七転び八起きの果てに手にしたものは
――つくづく、己は師匠に恵まれている。
齊木洋司館長、八段合格の第一報を聞いた時、隼人は心底からそう思った。
今は亡き德丸、学生時代の部活の指導者たち。そして齊木館長。
それぞれ個性は違えど、皆尊敬すべき師であり、剣士だった。
齊木は意地悪で皮肉屋だったが、剣道に対しては常に真摯であり、介護しながら妻を見つめる瞳には、穏やかな優しさが宿っていた。
隼人は、何とはなしに、自分は歳を取れば齊木のような老人になるのではないか、という予感めいた思いを抱いていた。
試合に出れば勝ちにこだわり、後進を指導しつつ、八段合格への執念を燃やし続ける。
それも悪くはない。齊木のように諦め悪く執着して、とことんまでやってやろう、などと思っていたのが。
己が齊木を見くびっていたことを、隼人は恥じた。
『それでは、妻をよろしく頼みます』
留守中齊木の家を預かる隼人に、深々と頭を下げた齊木の顔には、今まで纏っていたものを脱ぎ捨てたかのように険がなかった。
これまで八段受審に挑む時には、必ず眉間に縦筋を刻んでいたというのに。
齊木のジジイ――隼人は、幼い頃に叱られる度、いつも胸中で齊木のことをそう呼んでいた――死ぬまであのままだろうと思っていたのに。
人間、ああも変われるものなのだろうか。
少しだけ同族意識を持っていた齊木に、置いていかれたような気分だった。
京都大会の観戦もせず、戻ってきて道場で深々と頭を下げた齊木の瞳。
隼人はそこに、亡き德丸の瞳と同じ、落ち着いた輝きが宿っているのを見た。
――ああ。この人は遥かに先を行った。
齊木の合格を寿ぐ気持ちは勿論あった。けれど、その中に親しい相手に置いてけぼりにされたような苦みが入り混じるのだった。
隼人の三度目の七段審査は、一週間後に控えている。
会場は、愛知県名古屋市の枇杷島スポーツセンターだ。
錬心舘道場では、隼人も齊木に続け――というムードがすっかり醸成されている。
確かに、単純に合格率で考えるなら、合格率1%以下の齊木の八段合格を見た後なら、合格率20%を超える隼人の七段審査など、容易いものに見えるかもしれない。
しかし、自分のこの一年間で成長できたのかどうか、未だ隼人には分からない。
他人の昇段審査の指導に、こんなに関わったのは人生で初めてのことだった。
指導に関わったことについては、後悔はしていない。切っ掛けは德丸に命じられた少年指導だったが、全ては自分が引き受けたことだ。そこには、新たなる発見があった。喜びがあった。
ただ――それが自分の剣道にどれほど寄与したのか。視界が広がったように思うし、周り道だったようにも思う。
五月の連休、隼人は七段合格を祈願して錬心舘の面々に鍛え上げられた。そこには齊木の八段合格の祝いを兼ねて、他の道場から出稽古に来た面々も加わっていた。
八段への合格者が出た折には、ホテルで大々的な祝賀会を開催するのが慣例である。
今の齊木がそれを望むようには思わないが、市剣道連盟や県剣道連盟の役員を務めている齊木は、慣例を無視するようなことはしないだろう。
恐らく、ホテルの予約や招待状の送付で、隼人が東奔西走する日々が始まるはずだ。
それを考えれば自分の昇段審査など、大事の前の小事に思えて、少しだけ心が楽になった。
「やあやあ水﨑さん、ガンバレガンバレ! 私が気合いを入れにきてあげましたよ!」
ひょっこりと、妙武道場の山國今日香もやってきた。
山國は最近、やたらと出稽古に来る回数が多い。飲みに誘われる回数も多い。
むむむ、と燕が山國を下から見つめ、山國はふふん、とでも言いたそうな表情を見せる。
この二人、基本的に仲は良いのだが、時折激しく互いを意識して視線で火花を散らしている。
やはり、年代が近い女性選手として、ライバル意識を持っているのだろう、と隼人は解釈した。
……隼人と山國の居酒屋でのサシ飲みは現在も定期的に継続しているが、別段色っぽい意味での進展はなく、互いに一線を弁えて友人関係を続けてきた。
「水﨑さんが七段受かったら、手加減はしませんからね」
そう言って、山國は隼人と燕にちらりと視線を送った。
