもの。未だに水面下でが波紋が広がったままだ。
そんな状態で人類に攻め込むのは得策ではない。
今はとにかく消耗した魔族を万全の状態に戻すのが先決だ。
ならばこんなところで人類の主要都市を襲撃し、戦争の引き金を引くことはできない。そんなことをすれば魔族内でのスノウビィの立場は今度こそ危うくなるだろう。
「それについてはご心配には及びません。この一件で私たちのことが露見することはありません」
「根拠は?」
「この施設を調べて分かったのですが、この研究はバラディア国が関与していない、完全な独立機関によって進められたものです」
それについてはムラマサも同意見だった。
でなければヴェノム盗賊団のような組織と繋がりがあるはずがない。
「冥府の門を開ける装置を作ったのも、魔術式を構築したのも、全てはこの研究機関の皆さんです。私はその魔術式を少し書き換えるだけですもの。今回の一件は、あくまでもこの研究機関の人々の……そうですね、テロ行為として処理されるでしょう」
「俺にはよく分からねえんだが、魔術式ってのを弄ったらお前のことがバレたりしないのか?」
「可能性としてはゼロではありませんが……ではこの術式が停止した瞬間に、塔を暴走させて魔力爆発を起こしましょう。この塔もろとも魔術式を破壊して証拠を隠滅します」
「……ふむ」
思ったよりも、スノウビィもかなり本格的に作戦を考えているらしい。
ムラマサがパッと思いつくような問題点への対処法もしっかりと考えているらしい。
「塔を破壊するって言ったが、同じタイミングで呼び出した召喚獣も消せるか?」
「可能ですが、そういたしますか?」
「ああ。やるならそこまで徹底しようぜ。ドラゴンの死体を調べられて足がつくのもくだらねえ。どうせバラディアの連中が騒動に気づいてこの塔を止めにくるのはかなり後になるだろうし、しばらくは俺が追っ払う。それだけの時間でグレイベアを仕留められないなら、この場は諦めるのが正解だろうな」
「畏まりました。ではそのように」
これで、最低限の問題点はクリアされているように思える。
ムラマサは違う角度から切り込むことにした。
「そもそもなんだが、そんな大がかりなことする必要あるのか?」
こういうまどろっこしい真似はムラマサの好むところではない。むしろカルマディエのやり方に近い。
スノウビィもムラマサ寄りの性格のはずだ。小手先の技術に頼るくらいなら力でゴリ押しするタイプだ。
「この方法にはいくつもの利点があります」
「どうぞ」
「まずこの塔の実験ができます」
「ん?」
よく分からず首をかしげるムラマサ。
「私はこの研究をいずれは魔人で独占したいと考えています。そのため、この塔は今日中に破壊してしまおうと思っていますが、せっかくここまであつらえてくださったのですから、それを一度も試さず破壊するなんてもったいないじゃありませんか」
「……」
思ったより俗っぽい理由だな、とムラマサは呆れた。
「それに、この方法なら私は今日中に人間領から撤退できます」
「ほう」
その利点にはムラマサも手放しで喜べた。
スノウビィの魔力量は、既に占星術にかかっていてもおかしくないほどに強大だ。
人間領に滞在する時間は短ければ短いほどいい。
「この二日間吸血鬼さんの気配を追い続けていますが、未だにセドガニアから移動する気配はありません。このまま数日粘られてしまいますと、いろいろ不都合がありますよね?」
「まあ、確かにな」
それはムラマサも思っていたことだ。
ブラッディ・リーチがセドガニア南方で動きを止めたまま二日が経過している。
セドガニアの北部にあるこの塔で待ち構えていればブラッディ・リーチを待ち伏せできると考えていたが、予想以上に動きがないためムラマサも訝しんでいたのだ。
一日でも早く魔族領に帰還したいスノウビィにとって、いつ動くかわからない相手をこれ以上待ち続けるのは得策ではない。
しかしスノウビィが自らセドガニアに出向くわけにはいかない。
その問題を解決する方法として、召喚したドラゴンにセドガニアを襲わせるというのは、決して悪い手ではない。
「確実性の観点から、最悪吸血鬼さんを取り逃がす可能性もありますが、この研究にはそれだけの価値があると思います。研究成果を速やかに魔王城に持ち帰り、カルマディエさんにお渡しして研究を稼働させる方が優先順位は高いでしょう」
「……研究の実験、ツインバベルの破壊、ブラッディ・リーチへの襲撃……全部を一度に出来て、かつお前はこれ以上リスクを冒して人間領に留まる必要もなくなる、か……」
スノウビィがわざわざ人間領に足を運んだのは、居場所が不明なブラッディ・リーチの座標を血の盟約から探るためだ。
