参 「その偽物を見るような、疑う目はなんだよ」 4
琥珀達の活動の拠点値、久恒神社。その裏にある琥珀の家。
そこの一室、四畳半の和式の部屋に琥珀と蝶々は座っていた。
畳の上に所狭しと置かれた大小さまざまな本。
ジャンルに統一性はなく、ホラーやミステリー、ロマンスや青春、図鑑や百科事典や辞書…。
漫画もあるし、雑誌もあるし、もちろん小説もある。
そんな乱雑に散らかった本を肘掛にして、二人は向かい合って座っていた。
蝶々は相変わらず十二単を着ていたが、長く美しい髪はツインテールに結ばれている。
琥珀の格好は、上はノースリーブのシャツ。下は昨日とは違うダメージジーンズを履いている。
「記憶を奪う妖怪って、いたか?」
「私様の記憶じゃと、なかったはずじゃ」
「だよな」
二人は夢現環の病状、記憶喪失について話し合っていた。
斎蓮真による依頼でもあったし、何より久恒神社の敷地内で環が霊に襲われたからだ。
早急な解決が要求される。
「夢を食う妖怪ならいるよな。獏だっけか?」
「うむ。夢と記憶は別物じゃからな。獏は記憶を奪うことはできまい。もっとも、夢の内容という記憶は別じゃ」
「重箱の隅を突くような、細かいこと言ってんじゃねぇよ」
「記憶を奪う妖怪や霊なんて聞いたことがないのじゃよ。特殊なけーすも想定しておかねばなるまい」
「お前はカタカナ語を使うな。聞きとりにくい」
「主が私様の言葉を制限する権利はないぞ。私様のぷらいべいとな問題に口を出すな」
「なら、もうちょっと、らしい発音をしてくれ」
徒労を感じさせる溜息を吐く。
このやり取りは、何回も行われているのだろう。
「特定の人物に関わる記憶が消えるというのは、稀じゃが、存在するのぅ」
「"神隠し"のことか?」
「その通りじゃ。神隠しに遭った者の存在は、他の者達の記憶から消える」
「神隠しか。なんで記憶が消えるんだっけか?」
「琥珀よ。ジュゴンを見習って勉強したらどうじゃ?」
「断る。ジュゴンが勉強する分、俺は勉強しなくてもいいんだ」
蝶々の忠告を琥珀はキッパリと切り捨てた。
琥珀の瞳からは、どんなことがあっても勉強はしねぇ。そんな強い意志が見える。
その覚悟と信念。これ以上ないほど無駄な物だった。
「神隠しに遭った者はこの世から消えるのじゃ。質量保存の法則やえねるぎー保存則は知っておるな」
「俺を買い被るなよ。知ってるわきゃねぇーよ。小学校中退を舐めるなよ」
「…あらゆる作用が起きる前と後では、質量やえねるぎーの総量は不変じゃという法則じゃ」
「嘘臭ぇな。だってよ、水を温めたら蒸発してなくなるだろ?」
「主は馬鹿か?」
「言い方がストレート過ぎだ」
蝶々の頭がジンジンと鈍く痛む。
もう何度となく繰り返しているやりとりのはずなのに、蝶々は未だに琥珀の無能っぷりには慣れない。
真顔で馬鹿を言うのだけは、勘弁してほしい。蝶々はそう思う。
「水が沸騰すると水蒸気になるんじゃ」
「湯気か?」
「主は小学生か!」
強烈なストレス性の頭痛に、蝶々は綺麗なおでこに手を当てる。
とても芸術的なポーズに見えるのだが、背景の雑多な本の山が絶妙にシュールだった。
「とにかくじゃ、水の時と水蒸気の時とでは、質量の総量が同じなのじゃ」
「そんなに重かったら、水蒸気は浮かばねぇじゃん」
「密度を考えろ!」
「ああ。分散されるから浮けるんだな」
浮くと言うのは微妙にニュアンスが違うような気がするのだが、蝶々は訂正しなかった。
本題を見失いそうだし、なにより自分が疲れる。
「えねるぎーも同じじゃ。振り子を見たことがあるじゃろ?」
「糸の先に鉄の玉がついてるやつだな。左右に揺れる」
「位置えねるぎーと運動えねるぎーの変換が行われているのじゃが、えねるぎーの総量は不変じゃから、永遠に揺れ続けるのじゃ」