彼女なりのフェアプレーの精神なのだが、隼人には今一つ理解されていない。
前々から、山國は隼人のことは悪くない男だと思っていた。ただ、道場の隼人はいつも余裕なさげで、どこか話しかけにくい相手だった。
徐々に親しくなってからも、昨年は全日本予選、東京審査、德丸前館長の逝去と、隼人が滅入る出来事ばかり立て続けに起こっていたのだが。
三度目の昇段審査を前にした今の隼人は、かつてないほどに落ち着いて、余裕を持っているように見える。
――山國はぞくりとした、静かに寝そべる大型の獣のような圧倒的な力とその抑制。
隼人の精悍な顔立ちを眇めに見つめる。血管の浮き出た逞しい前腕。背は高いが引き締まった体。
よーし、そろそろ本気を出していくぞ~! そんな山國の内心を、隼人は露とも知らず。
一方で燕は、不吉の予感に身を震わせるのだった。
――大人数の、お祭り騒ぎにも似た、稽古が終わった。
『七段審査前の大事な時だっていうのに、君も大変だね』
そんな同情の言葉をかけてくる高段者もいたが、隼人の心は驚く程に凪いでいた。
七段を合格しようという意気込みも、熱意も十分にある。
けれど――審査も直前のこの時になって思ってしまったのだ。そもそも自分は七段に受かる価値のある人間なのか、と。
以前の隼人なら、己で一笑に付したような迷いである。
段位なんて、持っていて損はない。とりあえず取れるものは取って、価値だの意味だのはその後で考えればいい、と。
隼人は、試合の勝負強さは己より遥かに劣っていながら、七段に合格している剣士を数多く知ってる。
だが、別段彼らの合格に対して物申そうなどという言う気持ちは微塵もない。
齊木の二次審査を撮影した動画が、剣友を通じてLINEで送られてきたの隼人は見た。
隼人は、己は未だ八段審査を語れる階にはいないと思っている。
そんな隼人をして、完璧だと思わせるような立ち合いだった。
動画は齊木が蹲踞をして構え合うシーンから始まっていた。
蹲踞から、体の軸を乱さぬ、脳天から吊り上げたような立ち上がり。
互いに正眼に構え合い、先革を交え一寸、二寸と進み合う。この間は全くの無声である。
放たれる裂帛の気合い。一足一刀の間合いで、猛烈な気争いが行われる。
齊木の構えは堂々たるものだったが、相手もさるもの。気争いは全くの互角であった。
――八段審査は、一次審査で十分の一程に数が絞られ、二次審査で更に十分の一に絞られる。
二次審査に進出している時点で、七段審査以上の熾烈な合格率を潜り抜けた剣士であり、生半可な相手など居ようはずもない。
スマートフォンの荒い動画越しに、気炎を放つが如き剣先の鬩ぎ合いが見て取れる。
二人は、気争いで実に一分近く――立ち合い時間の、半分ほどを消費した。
互角に見えた均衡が、僅かに崩れる。
相手が打たんとして僅かに色を見せた瞬間に。
軽やかに振るわれた齊木の竹刀が、相手の面を捉えていた。
相手は打たれてなお動揺を見せずに、再び正眼へと立ち返る。
立ち合い時間は2分間。それでいて、無理に取り返そうとせずに作りを固めた相手は、紛れもない一流であった。
しかし、先制された一本の重圧に耐えきれなくなったのか。
相手がついに、正面から打って出た。身を捨てきった見事な面。
けれども、それを齊木は真正面から切り落として見せた。
玄妙極まりない技が再び相手の面を捉える。
伸びのある面を打って暫し留め、一歩、二歩と引いて残心を示す。
そして、計ったかのように時間切れとなった。
誰が見ても文句の付けようもない、合格の手本となるような立ち合いだった。
完璧だった。
無論、隼人はこのような己がこのような完璧な立ち合いを遂げられると思うほどに驕っているわけではない。
それでも、理想が雑念となって、落ち着けた筈の心に迷いを呼び寄せるのだった。
◇
次の日、隼人は齊木に稽古へと招かれた。
光栄だと思えども、隼人にはその真意は掴めなかった。
構え合い、立ち合って一足一刀からじわじわと攻め進む。
――到底叶わないのは分かってる。でも一本、せめて一本、あのような見事な技を。
勝負の強さではない。理を極めたところにある美しさを、得たい。
