参 「その偽物を見るような、疑う目はなんだよ」 3
私は眠かった。
久恒神社から家に帰り、リビングの時計を見たら、午後十一時を示していた。
霊に対する恐怖で、私は夕食も食べずに自分の部屋に戻り、パジャマに着替えることもせず、お守りを握ってベッドの上で丸くなっていた。
寝返りのせいでお守りが手から離れたら。そう思うと、私は眠ることができず、ガタガタ震えながら、ずっと起きていた。
お守りと言っても、中に何かが入っている群青色の布袋。あまりにも弱々しい。
それでも、お守りを一時も手放したくないと思い、私はシャワーすら浴びてない。でも、そんなことどうでもいい。
「どうしたの? タマちゃん」
机に突っ伏している私に、アイちゃんが声を掛けてくれた。
「ちょっと…眠れなくて」
「寝不足は美容の敵だよぅ。気を付けないとね」
ほわほわと優しく柔和な笑顔と声で私を気遣ってくれるアイちゃん。私の癒しだ。
「うん、今日はちゃんと寝るよ」
「よしよし。授業中に寝ちゃダメだぞ」
純真無垢な笑顔。
何があっても、この子は私のオカルト事件に巻き込んじゃいけない。
私は密かに決心するのだった。
「ところで、あの噂知ってる?」
「噂? なんの噂?」
今、私達のクラスで注目を集めている恋バナは、近くの大学生と付き合っている隣のクラスの女の子の話だが、これとは関係なさそうだ。
「久恒神社の噂だよ」
「久恒神社!?」
「あ、タマちゃんの登校ルートだったね」
「うん。そうなの」
睡魔にコントロールを奪われた頭で思い出してみる。
今朝の久恒神社周辺で何か、変わったことはなかったか。
検索してみるも、脳の処理速度が著しく遅い今では、無意味だった。
「アイちゃん、何かあったの?」
「環は見てなかったのか?」
隣の席の机に勝手に座って話に参加するのは、ひーちゃん。
「今朝の久恒神社の前、警察の人とか野次馬とかいっぱいいたじゃん」
ひーちゃんの台詞を聞いて記憶を辿る。
確かに、人混みがあったような、なかったような…。
駄目だ。睡眠不足と恐怖による心の疲労が、私から記憶力を奪っている。
「事件? 事故?」
「事件だよ」
私がトラックに轢かれそうになったのは、関係あるのだろうか。
ひーちゃんが得意げに言う。
「なんでも、久恒神社前の道路に血が飛び散ってたんだってさ」
「うわ、気持ち悪い」
見てなくてよかった。
視界に入っていたのに、気づいてないだけかも知れないけど。
「交通事故らしいんだよね。血の飛び散り方から考えて」
「私が聞いた話だと、トラックに轢かれたみたいなんだってね。そのトラックの運転手が自首したんだって」
笑えない…。
「でもね、不思議なことに、死体がなかったんだってさ」
「轢かれた人が自力で病院に行ったんじゃない?」
「それがどこの病院にも、交通事故に遭った患者さんなんて、いないんだってさ」
「動物を轢いたんじゃないの?」
「トラックの運転手が、飛び出してきた男を轢いてしまい、怖くなって逃げてしまった。居眠り運転が原因です。って自白したんだってさ」
昨日、久恒神社からの帰り道、暗くて分からなかったのだけれど、もしかしたら無地のコンクリートの道路を人の血がデコレーションしていたのかも知れない。
そう思うと、私は背筋がゾゾッと寒くなる。
嫌な感じを追い払うように、私はひーちゃんに質問する。
「運転手はどうなったの?」
「取り調べ中だって、ニュースでやってたよ」
「轢かれた痕跡があるのに、轢かれた被害者がいないんだから、警察もお手上げね」
私はそう言って肩をすくめる。
「一体何があったんだろうね。気になるなぁ」
アイちゃんが間延びした声で言う。
独り言のように聞こえる問いかけだと、私とひーちゃんは理解した。
ひーちゃんが推理を語る。
「トラックの運転手は覚醒剤の常習者だったっていうのは、どう?」
「ないと思う。警察もそういう検査はするでしょ? それに、覚醒剤をやってる人なら警察に行かないよ。病院に連絡するだけだと思うな」
「じゃあ、轢かれた人が自力で動くのは無理だとしても、そばに友達がいたとするなら?」
「病院に連れて行くでしょうね」
「その友達は、…医者なんだ」
「トラックに轢かれた人を個人の力だけで、どうこうできる人っているの? ブラックジャックじゃないんだよ?」
「うう。じゃあ、環はどう思う?」
ひーちゃんは私に解答権を譲ってくれた。
少し迷ったが、私は現実感たっぷりの考えを口にした。
「きっと血の跡は悪戯だよ。そう考えれば、全部説明できるもん」
「本当? じゃあ、トラックの運転手の証言はどうなるの?」
私の推理にアイちゃんが、ふわっと食い下がる。
「勘違い。きっと居眠り運転でもしてて、夢と現実がゴチャゴチャになっちゃったのよね」
「でもでも、悪戯にしては度が過ぎないかな?」
「昨日の放課後、私はそんな血の跡を見てないことから察するに、夜中に血糊か動物の血を道路にぶちまけた。夜中で視界が悪かったから、加減がわからなかったんだと思う」
「なんか納得できないなぁ」
アイちゃんは、ふにゃっとした顔を作る。喜怒哀楽が分かりにくい表情だ。
論破されてしまったアイちゃんに代わって、今度はひーちゃんが私に食い下がる。
「警察はプロだよ? 事件と悪戯の区別ぐらいつくと思うけど」
「悪戯にしては度が過ぎてた。だから警察も事件だと思っちゃったんだよ。それに、運転手の勘違いの証言もあったしね」
「その勘違いの証言っていうのも、納得いかないよ。いくら居眠り運転でも、人を轢いたかどうかぐらい、わかりそうなものだけど」
「もしかしたら、別の場所で眠りながら猫とかを轢いているかも知れないね。その衝撃で人を轢いた夢を見てしまった」
「それなら、手に感触が残ってて、人を轢いたんじゃないかと錯覚しちゃうかも知れない?」
「そういうこと」
ひーちゃんは唇を尖らせる。
納得できるけど、その理論は好きじゃない。そんな表情だ。
科学的な真実よりも、オカルト的な幻想のほうが楽しい。私もそう思う。
だからこそ、私はこの考えを口にするのを迷ったのだから。
「ふ~む。タマちゃんも賢くなったものだねぇ」
褒めてくれているのか、あるいは馬鹿にしているのか、聞き手の器量を試すようなことを天然のアイちゃんはふんわりと言う。
たぶん、悪気はないんだと思う。
「ま、この世にあるのは、詰まんない理論だけってことだね」
ひーちゃんは、少しやるせなさそうに言った。
その横顔が凛々しくて、哀愁のようなものを感じた。
「ひーちゃんは大人になったんだね」
「あんたも大人になりなさい」
「私は十分、大人だよぅ」
「その喋り方」
「可愛いからいいじゃん、だよぅ」
澄んだ笑顔でアイちゃんは言い返し、そして朗らかに笑う。
その笑顔には誰も敵わない。ひーちゃんも苦笑した。
二人の笑顔につられて、私の表情もほころぶ。
今だけは、どんな霊も私に近寄れない。そんな気がした。