逆に言えば、ブラッディ・リーチがルドワイア帝国に逃げ込んだと分かったならば、わざわざスノウビィが人間領に留まる意味もなくなる。
ルドワイア帝国に潜り込んだブラッディ・リーチを探り出すのは骨が折れる仕事ではあるが、少なくともスノウビィの存在が人類に露見し戦争の発端になるリスクは回避できる。
それ以上に魔族の利益となる研究を見つけた以上、最悪のケースを引き当てた場合ですら許容範囲内に収まる作戦だ。
しかもその後始末の必要すらないというのも素晴らしい。
この塔に気づいて攻め込んできた者たちは、まず召喚魔法を停止させようとするだろう。
その瞬間、魔術式は停止し、それを引き金として塔を爆破。ドラゴンを含めこの塔の術式も全て消え去る。
つまりスノウビィの存在を裏付ける証拠は、放っておいても勝手に消えてくれるというわけだ。
「悪くないかもな」
「ですよね! ふふん。いかがです? 意地悪なムラマサさんも、わたくしのこの作戦にはぐうの音も出ないのではありませんか?」
「はいはい。じゃあ残る問題は時間だな。開始までどれくらいかかる」
「うふふ、実はもうほとんど終わっています」
得意げに胸を張るスノウビィ。
「……お前」
「はい、実は昨夜からもう魔術式を構築していました。後は今稼働している魔術式と入れ替えるだけで起動できます」
「……」
こいつ……。
ムラマサはジト目でスノウビィを睨み付けた。
提案も何も、スノウビィはとっくにそのつもりだったのだ。
ほとんど事後報告じゃねえか、と悪態を吐きたい気分だった。
「メインタワーの連中に気づかれるんじゃねえのか? よく知らねえが、こっちがサブで向こうがメインなんだろ? 妨害されたりしねえのか?」
「大丈夫です。わたくしが書き換えた魔術式によって、『ツインバベル』の主導権を奪い取ります。つまりこちらがメインタワーになるということですね」
「へー、すげえじゃん。よくわかんねえけど」
「冥府の門を開けた段階で、おそらくメインタワーが主導権を奪い返そうと妨害してくるでしょう。リアルタイムでの魔術式の競い合いになりますが、もちろんわたくしが勝ちます。……うふふ、そういう競い合いは久しぶりです。腕が鳴りますね」
楽しそうに笑うスノウビィ。
これからセドガニアを地獄に叩き落とす者とは思えないほどに、その姿は愛らしく美しかった。
そんなスノウビィを見て、ムラマサは小さく呟いた。
「……普段はすっとぼけて考えなしの馬鹿丸出しな癖に、こういう悪だくみ考えてるときはウキウキしながら急に頭がキレやがる」
そういう者に、ムラマサは一人心当たりがあった。
「――やっぱ似てるよお前ら」
――そして地獄の門が開かれる。
魔術式の置換は滞りなく行われた。
メインタワーの者たちはまだ異常に気付けていないだろう。やがてサブタワーが独りでに冥府の門を開けその異変を察するだろうが、遅すぎる。
スノウビィによって書き換えられた巨大な魔法陣が青白く発光する。
サブタワーが稼働し、轟々と地響きが鳴り始める。やがてサブタワーの頂上付近に紫電が発生し、サブタワー上空に暗雲が立ち込める。
発光する魔法陣の中心に佇むスノウビィが、そっと両手を広げて召喚魔法を発動した。
「――さあ、冥府の門を開きましょう」
静謐な雪のような声音。
その言葉に導かれるように、魔法陣の発光が強まっていく。
「――『ここより先は黄泉の国。いずれ潜りし魂魄の門』――」
スノウビィの詠唱が始まる。
それに伴いサブタワー上空の紫電が勢いを増し、暗雲が泥のように濃くなっていく。
「――『等しく集う死の坩堝。現世と別つ境界に、表裏を繋ぐ孔を打つ』――」
やがて紫電を編むかのように、サブタワー上空に縦長の亀裂が発生する。
ガラスが割れるように空間がこじ開けられ、サブタワーが激震する。
亀裂の中に広がるのはひたすらに暗黒。その闇こそが、死者の魂の集う冥府の世界に他ならない。
「――『底は昏く、天は高く。しかして此処は懐かしき』――」
まるでオーケストラの指揮者のように、スノウビィが軽やかに指を振る。
それはまさしく魂の導き手の姿であった。
亀裂から溢れ出た冥府の魔力が塔の内部にまで入り込んでいく。その中に含まれる夥しい量の魂が、余さず全てスノウビィに平伏する。
この実験で呼び出される魂は、魔導具に吸わせるために魔のエネルギーである必要がある。
そんな魔族の魂たちが、召喚者であるスノウビィに――そして魔族の支配者たる魔王に平伏し、その望むままに全てを差し出す。
やがてその魂のうねりが召喚魔法として顕現し、魔性の身を以て具現化する。