己が、齊木の立ち合いの猿真似をしているのはバレているだろうな、と思えば気恥しくなっている。
しかし、想定よりも早く隼人は齊木に引き出された。隼人の得意の飛び込み面が齊木を捉える。
瞬間。
「はい、切り返し!」
少年時代に散々聞いた、地稽古の締めくくりの合図の言葉が齊木から放たれた。
切り返し。立てた竹刀に向かって左右続けざまに打ち込む剣道の基本稽古。
剣聖、内藤高治も切り返しには剣道の全ての基本が詰まっていると説いたという。
前進四本、後退五本、最後に大きく面を打って打ち抜ける。
「もう一本切り返し!」
高らかに声が上がった。
互角稽古の最後を、切り返しで締めるのは少年指導では珍しいことではない。
しかし、七段を受審しようとする人間に対して、これをさせるのは「お前の剣道は子どもと変わらない」と告げているに等しい。
場合によっては、屈辱に思う者さえいるだろう。
けれども、隼人は何を思うでもなく、ただ切り返しという行為のみに没頭する。
「もう一本!」
三度、切り返しが繰り替えされた。
隼人は前進四本後退五本と打ち抜く面までを、すべて一呼吸で行っている。
それを三度続けて息が乱れないのは、若さと鍛錬の成せる技か。
大きく正面を打って抜けた隼人に、齊木は胴を掌で軽く叩いて稽古の終わりを告げた。
「ありがとうございました」
竹刀を納めて礼をするが、立ち合いが僅か一本技を放っただけで終わり、切り返しへと変わってしまったことは不可解だった。
隼人の訝しげな顔を見て取ったのか、齊木が面の中で破顔する。
稽古が終わり、ポンと肩を叩かれた。
「ちっとは肩の力も抜けたか。
お前さんはいつも考え込み過ぎることが多いぞ。
幾ら考えても答えが出ん時は、体を先に動かしてみよ。
頭が晴れて見えることもある」
隼人は苦笑する。
何から何までお見通しだったか。
以前のような、皮肉屋で少し意地悪な所はなりを潜めていた。
鋭く、どこか人懐っこい笑顔。德丸とも、また違う齊木だけの境地。
……ずっと、亡き德丸のようになりたいと思っていた。
しかし、亡き故人を目指すのはやはり異なるようだ。
隼人は思う。自分は所詮、自分にしかなれない。德丸の水を継いだ新たな自分になるしかないのだと。
齊木が、德丸の水を継いだ新たな齊木になったように。
――後残り一週間。
剣心一如で稽古を続けるだけだ。
決意をそう新たにした。
◇
アキレス腱断裂事故以来、燕を稽古帰りに一人暮らしのアパートまで送っていくのが日課になってしまった。
ただ、汗だくの剣道着姿の男を事あるごとに乗せ、普段から隼人が稽古の行き帰りに使っている車なの気が引けるところがある。
燕はいつもとても清潔にしているし、剣道家らしからぬほどに道着袴の臭いもない。
道場で着替えて乗りこんでくるのだ。こちらの方が車の汚さを申し訳なく思う。
隼人の車の助手席に乗り込んでくる燕は、いつも楽しそうだ。
「よろしくお願いします」
今日も、頭を下げて慣れた足つきで隼人のクラウンの助手席に滑り込んでいる。
ショートカットの黒髪が揺れる。
綺麗な眼鼻立ちをした子だと思う。
小学校の頃に手取り足取り教えていた頃に比べて、随分と上達した。
剣道家としては、おそらくもう隼人よりも格上だろう。
いつまでも子供扱いしていい相手じゃない。
そう思うのだが――一度刷りこまれたイメージというのは強固なもので、一回り近く離れた歳の差、そして幼い頃に指導をしていたイメージから、隼人には燕がいつまで経っても幼い子供のように見える。
こればかりは、どうしようもない。
恐らく本人の自認としては、立派な成人女性だろうし、実際に錬心舘道場に戻ってきてからの立ち振る舞いの数々も見事だった。
もしかしたら、自分よりも立派に『大人』をやっているのかもしれない。そんなことすら隼人は思う。
だからこそ、線を引いておかねばならなかった。
「なあ、燕」
「なんですか? 隼人せんせ」
人懐っこい笑顔が隼人へと向けられる。
だからこそ、問わねばならないと思った言わなければならないと思った。
――別に、これを尋ねるのは昇段審査の後でもいいじゃないか。今日聞く必要がどこにあるんだ?