「でもよ、ブランコってだんだん早くなるよな」
「足で漕いでるからじゃろ! なんじゃ、主の頭は思考を捨てたのか!」
「オレはいつでも、考える葦だぜ?」
「それが誰の言葉か、知っておるのか?」
「ヒポパタマス?」
「それはカバじゃ!」
ぜいぜいと肩で息をする蝶々。
そんな姿も艶やかで色っぽいのだが、琥珀のポカンとした顔が全てを台無しにしている。
「そんで、なんとかの法則とやらと、神隠しとなんの関係があるんだ?」
「そうじゃった。忘れておったわ」
「物忘れが激しいな」
「忘れる物すら頭に入っていない、主には言われたくないの」
瞳を細めて威嚇するような視線で琥珀を睨む蝶々。
その視線を琥珀は受け流す。蝶々は無言の訴えを諦めて、説明を続ける。
「神隠しによって、存在がこの世から消えるということは、この世から質量やえねるぎーが消滅するということじゃ」
「そうだな。そんで?」
「…質量保存の法則に従って、最初からそんな質量はなかったということになるのじゃ」
「最初からなかったことにして、帳尻を合わせようっていうわけね。理も随分えげつないことをするな」
「故に、神隠しに遭った者に関する記憶や持ち物は全て、あるべき場所に移されるのじゃ」
「変じゃねぇか? もし今の話が本当なら、神隠しって奴を誰が見つけたんだ?」
「主は馬鹿じゃが、たまに鋭いことを言うのぅ」
神隠しに遭った者の全てがなかったことになるので、神隠しに遭った者の存在は誰の記憶にも残らない。
つまり、神隠しという現象は誰も認知できないはずだった。
「蝶々。神隠しって、本当はただの伝説なんじゃねぇの?」
「違うのぅ。神隠しは存在する。そしてそれを認知できる者もおる」
「どこにだよ」
「この世の理とは別の理で回っている世界じゃ」
「地獄か?」
「いや、そんな次元の話じゃない。主らでは到底、認知できぬ次元の世じゃ」
「なぞなぞみてぇだな」
「絶妙な例えじゃな。世の理とは、なぞなぞみたいなものじゃ。こじつけで、できておる」
どこか憂いが感じられる横顔で、蝶々は語る。
一瞬、琥珀の脳裏に、蝶々が抱える秘密を見たような錯覚が走る。
ブンブンと頭を振ってそんな妄想は捨てる。蝶々は決して自分の過去を語らないのだ。
「だから、どこなんだよ。神隠しを認知できる世っていうのは」
「神隠しに遭った者が行き着いた世じゃ。言うならば、神隠しに遭った者が神現しした場所かのう」
質量保存の法則やエネルギー保存則がない世界。
原子の数は流動的で、あちこちでエネルギーが生まれたり、消えたりする世界。その世界なら、神隠しを認知できるだろう。
だが、納得できない疑問点があった。
「誰が、その世と交信したんだよ」
「高徳な霊能力者じゃな。陰陽師か、僧侶か、もしくは無名、無所属の別の何かか、そこまでは知らないのぅ」
うまく質問をはぐらかされた。琥珀はそう感じた。
物知りな蝶々でも、知らないことがある。
だからこそ、こんな膨大な量の本を琥珀に買わせている。
「なるほどな。ためになったぜ。ありがとな蝶々」
「礼には及ばんよ。じゃがの、少しは勉強というのをしたらどうじゃ?」
「うるせぇな。性に合わねぇんだよ。いいか? 勉強ってな、勉を強いるって書くんだぜ?」
「無理をすることを強いる。昔から人は勉強が嫌いじゃったということかの」
「だろ?」
「じゃが、なんの言い訳にもならんぞ」
「それは認めるけどよ。今はそれどころじゃなかったような気がするんだよな」
「またそうやって、とぼけるのか?」
「違う違う。マジで何か大事なことを忘れている気がすんだよ」
「確かに、なにか大事なことを忘れている気がするのぅ」
「……」
「……」
『あ! 夢現環!』
彼女の症状が治る日は遠そうだ。
環本人が聞いたら、きっと泣きだしているような会話は、この後も続いていた。