「――さあ、おいでください。この世はかつて皆さんが、その『力』のままに生を謳歌した大地。今再び、力はここに。魔性の王の名の下に、あらゆる暴虐を認めましょう」
その言葉が最後の堰を切ったのか。
――亀裂の中で蠢いていた黒い塊が、次の瞬間に溢れだした。
塞き止められていた河が氾濫するかのように、濁流のように黒い塊が亀裂から飛び出していく。
それらは全て、漆黒のドラゴン達だった。
影を塗り固めたように一点の淀みもない漆黒の表皮。
全長一〇メートルほどの飛竜。眼球すらも黒く塗り潰れた異様な見た目の中に、ドラゴン特有の獰猛さをそのまま宿した怪物だった。
そんな黒竜が次々と亀裂の中から空へ飛び出していく。
一〇体。五〇体。気づけば一〇〇を超え、やがて黒竜の群れが空を覆い始める。
幾百の黒竜の吠え声が空を貫き、彼方の山に反響する。
彼らはその魂に刻み込まれた命令のみに従い、ひたすらにセドガニアを目指して飛び立っていく。
「うっへえ……こりゃ壮観だ」
夥しい黒の奔流を眺めながらムラマサが興奮気味に呻く。
この物量は十分に一国を墜とし得る戦力だ。二年前の大戦を思い出させる光景に思わずムラマサの闘争心がくすぐられる。
あれだけの竜を来る端から斬り飛ばせればどれだけ爽快だろうか。
「お気に召しましたか?」
「ああ、こりゃいいや。この魔法を見りゃ、マジでフルーレを超えたってほざいても誰も文句言わねえよ」
無自覚ではあるが棘のあるムラマサの言葉にスノウビィが僅かに不愉快になる。
「……そういえば、フルーレもセドガニアに来ているんでしたか?」
「ああ、そういやそうだな。あれが二日前だから……急げばそろそろ着いてもおかしくないな。到着早々、あいつには災難なことになってるがな。だははは!」
愉快そうに笑うムラマサとは裏腹に、スノウビィは真剣な面持ちで、飛び立っていく黒竜の群れを見つめた。
サブタワーのバックアップがあるとはいえ、これほどの規模で召喚魔法を実現した黒魔導士は、過去の歴史を見ても存在しないだろう。
黒魔法の天才的な才能を持つスノウビィが、四代目魔王の力を受け継いだからこそ成し得た、奇跡に等しい御業だ。
おそらく、同じく黒魔法に秀でたフルーレであってもここまでの魔法は使えなかったはず。
「……」
だが、それでもスノウビィの心は少しも満たされない。
どんな偉業もまるで無価値に感じられた。
――何故なら、スノウビィが超えるべき最強の魔王は……もういない。
くだらない遊興のためにその力をスノウビィに明け渡し、脆弱な存在へと成り下がった。今のフルーレなど、スノウビィにしてみれば鼠にも等しい虫けらだ。
「……ああ」
……だから、満たされない。
この手であの魔王を倒すまで、スノウビィの願いが果たされることはないのだ。
「……なんて、不自由なんでしょう」
――『誰よりも強くなりたい』? そう、なら私の力、あげましょうか?
――私の力を奪えば、あなたは誰よりも強くなれる。願いを叶えて、不自由を克服できる。
――でもその代償に、あなたは一つの不自由に支配される。もう私を超えられないという不自由にね。
――あははっ。悪いわねビィ。勝ち逃げさせてもらうわ。
「……」
ギリ、とスノウビィが歯を噛みしだく。
「じゃあ、後は俺の仕事だな。じきにこの塔に騎士団が派遣されるだろうから、適当に追っ払うよ。ただ長居は無用だ。撤収する準備だけはしとけよ」
「……はい、お願いいたします」
去っていくムラマサの背も見送らず、スノウビィはただかつての思い出に思いを馳せていた。
「――フルーレ。見ていますか?」
どこにいるとも知れないフルーレに向けて、スノウビィはひっそりと囁いた。
「わたくしは貴女を超えましたよ。今の貴女など、わたくしの足元にも及びません。……そうでしょう?」
もし今の彼女がこの黒竜と戦えば問答無用で殺されるだろう。
いっそそんな無様な死に様を晒してくれればスノウビィの気も少しは晴れるというものだ。
「恐れてください。わたくしの力を。後悔してください。わたくしに力を譲ったことを。冒険者になって、魔王を討伐するのでしょう? ――わたくしはここにいますよ。ここにいらっしゃって、フルーレ。わたくしは――貴女に会いたい」
悲痛なほどの祈りを込めて、スノウビィはフルーレがこの塔を訪れることを願った。
今の自分の力を彼女に存分に見せつけてやりたかった。
その強大すぎる力にフルーレが恐れおののく姿が、どうしても見たかった。
つい数ヶ月前まであれほど近くに感じていたフルーレとの距離がたまらなく遠く感じて、スノウビィは無性にフルーレに会いたくなった。
スノウビィは冷たい塔の中で、届くはずのない手をそっと虚空に伸ばした。
「会って――貴女を殺したい」