それは、確かにそう。今この時に口にする質問ではない。
……にも関わらず、隼人はその問いを口に出した。
「燕、どうしてお前は、俺なんかの事が好きなんだ?」
助手席の燕が、驚いた猫が毛並みを飛び上がるような仕草をした。
燕が、その言葉を自ら口に出したことはない。
――隼人は生来、他人の感情や自分に向けられる好意には鈍感な男である。
それでも、この半年間、あからさまな好意を向けられれば、気付かない筈はなかった。
自惚れかもしれないが、燕の隼人を見つめる瞳は、兄貴分としての尊敬を向ける冢本や、信頼をくれるようになった廣都留とは明らかに異なっていた。
――送迎している車中という隼人が裁量権を持つスペースで、この問いを燕に向けるのが卑怯な行いである、という自覚は確かにあった。
本来ならば、燕が答えを口に出さずに隼人の前から立ち去ることができるような場所を選んで問う、という配慮をすべきだったのだろう。
けれども、その問いは、隼人の意志を振り切って、半ば自然に唇から、零れ落ちた。
飛び上がった猫のような仕草を見せた燕は、己の体を襷掛けに横切るシートベルトを、ギュッと握り締めた。
その頬が、稽古後に面を外した時のように紅潮している。
「……お気づきでしたか」
「そりゃ、な」
互いに黙りこくる。沈黙がその場を支配した。
はああああああ、と燕が呆れたように息を吐いた。
「もう、どうして昇段審査前のこのタイミングで聞いてくるんですか。ズルいなあ。隼人せんせは、本当にズルいです」
燕の苦笑に、隼人は申し訳なく思った。
それは、燕の言う通りだった。隼人自身、己が悪いと自覚していて、立つ瀬がない。
頬を紅潮させたまま、燕は慎重に言葉を探しているようだった。
「切っ掛けは、些細なことなんです」
「些細なこと?」
「全然劇的な出来事なんてなくて。隼人せんせが、暴漢を殴り倒して助けてくれたとか、一家離散の危機を救ってくれたとか」
「確かにそれは記憶がないな」
二人で、車の中で笑いあった。
「私、小学校の頃は、そんなに強くなかったんですよ。憶えてますか?
……って言っても、隼人せんせは、多分覚えていませんよね。
その頃は、少年指導もされていませんでしたし、私は沢山いた少年部のうちの一人でしたから」
確かに、少年部時代の燕のことを隼人はあまり知らない。
成年の部まで居残りで稽古をしていたことや、試合で頭角を現わして以降の燕のことは良く知っているが――
話しているのは、きっとそれ以前のことだ。
「剣道、あんまり好きじゃなかったんですよね。
小学5年生の頃、少年部の部内試合でボロボロに負けちゃって、道場の裏で独り泣いてたんです。
もう、剣道なんてやめちゃおう、って思ってました。
そこに、隼人せんせがやってきました。
その時の隼人せんせは、今の私と同じぐらいの齢で、錬心舘に成年部として入会したばかりだったと思います。
私の顔の区別がついていたとは、とても思えません。
隼人せんせは、泣いてる私を見て、とても気まずそうな顔をしていました」
少しだけ、悪戯っぽく燕が笑った。
「別に、見て見ぬふりをして、立ち去っても良かった筈です。
でも、隼人せんせは、話かけてくれました」
「どうしたの、とか、大丈夫とか」
……そういえば、そんな事もあったように思う。
隼人は回想する。その頃の己はどうだったか。安穏とした学生時代が始まり、投げ込まれた社会人生活の始まりで四苦八苦していた記憶がある。
朧気に霞んでいた記憶が、少しずつ像を取り戻す。
剣道との縁を切りながら錬心舘道場に戻ってきたが、その頃の自分は学生の延長みたいなもので、今のように冢本や廣都留みたいに大学生で通う門人もおらず、軽い疎外感を味わっていた。
稽古の後は、年齢の離れた高齢者の先生方と一緒にいるのが落ち着かなくて、道場の裏でコーヒーを飲んだりしていたのだ。
――確かに、その時に、泣いてる子どもに、声をかけたこともあったっけ。
「……ごめん、よく覚えていない。その時の俺は、何て言ったんだ?」
燕は、ふにゃりと柔らかな笑みを見せた。
「大丈夫、今は勝てなくても。剣道を続けていたら、きっといい事があるよ、って。
もうじき六年生なら、すぐに一級が取れるし、中学生に上がったら、初段が取れる。
剣道の有段者だよ。まずは、初段を取るのを目指して頑張ってみようか、って」
隼人は、尻の座りが悪かった。きっとそれは、泣いている見知らぬ子どもを慰めるための、その場で思いついたでまかせのような言葉だ。
相手の向き合うことなく上辺だけ取り繕った、誠意ない答えだ。
燕にとって、それが大切な思い出というなら――申し訳が立たなかった。
そんな隼人の内心を見抜いたのか、燕が先回りして答える。
「今なら分かります。隼人せんせは、私の事も知らなかったし、どんな剣道をしてるのかも知らなかった。
私を泣き止ませるための、取り繕ったありきたりの慰めの言葉だった筈です」
「……すまん、多分、その通りだ」
「でも、良いんです。私は嬉しかったから。例え隼人せんせにとって、その場を取り繕うための言葉でも――私にとって、目標になりました」
眩しい、と隼人は思った。そして、申し訳ない、とも。
「ね? 些細なことでしょう?」
「ああ、悪いが、そんなことで、って思ったよ」
「確かに、『そんなこと』です。でも、私にとっては、宝物のような記憶でした。
あれから、私はずっと隼人せんせを見てきたし、成年部の稽古に混じって参加をしていたのも、中学校や高校に進学しても休みの日に稽古にきていたのも、隼人せんせに会いたかったからなんですよ。
――隼人せんせが、気付いてくれていないのは分かってましたけど」
あっけらかんと笑顔に、返答ができなかった。
「多分、隼人せんせの中で、私はあの頃の少年部の子どものままなんですよね」
隼人は、返答に窮した。燕の言葉は確かに正しい。けれども、それを燕に伝えるのは、慕ってくれている燕に対してあまりに残酷な仕打ちのようで。
「構わないんです。私はそれで。
私は、別に隼人せんせに、付き合って欲しいとか、わがままを言うつもりはありません。
……これまで通り、同じ道場に通って、私が勝手に好きでい続けるだけならいいですか」
燕の笑顔にあっけにとられた。
今この瞬間、隼人と燕の関係は決定的に変わると思っていたのに。
自分が長らく保留にしてきた問題を、再び保留にされるとはおもわなかった。
やはり緊張していたのだろう。燕はバッグからペットボトルを取り出し、飲み干した。細い喉がスポーツドリンクを嚥下していく。
「隼人せんせ」
燕がキャップを閉めながら言った。
「隼人せんせは、ずっと私の目標です」
隼人は苦笑する。
「俺なんか、県の選手権で万年落ちのつまらない選手だ。村枩とか切畠とか、もっと立派な選手を目標にしろよ」
「ううん」燕は首を振った。
「私は、ずっと隼人せんせみたいな、剣道の先生になりたかった――
だから今、凄く楽しいんです」
言葉に詰まる。
車内が静かになった。信号が赤に変わり、隼人はブレーキを踏んだ。
燕は窓の外を見ている。街灯が彼女の横顔を照らす。
ショートカットの髪が、耳にかかる。隼人は、ふと気づいた。燕の耳たぶが、赤い。
「なあ、燕」
隼人は信号が青に変わるのを待ち、口を開いた。
「怪我、治ったら……また試合出るんだろ?」
耐えきれず、つい話の目先を逸らしてしまった。
「うん。全日本選手権を、もう一度目指してます」
燕は頷いた。
「隼人せんせ、また応援してくれますか?」
「ああ、また稽古をつけてやる。約束だ」
アパートの前で車を停めた。
「ありがとうございます。隼人せんせ」
「おう、気をつけてな」
隼人は軽く手を上げた。燕は一瞬、振り返った。街灯の下、彼女の瞳が輝く。
「明日も、よろしくお願いします」
「ああ」
隼人は頷いた。燕の背中がアパートの階段を上る。
エンジンをかけ、ゆっくりと走り出した。助手席に汗消しの燕の香水の香が、かすかに残る。
隼人はラジオをつけた。古い歌が流れる。胸の奥に仄かな温かさが広がる。全ては、子どもの頃の地続きにある。
やっぱり燕の笑顔は、いつまで経っても、あの幼い日のままのように見えるのだ。
けれど、隼人は燕の気持ちを知ってしまった。これから、今までと全く同じように接することはできないだろう。
……そして、きっとそれを、燕も理解している。強かな子だ、と思った。
道場の裏で燕にかけた、ほんの小さな隼人の言葉。
それが、燕の剣道人生を一変させてしまった。
指導者の言葉というものは、それほどに重いものか。
隼人は改めて自分の責任に身震いをするのだった。
◇
名古屋出発を控えた最後の稽古の日。
どうしても気掛かりなことがあって、隼人は冢本を捕まえてみた。
茶髪の軽薄な見た目な男だが、これで中々芯はしっかりとしていて頼りになる。
「なあ、やっぱり指導者は強い方がいいものか?」
隼人は、指導者は強く、競技者として成績を残した選手だった人間がいいと思っていた。
ずっとずっとそう思ってきた。
けれども、誰しもにとってそうではないかもしれない、と思い始めたのはこの頃のことだ。
「そりゃあ、弱いよりは強い方がいいっスけど……
ぶっちゃけ、人それぞれっスね」
「水﨑先生、貴方ならば、十分にお強いですよ」
西澤も話の輪に入ってきた。
「それに、ただ強いだけじゃなくて、親しみやすさも大事だと思います」
「そうっスね。それに、全日本出てた村枩選手とか、水﨑先生がボコボコにされたって切畠選手とか、元から強い人は、あんまり見てて参考にならないじゃないスか」
「冢本、お前中々面白いこと言うなあ。村枩も切畠選手も、見習う所だらけだぞ」
「ああ、それは分かるんス。何ていうかなあ……」
冢本は、視線を彷徨わせて、言葉を探した。
「ナンパを習うなら、元からイケメンで歩いてくるだけで女が寄ってくるような奴に習うより、すっげーブサイクだけど女に声かけて、10人中6人にOKされました、みたいな人に習った方が参考になるじゃないですか、みたいな?」
身も蓋もない例えに、西澤が爆笑をした。
だが……確かにそれは一理あると、隼人は思った。
技倆未熟なれど、指導者と直指館の子どもたちに慕われてい濵尻。
五段に受かってかなり上達した彼は、今でも時々子どもたちに乞われて基本を教えている。
強さだけが剣道の価値である、という考えは、隼人はとうに捨てていた。
濵尻のように、不器用ながら積み重ねて得た技を持つ剣士は、同じように不器用な子供たちにとって、天賦の才を持つ人間よりも遥かにロールモデルとして価値を持つ。
そんな風に、隼人は思っている。
己は、人に剣道を教えるには相応しくない未熟な人間だ。
ただ一言で、他人の人生を左右する覚悟など、まるでない人間だ。
それでも――この一年間、他人の問題を共に悩み、多くの昇段審査に付き合ってきたことは、隼人にとって、かけがえのない糧になった。
道場を見渡す。折よく、この一年昇段に関わってきた面子が皆顔を揃えていた。
初段に合格した髙田裕翔は、稽古が終わった後も熱心に素振りをしている。まだ肩に力が入りがちだが、自分の協調運動障害の特性と付き合いながらも腕をめきめきと上げている。
二段に合格した西澤将司は、共に二段に合格した息子の玲央と話をしている。中学の試合の対策でも立てているのだろうか。
三段に合格した廣都留謙士郎は、随分と明るくなったように思う。剣道が形になってくるにつれて、SNSを通じて歪んだ形で自己顕示欲を満たす必要もなくなったのだろう。
四段に合格した冢本琢也は、この見た目で結構真面目な男で、剣道形の理合もかなり掴めてきた。德丸から教わってきた数多くのことを、いつか伝えてやりたい。
五段に合格した濵尻駿介は、打ちがとても綺麗になった。立派な指導者になることを願っている。
六段に合格した山國今日香は、燕と何かを楽しげに話していた。女性の二刀は険しい道かもしれないが、山國は飄々と己の道を貫くのだろう。
八段に合格した齊木洋司は、妻の介護を続けながらも、新館長として錬心舘を指導している。德丸とはまた違った名人となるに違いない。
それぞれの道程に、それぞれのこれからに。隼人は思いを馳せる。
明日、隼人は名古屋へと飛ぶ。
己のこれからの道を、掴むために。
◇
そうして、隼人は三度目の七段審査の会場に立った。
迷いは消えなかった。答えは見つからなかった。
足だけがただ前に進んだ。枇杷島スポーツセンターが近づいてくる。
名古屋審査の会場は、京都会場と東京会場とも、また趣きの違う建物だ。
東京のエスフォルタアリーナより威圧感がなく、親しみ易い。
竹刀と剣道具の袋を背なに負い、隼人は黙々と足を進める。
枇杷島スポーツセンターに、数多の剣士が集っていく。皆、これから昇段審査に挑むライバルであり――同志だ。
――隼人は、更衣室に座って胴垂れを付ける。
ふと、これで使用するのが三度目となる、審査用の黒胴の裏の吊り革に、何かが取り付けられているのに気付いた。
「必勝」
「合格」
二つのお守りだった。これは――燕と山國の悪戯だな、と隼人は苦笑した。
こんなことをするのは、あの二人ぐらいのものだ。
名古屋土産にしるこサンドでも買って帰ってやろう。
審査場に足を踏み入れる。試合場ともまた違う審査会場の静かな緊張は、肌がひりつくようだった。
立ち合い人に導かれ、ゆっくりと順に進み、面を被って強く面紐を縛った。
隼人は思う。
剣道の段位など、所詮は人爵。それも――剣道の世界でしか通用しない、言うなれば剣爵だ。
けれども、それを得ようと努力する剣士たちには、各々の道があった。努力があった。涙があった。
昇段審査の指導で触れ合ったのは、剣士達の人生そのものだった。
老若男女、それぞれの歩いてきた道のりと生き方が、そこにはあった。
人とは面白いものだ、と隼人は思う。
これまでとはほんの少し触れ合い方を変えただけなのに、これまで見えなかった世界が目の前に立ち現れる。
それらは一瞬一瞬作り替えられ、同じ景色を見ることができる機会は二度とない。
昇段審査を通じて、剣が織りなす人間模様。それは。
「剣爵万華鏡だ」
ふと、そんな言葉を思いついた。
口元がふっと緩む。
隼人に付きまとっていた焦燥と迷いは、いつの間にかに消えていた。
德丸や齊木らの顔を思い出す。隼人の技は受け継がれてきた。これまでの先人たちから。
冢本や高木らの子供たちの顔も思い出す。隼人の教えたことは引き継がれていく。未来を生きる後輩や子供たちへ。
そして、燕や山國、村枩やあの切畠をのことも思い出す。今を生きる剣友たちと、隼人は繋がっている。
剣道という先の見えない山を登る同志として。
各々の速度で。様々な道程で。同じ頂きに向けて歩んでいく。
一礼をし、蹲踞をして立ち合いの相手と構え合う。
見知らぬ剣を交えて競い合うのは、本音を言えば今だって怖い。
けれど――面金で細切りにされた向こうの相手の顔を覗きこめば、相手の緊張した面持ちが目に入った。
自分と相手は、同じ緊張と恐怖を抱えて、向かい合っている。
……今この瞬間、俺と相手は実技審査で立ち合いの歩合を競う敵同士かもしれない。
しかし――この審査会場を俯瞰すれば、同じ場所、同じ瞬間に同じ目的で集った同志なのだ。
この先も、同じ頂きを目指す仲間なのだ。
これまで竹刀を交えてきた幾多の剣士のことを――今竹刀を交えている眼前のこの相手を、手を握りあった相手のように親しく思う。
隼人の足が、床から離れる。竹刀の剣先が、会心の面を捉えた。
終




